「……いつから?」

 今年の冬は、特に寒い。夜ともなればその寒さはひとしおだ。シンと冷えた空気は透明と白の間の色をしていて、ほんの小さな息遣いさえもどこまでも響くように感じられる中に不機嫌な僕の声が響いた。

 ここは家の近所にある公園。この町には大きな川が流れており、それと大通りの橋が交差する角にひっそりと佇んでいる。
 通りからは一段低いところに作られているためか、夜になるとほとんど人が通ることはない。川に向かって下っていくように半円状に段差が作られていて、さながらスタジアム状のステージのようだ。もちろん僕はそのステージの中央に立っているわけじゃなく、客席ともとれる端っこの段に腰掛けている。

 ──アコースティックギターを抱えて。

「だから、いつからそこにいたわけ?」
「ええっと、今の曲が始まった頃……かな?」

 重ねた僕の質問に首をすくめて「へへっ」と笑ったクラスメイトを前に、僕は大きくため息を吐いたのだった。



 転校してから一週間が経過していた。僕の思惑通り、あれ以来誰ひとりとして学校で僕に声をかけてくる生徒はいない。たまに、あの伸びかけ坊主頭が話しかけてくるが、それもことごとく無視している。
 友達なんて必要ないし、馴れ合いなんてごめんだ。転校してきたばかりでわからないことだらけ。それでも別に、そんなことは構わなかった。学校も勉強も生活も、なにもかも今の僕にとってはどうでもいい。例えば明日死んだって、僕は後悔なんてしないだろう。

 そんな僕でも、ひとつだけ新たな生活のルーティンとなったことがあった。それが、夜にこの公園でギターを弾くというものだ。
 別に趣味というほどのものではないし、ギターが特別に好きというわけでもない。それでも胸の奥にたまに湧き上がってくる正体不明のイライラだとか、どうしようもない不安感だとか、自分に対する嫌悪感だとか、そういうものをかき消すように僕はここでギターを弾く。ときには胸の中に溜まった言葉をそのままメロディにのせることもある。

 ──そして、それを今まさに同じクラスの女子に聞かれてしまったわけである。

「それよりさ、朔田くんってギター弾けるんだね」

 教室では僕と対角線上の席──廊下側の一番後ろの席に座っている彼女の名前は、沢石(さわいし)咲果(さきか)。クラスの中心人物というわけではないけれど、いつも笑顔でいるため友達が多いようなイメージがある。多分お人好しな性格なのだろう。担任から雑務を任されている場面もあった。
 ちなみに名前を覚えているのは、僕の昔からの癖というか、ひとつの特殊能力みたいなものだ。一度見た人の名前と顔は、絶対に忘れない。そこに興味の有無は関係なくて、勝手に名前と顔がインプットされていくというような感覚だ。
 彼女は転校初日に僕を取り囲んだ輪の中にはいなかったと思うから、こうして言葉を交わしたのは初めてのこと。もちろんあの教室内にいれば、僕が周りとの関わりを断つためにとっていた言動は見ているはずである。それなのに、彼女はこれはいい機会と言わんばかりに、するりと僕の隣のコンクリートへと腰を下ろしたのだ。

 立ち上がった僕は、三歩離れてもう一度腰を下ろす。沢石咲果はそんな僕のことを見上げて、「(かたく)なだなぁ」と小さく笑った。

「……別に」

 うまく言えただろうか。一週間前教室で放ったものと同じ言葉のはずなのに、その響きはどこか頼りなさを含んでしまう。
 僕は多分、動揺していたのだと思う。こんな風に夜の公園でギターをかき鳴らし自作の曲を歌っているところを見られてしまったという羞恥心。誰との関わりも持ちたくなくて人を寄せ付けないオーラを常にまとっていたはずなのに、彼女がためらいもなく僕の隣へと腰を下ろしたという事実。そして、本来であればギターをしまってさっさとこの場を立ち去るのが僕の取るべき行動であるはずなのに、ただ距離をとっただけでこの場所にとどまるという選択をした自分自身に、僕は内心ひどく動揺していたのだ。

「いっくんってさ、音痴なんだね」

 突然のいっくん呼びに、思わず僕はバッと勢いよく顔を向ける。作戦通りといった表情の彼女と視線がぶつかって、気まずさでまた顔をそらした。そんな呼び方をすれば僕が反応すると予想していたのかもしれない。沢石咲果は嬉しそうに、もこもことしたスエードブーツのつま先をぶらぶらと揺らす。

 確かに、僕は音痴だ。ギターはなんとなく弾けるものの、演奏するのと歌うのは全く別の次元の話。自分でもわかっているから、人前で歌ったりはしない。前の高校でも、友達とたまに訪れたカラオケではタンバリンを鳴らしたりガヤを入れる専門だった。
 それじゃあ歌うことが嫌いかと言われれば、そういうわけではない。だからこそ僕は、今もこうして夜の公園なんかでギターをかき鳴らしつつ歌ったりしているのだ。もちろん、誰も聞いていない、というのが前提だったわけだが。

