こほんと咳払いをした僕は、そっと右後ろを振り返る。音楽室での席順は自由なのに、やはり彼女も僕と同じく、教室での席と同じように廊下側の一番後ろに腰掛けている。隣には倉田が座っている、というのが教室とは異なる点だ。

 以前、川沿いの公園で彼女の歌を聴いたとき。正直に言って全身に電流が駆け抜けたような気がした。それは単にうまいだとか声が綺麗だとかそういうのとはまた違って、ただの校歌だというのに一気に彼女の世界に惹き込まれるような感覚に包まれたのだ。
 まるでそれは、柔らかく透き通るような青い空と空気の中へと真っ逆さまに落ちていくみたいな感覚だった。頭上に広がる空へ落ちていく、しかもそのときの時間は夜だったわけだし、全体的におかしな表現だというのはわかる。だけどあのとき僕は確かに、そんな風に感じたのだ。

 ──彼女にとって、歌は特別なもの。

 そんなことは、一度彼女の歌を聴いただけの僕でもわかった。僕なんかより付き合いの長いクラスのみんなだってそのことはよく知っているはずだし、メインパートの中心は彼女になるに違いない。

「はい、それじゃまずざっと数確認するわね。メインパートやりたい人?」

 頭の真上で丸いお団子を作った音楽教師がそう言うと、ぱらりぱらりと手が上がった。
 あれほどに自信満々に立候補すると言っていたボウは、なぜかそわそわと周りと見回すだけで手を挙げる気配はない。さっきまでの勢いはどこにいったんだ。「やっぱちょっと、メインは高音もあるしな」だなんて言い訳をするようにぼそぼそと言っているけれど、別に僕はボウがどのパートをやろうが構わない。

「関口さん、前沢さん、村上さん、葉山さんね」

 カツカツと黒板に挙手した生徒の名前を書いていく先生。メインパートに立候補したのは女子ばかり。確かにボウが言う通り、高音が多いのも影響しているのかもしれない。──とそこに、あるはずの名前がないことに僕は気付いた。

「それじゃ次、ソプラノパート希望の人、手を挙げて」

 首をぐるりと捻り、対角線上を確認する。咲果は隣の倉田とクスクスと笑い合っているだけで、ここにも手を挙げる素振りはない。てっきりメインパートを希望すると思っていたのに。歌がうまくて、歌うことが好きで、誰もが認める歌声を持つ彼女が、どうして未だに手を挙げないのか。

 結局彼女が手を挙げたのは一番最後、僕と同じバックコーラスのパートのところだった。

 僕の強い視線に気付いたのかもしれない。咲果はこちらを見て僕の視線を受け止めると、へらりと笑って首をすくめ、あっという間に視線をほどいた。
 ざわざわと胸の奥が、嵐の前の強風に吹かれた雑木林のように大きく揺れる。彼女がどうしようと、僕には何も関係のないことだ。それでもあの夜、『歌手、なりたかったな……』と諦めたように笑った彼女の姿が脳裏に色濃く蘇る。あれはきっと、本心だった。

「咲果がバックコーラス……?」

 ぽつりとこぼれ落ちた呟きを、ボウは耳聡く拾い上げる。それから僕の視線を追うように首を捻り、「ああ」と大して驚きもせずに顔の向きを戻した。ついでに言えば、ボウも結局俺と同じくバックコーラスに挙手をした。明るく調子が良いボウは、実際にはかなり真面目で、それでいて若干の小心者でもあるのかもしれない。本人が自覚しているかは知らないけれど。

「咲果はバックコーラス以外やらないよ。本当なら合唱には参加もしたくないだろうし」

 配布された楽譜の端を三角形に折りたたみながらそう言うボウに、僕は違和感を覚えた。彼の様子が、あまりにも当然のことを話しているかのように見えたからだ。
 この町で小さな頃から一緒に育ってきたボウなら、咲果の実力を知っているはずだ。それでも彼女がメインを選ばなかったことに何の疑問も持っていないなんて。
 「なんで──」という言葉を、喉の手前でごくんと飲み込む。

 ──そんなことは、本人に聞けばいい。

 前の席から回ってきた楽譜を見もせずに、咲果は倉田と相変わらずにおしゃべりをし続けていた。