世界が黒く塗り潰されていく。
 意識が遠ざかってゆく。燃える背景も、亡骸も、何もかも黒く消えてゆく。
 全てがブラックアウトして、世界と自分が一つになる。もう一度溶け合い、過去と現在が一つになって、現実へと引き戻される。渦巻の中心にいるかのような感覚に惑わされながら、ふわりと宙に漂う錯覚を憶えながら。
 そうして瞬きを何度か繰り返し、フォンは還ってきた。

「――――あぁ」

 もう一人の自分と刃をぶつけ合う、死闘の最中に。
 これら全てが忍者の術かも知れない、或いは自分を惑わす策かも知れないと分かっていたが、それよりも大きな確信が、フォンの中には去来していた。
 彼はもう、記憶を何もかも取り戻していた。
 自分が何者なのか、誰なのか。ずっと知りたがっていた答えは、簡単だった。

「僕は、フォンですら、なかったのか」

 ――誰でもない。
 悲しみを埋め合わせる為に、忘れる為に作り出された偽りの人格。
 それが、フォンの正体だった。
 鍔迫り合い、火花が暗黒の中で弾けるのを見て我に返ったフォンだったが、彼の前にいるもう一人の自分は、現実の許容すら許さないかの如く、烈火の怒りを以って吼えた。

「――そうだ、そうだとも! お前は誰でもない、俺ですらないんだ!」

 フォンは、これまで幻覚は自分のもう一つの人格だとすら考えていた。
 そんな発想すら、本当のフォンにとっては烏滸がましかったのだ。自分として挿げ代わり、自分の代わりに師匠から与えられた平穏を享受する様が、許せなかったのだ。

「師匠が作りすらしていない! お前は自分を守る為の、記憶を思い出さないようにする為のストッパーに過ぎないんだよ! そうさ、人格ですらない!」

 憤怒の全てを叩きつけるかのように刀を押し付け、幻影は叫んだ。

「お前は、フォンという人間にとって、邪魔な存在だ!」

 いや、今や、幻影は自分をフォンだと思っている誰かの方になっていた。
 自分が何者であるかを追い求める旅の結末は、果たして何者でもない自分の正体を見出す、最悪の終わりを迎えようとしていた。自分が偽物ですらない、無にも近しい存在だと知ったフォンは、それでも足掻くように苦無を振るった。
 勿論、先程までの鋭さはどこにもない。必死になって武器を振るい、どうにかして自分の存在証明をしようとする姿は、幻影――かつてのフォンからすれば酷く滑稽で、許しがたい姿として映る。

「違う、僕は……」
「さっきも言っただろう、違わないって! お前は世界に不要なんだよ!」

 罵倒ではない。罵詈でもない。
 フォンが放つ言葉の全てが、正当な理屈なのだ。そう知っているからこそ、フォンも強く出られず、刀の猛攻の前に一方的な防戦を強いられている。
 迷い、戸惑いながらもまだ生きようと足掻く姿に、黒い影は怒りを一層募らせる。

「恐怖に屈したか、自分の正体を知って絶望しているのか!? だがな、よく考えてみろ! 絶望したかったのはどちらか、苦しんでいるのは誰か!?」

 児戯の如く刀を叩きつける姿は、忍者というよりは憎悪の化身だ。ただひたすらに眼前の敵を滅したいと願う、忍者の在り方から遥かかけ離れた具現だ。
 だとしても、フォンには指摘する資格も、権利もない。苦無を握る手の力が弱まっているのが示す通り、彼は自分の罪を、他者から奪ったものの重みを理解してしまっている。

「俺だよ! お前という邪魔者が本物面して表に出ているせいで、俺はどこにも行けなかった! 師匠が望んだ新しい世界にすら行けなかった! なんでか分かるか!? お前という人格が生まれたからだッ!」

 フォンだった彼は、ただの簒奪者。
 幻影だと思っていた彼は、本当の勇気ある者。
 どちらが生きるべきか、消えるべきかは明白。

「仮初にも満たない奴が、これ以上俺の未来を阻むなあぁッ!」

 言葉の刃を突き刺されたフォンは、まるで怪我を負っていないと言うのに、とうとう苦無を振るう手を下ろしてしまった。まだ戦いが終わっていない彼が戦闘の意志を放棄したということは、結論は一つだ。

「……僕、は……ッ!」

 項垂れた彼の目は、既に生きる意志すら失っていた。
 自身の存在と生まれ、足掻きすら罪であるのなら、諦める他に道はなかった。
 本物のフォンは、無慈悲な追撃を行わなかった。代わりにゆっくりと彼に近寄ると、血の色すら薄れ始めた紛い物未満の首に、冷たい刃をあてがった。

「……ようやくか。ようやく、死ぬ気になってくれたんだな?」

 止める者はいない。拒む者もいない。
 音すら聞こえない世界で、全てが元通りに戻るだけだ。

「本当なら、もっと早くこうなるべきだったんだ。俺が師匠から譲り受けた未来を奪った奴が、のうのうと生きていることそのものがおかしかったんだよ」

 儀式は執り行われる。簒奪者の首を刎ね、終わりから新たなフォンが始まる。

「それじゃあ――終わりだ」

 振り上げられた刀が煌めき、虚構を死へと誘う。
 狭間の、刹那の隙間の中で、彼は最期を想う。

(……僕は、僕ですらない。何者でもない、ただのフォンでもない)

 生きることが間違っていた。
 無意味に意味を見出し、彼は常に罪を積み上げ続けていた。

(存在そのものが間違っていたんだ。フォンの為にもいなくなるべきなんだ)

 自分がいなくなって、誰が困ると言うのか。誰が苦しむと言うのか。そうでないとしても、フォンであったはずの男が怒り、悲しみ、苦しんでいるというのに。
 ギルディアの街に来たのも過ちだった。勇者パーティを崩壊させたのも間違いだった。自分の足跡が、痕跡が、何もかも失敗に過ぎなかった。
 誰かの進むべき道を封じ、閉ざし、なり替わっていただけなのだから。
 だから、死も必然だ。

(僕はいなくてもいい、ここで消えるべきだ――)

 目を閉じていても、刃が振り下ろされる風は感じられる。
 彼はここで終わる。
 もっとずっと早く来るはずだった終わりは――。

「――フォン!」

 静寂を裂く一言で。

「――ッ!」

 開かれた瞳と、無意識に近い速度で翳された苦無で、遮られた。
 幻聴ではない。死の間際に聞こえた戯言でもない。
 ――クロエの声が、完全なる闇を切り裂いたのだ。