スラリとした男性が店の前に立っていた。

「えっと、なにか?」
そう声をかけると、振り返った彼は、ハッとしたように瞳を大きく見開く。

――え? そんなに驚かなくても。

「開店は一時間後ですが?」
「あ、ああ、そうですか。わかりました」と言って、彼は店に背中を向けた。

私は藤原定子。26歳。
この小さな喫茶店、『深雪』の店主である。
そっと頭を下げながら彼の脇をすり抜け、扉の鍵を開けて店内に入った。

9月とはいえまだ暑い。
電気をつけて、まずは淀んだ空気を追い出すように窓を開け換気扇を回すと、途端に新鮮な空気が入り込み、店は目を覚ます。

『深雪』は、下町のちいさな商店街の一角にあり、客は主にご近所の常連さんだ。
ほとんどが前の店主である私の祖父のころから通ってくれていて、いまはもう親戚のようなものである。

7席あるカウンターの他はテーブル席が3つ。
二階は住居になっていて、従兄の修兄さんが住んでいる。夕方になると修兄さんがカウンターに入り、お酒を提供するバーに変わる。

開店は8時半で、11時まではワンコインのモーニングを提供する。
現在7時半。
客が来るには早すぎる時間である。

ちらりと外を見ると、先ほどの男性が見えた。
――なんだろう、あの人?

男性は店に背中を向けただけで、相変わらず店の前に立っている。