「紫音」

 先ほどより、しっかりと名前を呼ばれた気がする。あまりにも一方的な訴えに凰理はなにを思ったのか。

 勘違いだと呆れたのか、その通りだと罪悪感を抱かせたのか。

 続けられる言葉がわからず、紫音はびくりと肩を震わせる。

 もしかしてむしろ嫌がらせのひとつだった? だって彼は私のことを――

 次の瞬間、紫音は凰理に力強く抱きしめられていた。

「紫音を誰かの代わりにしたことはない」

 あまりにも真剣な声色に紫音は抵抗を忘れ、目を瞬かせた。凰理は腕の力を緩めないまま静かに続ける。

「今も昔もお前はお前だよ。ふたりといない、紫音は紫音だ」

 凰理の言葉に目の奥が熱くなり、紫音は自ら凰理に密着して彼の胸に顔を押しつけた。凰理はなにも言わず、紫音の頭を優しく撫でる。

 伝わる温もりでさらに熱が上がってしまいそうだ。ずっと紫音の心を覆っていた黒い靄が溶けて消えていく。

 さすがに息が苦しくなり、軽く身動ぎすると凰理がそっと紫音を解放した。紫音はそんな彼をそっと見上げる。

 今日初めて凰理の顔をしっかりと目に映した気がした。

 悔しいくらい整っている顔立ちは相変わらずで、認めたくないが彼が性別問わず人を惹きつける魅力があるのは間違いない。

 外見だけではなく、聡明で博識で、おまけに他人の心の機微に敏感だ。だから魔王をやれていたのかもしれない。

 けれど今、凰理は魔王ではなく風間凰理というひとりの人間で、紫音もまた弟の代わりに男装して勇者を務めていたシオンではない。神代紫音というひとりの女性だ。

 紫音は、凰理の漆黒の瞳に映る自分を覗き込む。凰理は紫音の頬をそっと撫で彼女との距離を縮めた。