「え。いや……」

 目を泳がせていると(おとがい)に手を添えられ、強引に凰理の方を向かされた。

「思い出させてやろうか?」

 彼の漆黒の瞳に捕まり、逃げられない。目を逸らせずにいると徐々に顔を近づけられ、紫音は息さえも止めた。

『あんなに愛し合ったのを微塵も覚えていないのか』

 嘘だ。そんなことありえない。

 心の中で否定するのに、どうしてか拒めない自分もいる。凰理を受け入れてしまいそうになる。

 どうして?

 吐息を感じるほどの距離まで顔を寄せられたとき、突然床になにかが落ちる音で紫音は我に返った。

 さすがに凰理も動きを止める。どちらかが本の山に触れたらしい。

「こういうときは、じっとしているのがいいみたいね」

「お前な……」

 凰理の言葉をここぞとばかりにお返しする。冗談を含んだやりとりに、ふたりを包んでいた空気がいつものものに切り替わる。紫音はわざとらしく呟く。

「危ない、もう少しで流されるところだった」

「それは残念なことをした」

 ひとり言にも似た紫音の発言に凰理が律儀に口を挟む。相変わらずどこまで本気でどこまでが冗談なのか掴めない。

「あのね、覚えていないからって人の記憶を勝手に改竄(かいざん)しないで」

「人聞き悪いこと言うな」

「はいはい、もう魔王には騙されません」

 軽快なやりとりを交わしたところで唐突に部屋の電気が点く。停電が直ったらしい。急激な明るさに目眩を覚え、紫音はしばらく目をつむってうつむいた。

「大丈夫か?」

 先に立ち上がった凰理が紫音に手を伸ばす。紫音はおとなしく彼の手を取り立ち上がった。