ギターから離れた僕がその存在を思い出したのは、怪我をして家から出られなくなったときだった。
 悔しくて悲しくて、イライラが止まらなくてやるせなくて。あのときの僕は、自分でもひどかったと思う。八つ当たりという八つ当たりを、繋がりのある人全員にした。

 母親はそれを黙って受け止めてくれたが、父親はそうはいかない。何度も喧嘩をし、家出をすることもできない自分の体と年齢を心底憎んだ。
 心配してくれた仲間たちからのメッセージも全て削除して連絡を絶った。サッカーしかしてこなかった僕は、このやり場のない気持ちをどうしたらいいかわからなかったのだ。

 そんなある日、僕はサッカーに関わるものを全て処分することを決意した。今思えば、それは決意というよりは、諦めきれない気持ちの捨て方を他に見つけられなかっただけかもしれない。

 散らかった部屋の中、目についたものを大きなゴミ袋に次々と入れていく。
 ユニフォーム、靴下、ジャージにバンテージ。冬場を共に乗り越えたベンチコートに、サイズアウトしたのになぜか捨てられずに取っておいたおんぼろスパイク。棚の上のトロフィーに、地区大会で優勝したときの金メダル。幼少期のサッカークラブ時代の思い出が収められた大きなアルバムに、憧れの選手にもらったサイン色紙。〝サッカー選手になれますように〟と書いた子供の頃の七夕飾り。

 袋に詰め込むたび、涙が溢れた。悔しいのか、悲しいのか、失うのが怖いのか。よくわからないけれど、あのときが一番、僕が涙を流した瞬間だと思う。
 サッカー用品がなくなったクローゼットの中は、気付けば空っぽになっていた。たったひとつ、ケースに入ったままのギターを除いて。

「今も弾いているっていうことは、ギターがいっくんを支えてくれたんだね」

 静かに話を聞いていた咲果は、そう言って目を閉じる。

 こんなことを、誰かに話す日が来るなんて思わなかった。無理やりに遠ざけて、くしゃりと丸めて投げ捨てた夢。そのとき僕は、自分自身の心も同じように──もしかしたらそれ以上に、ぐしゃぐしゃに握りつぶして捨てようとしていたのかもしれない。
 しかしそれが今、ギターと咲果の言葉によって少しずつ元の形へ戻ろうとゆっくり開いていくのを感じていた。

『樹が奏でる音は、優しく透き通った音がする』

 縁側に並んで座る、幼き日の僕とじーちゃん。ミンミンと蝉がせわしなく鳴いて、僕はばーちゃんの入れてくれたシュワシュワの乳酸飲料が入ったグラスに口をつける。氷がカランと音を立てて、ツウっとグラスの表面を結露が滑り落ちる。じーちゃんはあさがおが描かれたちょっとヨレヨレのうちわをパタパタと仰いで、僕にもっと聞かせろと催促をする。蚊取り線香の燻した匂い、台所から聞こえてくるトントントンという野菜を切る音。そんな中で、上手いとか下手とか気にせずにただただ楽しく音を奏でる。

 久しぶりにギターの弦を弾いたとき、そんな懐かしき夏の日の光景が鮮やかに浮かび上がったのだ。

「──いっくんの音楽は、人を幸せにする力があると思うの」

 ふたりだけの静かな教室。

 彼女の言葉は、リンと響く鈴の音のように僕の鼓膜を優しく揺らした。