「ダメだよ、フォン! クラークを倒さないと、あいつに情けなんてあるはずがない!」
「必要ないよ、クロエ。彼をやっと理解できたんだ、もう刃を交える意味はない」

 クロエは耐えきれず叫んだが、フォンは尚、因縁深いはずの相手を信じているようだった。
 倒し、倒されるはずの相手であったはずのクラークを、フォンは今や敵とは思っていなかった。ズボンのポケットに手を突っ込んだ、無抵抗の姿こそがしょうこだった。

「師匠を失って、生きる目的を失って、過ちを犯した――クラーク、君は僕と同じだ。覚えているか、いないかだけで、僕と君はずっと同じ痛みを抱えていたんだ」

 それは確信だが、確証ではなかった。フォンの願いと希望の集合体に過ぎなかった。

「だから、僕にはわかる。君の中に残り続けているのは、正しい感情だ。力の渇望と悲惨な過程がそうしただけだ……強情でも、勇者に仕えていた頃の君が、本当の君なんだ」
「一緒にすんじゃねえ! 俺はクラーク、勇者の遺志を継いだ男だ!」
「クラーク、自分の過ちを認めないと前には進めない。君が望みを果たしても、心を埋め尽くすのは闇だけになるぞ。それでも――永遠にもがき続ける覚悟があるなら、僕を殺せ」

 言葉は無用と思い、彼は目を閉じた。
 避けられるだろう。反撃できるだろう。そう、ここにいる誰もが思わなかったのは、彼の纏う気配が完全な無抵抗を意味していたからだ。
 話す必要がないと判断したのは、フォンだけでなく、クラークも同じだった。

「……やってやる……やってやるぜ、フォン! 俺様が殺してやるッ!」

 マリィの闇を受け入れた彼は、剣を構えて駆け出した。

「フォン!」
「やりなさい、クラーク! 貴方の為に、ハンゾーの為に!」

 弓を携えていながら射ようとしないクロエと、勇者の栄光を信じて顔を喜びに歪ませるマリィ。どちらも双方を信じたいからこそ、動かないし、動けない。
 ならば、ここはクラークの独壇場だ。このまま、憎き忍者を殺せるのだ。
 首を刎ね、四肢を斬り刻み、腸を裂く。今までの憎悪を全て、思う存分ぶつけられる。
 金色のオーラを迸らせる刃。最強の勇者の証を、完全なものにするのだ。

「これで俺は戻れるんだ! 勇者に、誰からも尊敬される最強の勇者に――」

 そこまで言って、クラークはふと、世界が遅くなるのを感じた。
 フォンに近づくのも、瓦礫が崩れるのも、自分の動きも全て、遅く感じた。

(最強の、勇者? 何の為に、最強になるんだ?)

 ふと頭を過った、一つの疑問が、彼の世界を揺るがしてしまったからだ。
 気迫も勝者の笑みも、一瞬で掻き消えた。代わりに残ったのは、自分が求め続けていた、維持しようとしていたアイデンティティすらも立ち消えになるほどの問いかけだ。
 誰もが尊敬する勇者。女を侍らせ、魔物を打倒し続ける勇者。永遠にギルディアに、国に名を遺す勇者。クラークの存在を、永久に知らしめたいとずっと願い続けていた。
 なのに、彼は何故、自分が最強の勇者の称号を求めているのか分からなくなった。

(どうして俺は勇者になったんだ? 誰にも尊敬されなくて、いつも頼りにされているのは『あの人』だけで、俺は何一つ感謝されなくて――)

 その時、クラークははっと気づいた。
 彼の記憶の中にいるのは、いつも『あの人』だ。あの人がここにいれば何と言うだろうか。今までなるたけ考えないようにしていたが、一度回想に浸れば、嫌でも思い浮かぶ。
 彼との日々は、多くが森や林の中だった。人々に頼まれて魔物を退治し、夜は焚火を囲んで話し合うことが多かった。大抵は世間のことやその日に倒した魔物のことを話した。
 金色の長髪と整った顔立ち、輝く剣を提げた若い『あの人』は、いつもクラークの向かい側に座っていた。まだ髪も逆立てず、勇者の証も持っていない彼は、やはりいつも、鬱屈した顔を隠そうとすらしなかった。

