幼い頃から歌がうまかった咲果は、このあたりではちょっとした有名人だったらしい。当たり前のように周りは歌手になることを彼女に夢見させ、本人もそれを望んだ。だけど少しずつそんな〝大きな夢〟を語るには、現実が重みを増すようになっていったのだ。
「思春期になると、みんな素直に自分の思っていることを口にはしなくなるじゃない? 将来の夢とか聞かれても『わかりませーん』って答えたりさ。だけどわたしは、小さい頃と変わらずに歌手を目指してるって話したの。そしたらみんな、なんて言ったと思う?」
咲果はまるで昨日見たドラマの話をするかのように、熱を込めて、だけどどこか他人事のように話をする。
「なんて?」
大体想像はつく。だけどその疑問符が求めているのは正解なんかじゃなくて、彼女に語らせるための返事だ。
咲果はすう、と息を吸い込むと、まるでそのときの様子を再現するかのように一息に言葉を吐き出した。
「〝まだそんな夢をみてるの?〟〝そろそろ大人になった方がいいよ〟」
いつの間にか咲果の足元に擦り寄るように現れたまんまる猫の額を指先で撫でながら、彼女はそう言い放った。
そこには当時彼女が感じたのであろう友人からの軽視、嘲笑が色濃く表れていた。もしかしたら友人たちは、そこまで深い意図や考えなく発した言葉だったのかもしれない。それでも本気で自分の進みたい道を信じ、周りの大人たちからもそれを否定されそうな気配を敏感に感じ取っていた当時の咲果にとっては、今でも忘れられない瞬間となってしまっているのだろう。
だけどその想いを切り取って、悲話として語ったりしないのが彼女のすごいところだ。当時のことをこうして淀みなく語ることができるのは、忘れられない瞬間をトラウマとして残すのではなく、自分と切り離した過去の出来事として記憶させることができているから。
過去を語る彼女の声は決して震えてなんかいなく、その当時のニュアンスは残されているものの、それでもやはりどこか自分のことではないような響きを持っていた。
もちろん表情にも、滲み出るような負の陰りはない。僕にはそれが、反って切なく感じたのだ。
「……前にも言ったけど、僕はなれると思ってる」
「……え?」
「咲果がその夢を叶えられるって、本気で思ってる」
咲果の両親がここにいたら、なんて無責任なことを言うんだと怒るかもしれない。だけどこれは気休めでもなんでもない。咲果を慰めるためでもご機嫌をとるためでももちろんない。僕の本心だ。
咲果の歌声を聴いたとき、僕の中で世界が動いた。怪我をしたあの瞬間、壊れてしまった僕の中の方位磁石。北を見失いぴくりとも動かなくなったあの矢印が、再びゆらゆらと揺れながら北を探し始めたのだ。
うまい歌を聴いただけじゃ、そんなことは起こらない。綺麗な歌声に触れただけでは、心にできたささくれは治らない。
何もかもがどうでもいいと思っていたんだ。生きていても死んでいても、変わらないと思っていた。誰とも関わりたくなんてない。何もかもが、どうでもいい。
そんな僕に変化を与えてくれたのは、彼女の歌声だったのだ。
「僕だって同じだったよ。サッカー選手っていう夢を馬鹿にするやつらもいた。だけどそいつらが、僕の道を作るわけじゃない。自分の未来は、自分で決めていいんだ」
この辺でちょっとサッカーが上手い、というだけじゃプロになんかなれるわけない。例えばサッカーの強豪校へ行って必死に練習をしたからといって、必ずレギュラーになれるとも限らない。だけどそれと同じように、周りが反対したからといって、無理だと笑ったからといって、それがサッカー選手という夢を妨害することには繋がらない。サッカーをやめない限り、可能性はゼロにはならないのだ。
だからこそ、僕はあの高校を選んだ。サッカー推薦で入れるならば、みんなが受験勉強をしている間にも練習できる。入学前の春休みから、先輩たちに混じって部活動に参加することも許された。
どんなに険しく見えても、そこへと繋がっている道の上にいるという実感がモチベーションの全て。だからこそ僕は、その道の上にいることすらできなくなったときに何もかもを手放してしまったのだ。
「……そうだね、そうかもしれない」
咲果はやっとといった様子でそう答えた。
語尾が少し震えて聞こえたのは、僕の考えすぎだろうか。顔を上げた彼女の表情は笑っているのに泣いているようにも見えて、僕の心臓は激しく飛び跳ねる。
以前と同じだ。彼女は泣かない。だけどどこか、泣いているように見える瞬間がある。そしてその後には──。
「……いっくんの、言う通りだと思う! 未来は自分で決めていい!」
嫌な予感が現実となった。彼女は不自然なほどの笑顔をパッと顔に貼り付けると、明るくそう言い放ったのだ。