 いつもは制服姿の彼女だけど、夜八時というこの時間、暖かそうなコートにニット素材のスカートと黒タイツ、首元にはもこもこのオレンジ色のマフラーをぐるぐると巻いている。
 毎年冬が来るたびに思うのだが、寒さを凌ぐためのアイテムというのは女性ものの方が充実しているような気がする。彼女のスカートはまるでブランケットのようで、これを巻いていれば真冬のアスファルトに座ったって冷えは容易に(しの)げるだろうなと思った。
 対する僕は、スウェット上下にダウンコートというラフな出で立ち。スウェットは普通の素材なので、地面に接している部分はすでに熱を失っている。

「怒らないんだね」
「なにが……」
「いっくんって呼んだことも、音痴だって言ったことも」
「別に……」

 ああまただ。僕にとって最強の台詞であるはずのこの三文字が、今日はその威力を全く発揮してくれない。
 これ以上黙っていたら、彼女のペースに流されてしまうかもしれない。そう思った僕は、話の主導権を握ろうとこちらに来て初めての質問を口にした。

「沢石は、こんな時間に何してたわけ?」

 別に興味があったわけではない。ただ、自分のペースを守るために口にしただけの問いだ。すると彼女は、うーん、と空を見上げながら考える素振りを見せた。

「夜の散歩──ってとこかな」

 散歩? こんな寒い夜にわざわざ? 大体、「――ってとこかな」という濁し方も意味がわからない。

 そんなちょっとした疑問は浮かんだものの、僕はただ「ふうん」とだけ返した。少しだけ落ち着きを取り戻す。
 いつもの僕が、戻ってきたみたいだ。
 よし、と息を深く吸うと、足元にもふっとした感触がまとわりつく。驚いて見下ろせば、そこにはずいぶんと図体のでかい猫が一匹。ごち、と僕のすねに自らの頭を擦り付けたあと、彼女の足元へと向かった。

「……猫? かわいい、もふもふだねぇ。よしよし、いいこいいこ」

 月明かりの中、慣れた手付きで柔らかい背中を撫でる彼女はどこか幻想的で、僕は一瞬目を奪われてしまう。すると不意に、彼女がその姿勢のままで僕の名前を呼んだ。

「いっくん、ひとつお願いがあるんだけど」

 見つめてしまっていたことに気付かれたような気がして、僕は咳払いをしながら顔を上へと向けた。冬の夜空には、いくつもの星が瞬いている。知らなかった、この町では星がこんなにも綺麗に見えるらしい。

「なに」

 そのまま僕は、短く答える。別にお願いを聞いてあげる義理なんてない。だけど歌っている姿を見られたという弱みがあるせいか、内容によっては承諾してやらないこともないと僕は思っていた。

「沢石じゃなくて、咲果って呼んでくれないかな」

 しかし彼女からの願いごとは、僕が想像していたものとはかけ離れた内容だった。だって例えば「あの歌を聞かせて」と無茶ぶりをされるとか、寒いから肉まんおごってと催促されるとか、そういうのをイメージしていたから。

 ゆっくりと視線をおろした僕は、不思議な思いで彼女を見つめる。さらさらと揺れる薄茶色の長い髪の毛。くるみ色の瞳に、きれいにカールした長いまつげ。通った鼻筋と形のいい唇。寒さのせいか、ほんのり赤く染まる鼻先と頬。その全てから、やはり僕は目を逸らせない。

「……なんで」

 やっとのことで僕は、その一言を発する。それでも未だ、僕の瞳は彼女の姿を捉えたままだ。引力に逆らえないように、視線は彼女へと吸い込まれていく。そこで、くしゃっと彼女が笑った。
 まるで魔法が解けたみたいだった。その表情で、僕はハッと我に返る。途端に気恥ずかしさがせり上がり、「なんでだよ」ともう一度、面倒くさく聞こえるようにそう発し視線を正面の川へと投げる。

「みんなそうやって呼んでるし、沢石なんて他人行儀な感じじゃない?」

 明るい声でそう言う彼女は、いつも教室で見かける彼女の姿と同じだった。
 不思議な感覚だ。なんだかまるで、クラスにいる彼女とは別の人物と話していたのではないかと思ってしまうような空気感がそこにはあった。

「他人だろ」

 彼女といると、必死に守ろうと重ねていた鎧がいとも簡単に剥がれてしまう気がしてくる。あまり深く関わらない方がいい。そう感じた僕は、足元のケースにギターをしまうことにした。

「お願い!」
「無理」
「一生のお願い!」

 何が一生のお願いだ。こういうことを言うやつは、絶対その台詞を何度も使い回すんだ。しつこく頼み込んでくる彼女に、僕は大きくため息をついた。

「なんだよ。言うことをきかなかったら、音痴な僕が夜な夜な公園で歌っているとでも言いふらすわけ?」

 嫌味で言ったつもりだった。いかにも善人といった雰囲気の彼女は、絶対にそんなことをしないだろうというおごりがあったのも事実だ。
 しかし目の前の彼女は僕の言葉を聞くと一瞬きょとんとした表情を浮かべ、それからにんまりと口元に弧を描いた。

「それ、名案だよいっくん!」

 ──これが、僕と彼女の出会いだ。いや、学校でもともと顔は合わせていたのでその言葉は的確ではないのかもしれない。それでも、これが始まりだった。



 僕と彼女は確かにこの夜、この場所で〝出会った〟のだ。