大好きな人たちがいる。
 その人達が幸せになってくれれば、何もいらない。
 だから、いくらだって祈るよ。
 私にはそれしかできないけど。
 いくらだって祈るよ。
 私の全てをかけて祈るよ。

 ***

 それは昔からこの家にいた。遠い遠い昔、あまりにも古いこの家が建ってすぐから、ずっとずっといた。
 それは幼い子供の姿をしていた。肩で切りそろえた黒髪に赤い紐を結わえて、薄紅色の振り袖に身を包んでいた。
 それは、自分が何者かも知らなかった。ただずっとこの家にいた。

 それは、この家の者達を好いていた。誰も自分を知らないのに。誰も自分を見ないのに。誰も自分を感じないのに。それでも、この家の者達を好いていた。
 ただ一人、時の進むことのない自分を、誰かが置いて逝く度にわんわん声をあげて泣いた。住人が新しい住人を連れてくると跳ね上がって喜んだ。新しい命が生まれれば泣いて祝福した。住人が彼女を知らなくとも、彼女にとって住人は家族だった。

 一方的で構わなかった。誰にも何にも知られなくて構わなかった。彼らが幸せなら、何もいらなかった。

 ***

 住人が増えた。新しい小さな命。その子は、今の家主の四番目の孫で、長男夫婦の二番目の子だった。
 赤ん坊は、それを見つけるとうれしそうにきゃっきゃっと笑った。

 特に驚きはしなかった。子供というのは、不思議なモノが見えるものだ。現に、この子の兄も父も、自分が見えていた。今までと同じように、この子もすぐに見えなくなるだろう。そういうものだ。

 布団の横に膝をつき、腕を支えに前に乗り出して、まだぽわぽわの頭をなでた。赤ん坊が「うきゃあー」と楽しそうな声をあげる。それもくすくすと笑った。

「君が幸せになりますように。」

 私がいっぱいいっぱい祈るよ。

 ***

 すぐに見えなくなるはずだった。
 そのはずだったのだ。

(しい)」は押し入れの中で膝を抱えながら、ため息をついた。
 ガラガラと玄関方向から引き戸を開ける音がした。続いて、また同じ音で閉まる。ばたばたと木の廊下を小さな足音が駆けてくる。廊下と子供部屋を遮るふすまを開け放つと、足音の主はそのままの勢いで押し入れのふすまもぱしんっと開けた。

「椎! ただいまーっ!」

 黄色のランドセルを背負った、活発そうなショートヘアの少女は、椎の両手をつかむと力任せに引っ張り出した。

「ちょっと、ヒナコ……っ」
「ただいまっただいまっ椎!」

 少女はきゃっきゃっと笑う。その笑顔は七年前と何一つ変わらない。
 ころころ布団を転がっていた赤ん坊は、たった七年の歳月で椎と同じくらいの大きさに成長した。それは構わない。いつものことだ。すぐ追い抜かれるだろう。

 だというのに、それくらいの歳になっても彼女はいまだに椎が見えていた。こんなことは初めてで、椎はどうしたらいいか分からない。
 押し入れから引っ張り出されるのも、腕をつかまれて振り回されるのも、挙げ句の果て外に連れ出されそうになるのも、「おはよう」や「おやすみ」、「おかえり」をせがまれるのも、髪紐を奪われて他のリボンを結ばれるのも、名前を勝手につけられるのも、全部全部初めてで、何一つ対処法が分からなかった。

 きゃっきゃっと跳ね回っている幼児とそう変わらない小学生に、ため息をつく。今は、一つだけ対処の仕方を知っていた。

「……おかえりなさい、ヒナコ。」
「うんっただいまっ。」

 さらに輝かしい笑顔をにぱっと向けてきたが、跳ね回るのは止まった。

 自分が挨拶をする日が来るとは思っていなかった。
 自分の挨拶を受け取る人が現れるとは思っていなかった。
 ずっとずっと、思いしもしなかった。

 ***

「椎っ外で遊ぼうよー。私、外で遊びたいよー。」

 子供部屋の隅に座り込む椎にべったり張り付いて、ヒナコが唇をとがらせる。椎は手元の赤い折り紙に視線を落としたまま答えた。

「いってらっしゃい。」
「椎も一緒に行こーっ。椎、いっつも押し入れに引きこもってんだもんっ。不健康だよっ。」
「不健康で結構。」
「良くないよー。早死にするよ!」

 ヒナコがびしっと指を突きつけてくる。椎はそんな彼女を見上げてぱちりと目を瞬かせた。ヒナコが言ってやった、と言わんばかりの笑顔でふんっと鼻を鳴らす。

「……へぇ。」
「反応薄いっ。だめだよ椎っ早死にしちゃだめなんだよ! 私を置いてったら許さないんだから!」

 ヒナコはなおも叫び声をあげて、ぎゅうぎゅう椎に抱きついた。いったいこの子は自分を何だと思っているのだろう。心の中で椎はため息をつく。
 ふすまがすぱんっとスライドした。
 現れたのは、目元がヒナコによく似た少年だった。黒いランドセルを背負っているが、来年中学校に上がる彼には少々きつそうに見える。

「うっせーぞヒナコ! なに一人ではしゃいでやがる!」
「兄ちゃんには一切関係ないので消えうせやがれ。」
「てめぇっ兄貴になんて口利きやがる!」
「お兄様、あなたと空間を共有したくないので、ご退室をお願いできますか。」
「ヒナコさん、表にいらっしゃってください。」
「お断りいたします。」

 少年はランドセルを自分の机の横にほうると、転がっていたショルダーバッグをひっつかんだ。部屋を出ようとすぐに引き返す。

「一人遊びは勝手だけどな、あんま近所メーワクな騒ぎ方すんなよ。」
「はあーい。あ、兄ちゃん。」

 妹の呼びかけに、少年が足を廊下に片方出したままこちらを振り返る。

「あ?」

 ヒナコは真面目な顔で首をかしげた。

「私、何の話してたんだっけ……?」
「知るか。俺に聞くな。」

 少年は眉間のしわを深くすると、乱暴にふすまを閉めて行ってしまった。

「あれれー? 何だったっけ? 肌年齢?」
「いや、違うよ。」

 はてはてと疑問符を浮かべるヒナコに、椎は首を横に振る。ふと笑った。まだ悩んでいるヒナコは気がつかない。

「ヒナコが気にすることじゃなかったよ。」
「そうだっけ?」
「うん。何も心配いらない。」

 自分がヒナコより先に死ぬなんて、ありえない。そもそも、自分に対して死というものが存在するのかも疑わしいのだから。

「うーん? ま、いっか。それよりさ、椎っ連ヅル折って!」
「また?」
「うん。こないだのね、友達が折ってくれたんだーってユキちゃん達に見せたら、すごーいってほしーいって言われちゃってさ。」
「……あげちゃったの?」
「うんっ。」
「……折ったの私なのに?」
「うんっ。椎はすごいよねっ。」
「…………。」

「だから、また折って?」

 無邪気に笑うヒナコに、言葉を飲み込む。この子の性格はもうよく分かっていた。父親の幼い頃とそっくりである。あの頃ははたから見ていて、毎日のように振り回されている彼の弟が可哀相だと思っていたが、実際標的にされると案外どうでも良くなることを、この度知った。
 他の人がどう思っているのか、椎には盗み聞きする以外に知る術がないが、椎は彼女のワガママを聞くことを悪くないと思っていた。

 誰かと話すことがこんなに楽しいなんて知らなかった。
 隣から声が返ってくることがこんなにうれしいなんて知らなかった。

 ***