『――クラーク、いいかい。感謝なんて、口に出す必要はないんだ』

 そんなある晩、とうとう彼は、ぱちぱちと燃える火の向かい側でクラークに言った。
 この日もやはり、彼はクラークと共に魔物を討伐した。勇者は魔物を倒して、人を救って当然だと思われているので、誰も何も言わなかったのがクラークは許せなかったようだ。

『でも、勇者ガルシィ! あの人達は、貴方に助けてもらったのに礼の一つもなかったんですよ! それどころか、報酬も支払えないから帰ってくれだなんて!』
『いいんだ、彼らは助かった。大事なのはそれなんだよ』
『だからって……!』

 ガルシィ、と呼ばれた勇者は、小さく微笑んだ。クラークが何を考えているのか、どんな感情で今まで彼についてきたのかを、全て見抜いているようだった。

『……君には、少し許せないのかもしれないな。君が自分の力を見せようと、感謝されようと躍起になっているのも、きっとそこに原因があるのだろう。違うかい?』

 だから、一番突かれたくないところを突かれて、途端にクラークは狼狽した。

『そ、それは……』

 誰かに褒められたい。誰かから認められて、尊敬されたい。しかし、勇者のサイドキックにすらなれないただの付き人では、とても人の敬愛を集められない。
 こんな日々がいつまで続くのかと、クラークが思い悩んでいるのを、ガルシィは知っていた。彼は決して、クラークの考えを否定しなかったし、「そんな邪な意志で勇者の傍に居てはいけない」と、多くの人のようにねめつけもしなかった。
 ただ、己の信条を、勇者を目指す者に教えてやるだけだった。

『クラーク、許しなさい。自分も、他人も愛することで、人は初めて強くなれるんだ』

 はっと、クラークはガルシィを見た。
 愁いを帯びた目は、誰よりも優しくて、悲しく見えた。

『認められるのも、尊敬されるのもその過程にすぎない。もしも君が本当に勇者として生きたいと思うのなら――それだけは、忘れてはいけないよ』

 それだけは、忘れてはいけない。ガルシィは確かにそう言った。
 なのに、どうして今の今まで、忘れてしまっていたのだろう。
 もう一度、大袈裟なほど瞬きをすると、彼は元の世界に戻ってきていた。フォンが目を閉じ、今まさに斬り伏せられようとしている瞬間だ。
 しかし、さっきまでの殺意と優越感は、もうクラークの中にはなかった。

(――俺はどうして、忘れていたんだろう。勇者の言葉を、人を許すのを)

 迫るフォンの顔が、ガルシィに重なって仕方なかった。
 金色のオーラが鈍り、剣を握る手の力が弱まったような気がした。

(本当に、俺は勇者になりたかったのか? 愛されたいから、尊敬されたいから?)

 考えた。どうしてかを考えたが、もう考える必要すらなかった。
 答えは既に、クラークの心の中で確かに芽生えていた――最初から、だ。

(……そうか。俺は、勇者に成り代わったことを、出来心で犯した罪を許せないでいたんだ。勇者として好き勝手に暴れようと、認められたくて躍起になっていたのも、罪から目を逸らしたかったからだ)

 果たしてクラークは、自分の闇と弱さを認めたくなかっただけで、蛮行を働いた。
 マリィをフォンから奪い取り、サラとジャスミンを連れ、ギルディアで好き勝手に暴れ続けた。何もかも、求めていたからではなく、無意識に逃げ続ける手段として選んでいたからだ。永遠に奪い続けることで、永遠に逃げ切れるはずだと願っていたからだ。

(俺は許されない。それが怖くて、必死に逃げていただけだ)

 現実は違った。最初から逃げ切れるはずもなかったのだ。
 ただし、クラークの場合は、もっと大事な事柄にも気づけた。

(だけどもし、誰かが俺を許してくれたなら……いや、違う)

 フォンと同じだ。彼もまた、奪うより、殺すよりも大事な在り方を知った。

(俺自身が――クラークが、自分を許してやるんだ)

 許すことこそが、全てを終わらせ、始まらせる償いとなるのだと。
 彼が全てを悟るのと同時に、フォンに剣が振り下ろされた。