悍ましい現実を、フォンは一瞬だけ拒んだ。
 目を閉じて、もう一度開けば忍者としての日々が戻ってくるのだと信じた。しかし、自分の意志とは裏腹に動く瞼がもう一度彼に見せた世界は、凡そ変わらなかった。

(――嘘だ)

 心の中でだけ首を振っても、何も変わらない。

(嘘だ、嘘だ、なんで、なんでこんなことになっているんだ!?)

 あるのはただ、火によって埋め尽くされた惨状と、倒れた木にもたれかかる先代フォン。
 しかも、変化が起きているのは彼だけではなかった。

(それに、先代だけじゃない! どこの軍隊かは知らないが、兵隊の死体まで……!)

 鎧に身を包んだどこぞの兵隊が、何人、何十人も地に伏せていた。いずれも血塗れで、体の多くを欠損していて、いかにも生きている様子ではなかった。明らかに里の関係者ではない彼らがどうしてここにいるのか、全ての答えは会話から始まった。

「……どうして……」

 先代フォンの息も絶え絶えな声に答えたのは、目だけで醜く笑むハンゾーだ。

「どうして、じゃと? どうして儂への反逆がばれたのか、どうして一国の軍隊をこちらに寄越して里を滅ぼす計画が筒抜けだったのかと?」

 反逆の計画は、成功まで間もないところまで来ていたようだ。軍隊を率いて里に奇襲を仕掛け、忍者を悉く殺す寸前までことがうまく運んでいたらしい。
 ならば、どうして失敗したのか。兵隊が皆殺しにされ、先代フォンが死の淵に立たされているのか。何より、三代目フォンが師匠を睨み、見下ろしているのか。

「……知っている、奴は、いない……誰も……」

 ぜいぜいと肩で息をする先代に、ハンゾーが告げた。

「――三代目フォンはどうじゃ?」

 三代目フォンが、内通者であると。
 最も信じていた者が最大の敵であるという、信じがたい真実を。

「――ッ!?」

 先代も、心の中のフォンも、目をかっと開いた。

(……そんな)
「……有り得ない……こいつがお前の術を受けたところを、俺は一度も……!」

 唖然とするフォンの前で、先代は血を吐きながらも反論する。
 一方で、彼の弟子は表情を一つも崩さない。ハンゾーも、レヴォルも、その他の忍者全てがフォンを味方とし、脅威などとは考えていないようだ。

「儂がこやつをとある村から連れ出した時に、既に済ませておる。お主にその姿を敢えて見せんかったのじゃ。従順な態度をこやつに取らせるだけで味方だと信じ込むとは、お主はつくづく忍者には向いておらんのう」
「それじゃあ……最初から……!」
「そう。最初から、三代目フォンは儂らの味方よ。いいや、味方も敵もない。こやつは里に忠実で、且つ儂に忠心を誓った、自我のない人形よ」

 先代フォンの計画は、果たして最初から全てが破綻していた。

(じゃあ……僕が情報を流し、ハンゾーの味方として……!)

ハンゾーが彼を連れてきた時から、先代フォンが彼を弟子にした時から、計画を教えた時から――信用してしまった時点で、計画が成功するはずがなかったのだ。
 狂ったように鳴る心臓が、フォン自身が洗脳されたという事実を告げていた。彼の才能を見出したハンゾーが故郷を破壊し尽くし、連れて来る前に忍術による洗脳を済ませた。先代フォンの前でそのようなそぶりを欠片も見せず、心が壊れたのだと話した。
 何もかもを疑ってかからなければならない忍者が、ただ二つだけを疑い忘れていた。弟子が自分に忠実であると、ハンゾーに反旗を翻すのだと――現実は、そのどちらでもなかった。寧ろ、真逆とも言うべきだった。
 事実は一つ。刀を携えたフォンによる、計画の破壊だ。

「いかに感情が内側に存在するとしても、喜怒哀楽を知っていたとしても、外に出す術を知らん。儂が洗脳して抑え込んだからな。人間として奴の本性が表に出れば、お主の計画も成功していたじゃろうが……まあ、ありえんことよな、くくく」

 ハンゾーの言葉に従うかのように、他者の血に塗れたフォンが歩き出す。

「二重スパイにも気づかず、禁術を処分して反逆した気になり、軍隊を率いて里に攻め込む……結果はどうじゃ? 三代目一人に兵隊は皆殺され、二代目、お主は最早虫の息じゃ」

 闇にしか染まらない彼が見据えるのはただ一つ、忍者の里の障害の排除だ。

「では……三代目、いいや、次期フォンよ。反逆者への処罰を下せ」

 即ち、先代フォンを殺すことだ。
 今のフォンにとっては決してあり得ない、有り得てはならない事象だったが、過去のフォンは躊躇いなく前へと進む。赤く染め上げられた刀を先代に向ける様を同じ目で見て、彼の心は狂ったように叫び出す。

(よせ、駄目だ、駄目だ! 殺しちゃいけない、『人不殺』の掟があるはずだろう!)

 必死に制止を促すが、彼は聞く耳を持たない。感情を何もかも殺した彼にとって、ハンゾーの命令だけが真実であり、これまでの何もかもが虚構なのだ。

「フォン……よせ、やめてくれ……」
(止まれ、頼む、止まってくれ! 殺さないでくれ、お願いだ、殺さないでくれ!)

 ここで人を殺せば、彼は永遠に戻って来られなくなる。思い出を、記憶を、喜びを間違いなく与えてくれたはずの恩師を殺めるというのは、心に永遠に消えない傷を生み出す。
 何より、先代は素晴らしい人間だ。自分なんかよりもよっぽど生きる価値のある、正しい心の持ち主だ。死なせてはならない。『人不殺』という教えを、今全うしなければ。

「忍者の目的を……正しい、道を……『人不殺』を思い出すんだ、フォン……」

 轟轟と家屋が崩れ落ちる音が、獣達が逃げ出す音が、先代のか細い声を掻き消す。
 そうでなくても、今のフォンはただ何も感じず、何も答えず、先代の真正面に立つ。無表情とは裏腹に、記憶を見せつけられているフォンは今まさに狂いかねない顔つきだった。

(やめろ、やめろ、やめろ! やめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろ――)

 刀を振り上げる。先代は澱んだフォンの目と己の目を合わせ、静かに語り掛ける。

「人を殺さず、じゃない……殺めるならば、正しさと、己の信じた意志で――」

 『人不殺』の真の理由を、任務であれば悉く殺していたフォンへの戒めを。
 忍者としてではなく、人間として大事な全てを教えてやれなかった後悔を。
 尚も彼を愛し、信じ、守り抜こうとした誇りを。
 その末に何もかもが無意味になるとしても、先代は伝えようとした。
 ――彼の言葉は、冷たく遮られた。

(――――あ)

 冷徹無比なる忍者の刃が、反逆者の胸を貫いた。
 噴き出す血。抜かれる剣。消えゆく命の灯。
 『人不殺』の掟は、終ぞ守られなかった。
 彼の死を以って、教えなど何もかも無意味であると証明された。
 滴る血を、斃れる体を見た時、フォンの心は叫んだ。

(――ああああああぁぁぁああぁぁあぁぁあああああああああああッ!)

 心が壊れるほどに、叫んだ。
 それしかできない彼の体から、瞳から涙が伝い、感情は深い闇に呑まれた。
 ――殻が割れるような音と共に、真の闇が目覚めた。