「……ありがとう」

 大人、ここは大人にならないと!

 聞こえるか聞こえないか微妙すぎる声で紫音は呟いた。気恥ずかしさにうつむいていた紫音だが沈黙も苦しくなり、ちらりと凰理を窺う。すると穏やかに微笑んでいた凰理と目が合う。

「なに?」

「いや」

 曖昧にしか返されず紫音は眉をひそめた。

 さっきからなに? もしかして勇者に借りを作るのも悪くないなって思われてる?

 悶々としているとエレベーターがエントランスホールに到着したのでどちらからともなく外へ出る。

「お前、俺の講義をとってるのか?」

「まさか」

 紫音は即答した。今日の凰理の講義は二限の共通教育と四限のゼミだ。しかし紫音は凰理ではなく別の教授の講義を取っている。今年度で退官予定の小山(こやま)教授の貨幣経済史だ。

 凰理の専門はヨーロッパ思想史で、紫音の学びたい分野とかぶってはいるのだが、小山教授の講義はもう来年度には受講できない。今年が最後のチャンスだ。

 そういった理由があるのだがそこまで説明する義務もないので、紫音はわざとらしく鼻を鳴らした。

「魔王から教わるなんて冗談じゃない」

「お前な……」

 凰理の表情は見なくても声で容易に想像できる。紫音はさっさとマンションを先に出ていった。

「それにきっと集中できない」

 誰に言うわけでもなく、紫音のひとり言は宙に溶ける。

 一方、凰理は紫音に対して、車で送っていてやろうかと声をかけそびれたことに舌打ちした。どうせ行き先は同じだ。ただそう言ったところで、紫音が素直に頷くわけがない。

 思いっきり髪を短くした紫音の後ろ姿は、初めて会ったときとはまた違った印象を抱かせる。肩の線の細さが際立ち、むしろ前世での姿を思い起こさせる。

 凰理は前髪をくしゃりと掻いて、駐車場の方へ向かった。