それは今、叶っているんじゃない?

 現実に意識を引き戻し、紫音は実感する。男装も身代わりになる必要もなく、ひとりの女性として人生を謳歌している。魔王である彼とも、もう敵対する必要はない。

 心の中を縛っていた鎖がわずかに緩んだ。紫音は先を歩く凰理の背中を目指し、歩調を速め、隣に追いつく。

「どうした?」

「ありがとう」

 突然のお礼に凰理は目を見張った。紫音はぎこちなく先を続ける

「昨日、倒れたときに運んでくれて。それから家まで送ってくれたのも。あと今も、その……」

 ごにょごにょと口ごもりつつ説明する。そんな紫音の頭に凰理はそっと手を乗せた。紫音も触れられるのを受け入れる。

 私たち、また一から新しい関係を築いて――

「お前を落として懐柔させてやる」

「……は?」

 真剣に空耳を疑う。再スタートを切ろうと言い聞かせている途中、どこか聞き覚えのある台詞が紫音の耳を()ぎった。

「そういう話だったろ?」

 凰理の浮かべている笑みは穏やかなものではなく、どこか裏のあるどす黒いものだ。とはいえこちらの方が彼の雰囲気に合っているのだからなんとも言えない。

「なにそれ、それは前世の話でしょ?」

「前世を引っ張ってんのはお前だろ」

「人のせいにしないで。前世も今もそんなことはさせないし、ありえない!」

 あのときの言葉のままでやりとりし、紫音は絶望する。前世をなかったことにして、凰理と上手くやっていこうと誓った矢先にこれだ。

 相手はやっぱり魔王のままだ。なら自分も勇者として接するしかない。

 髪を切ったことに後悔はないが、どうやら紫音が元の髪型になるまで物理的にも気持ち的にも当分の時間がかかりそうだった。