七十話 共闘の終わり


「小太郎様、お疲れ様でございます。お待ちしておりました」

「うむ。お主もよくやってくれた。特に一夜の連絡網を使い、知らせてくれたことに感謝する。よもや逆鉾が叛意を示してくるとは思わなかったのでな」


 二人の風魔衆を引き連れ、八犬士が潜伏していたという森の脇の街道に到着した小太郎は、強く降りだした雨の中で慇懃に頭を下げる乙霧に、労いの言葉をかける。


「すでにお聞き及びとは存じますが、最後の八犬士は、逆鉾様以下八名を斃した後、静馬様と相討ちとなり崖下へと落ち、玉川の流れに飲み込まれていきました。……誠、手強き敵でございました」

「うむ、聞いた。川沿いを調べさせようかと思うたが、川の水が増えておるいまでは迂闊に近づけさせる訳にもいかん。我らもだいぶ人手を削られたゆえな……」


 苦々しげに小太郎が言う。逆鉾が自分への叛意を見せたとはいえ、配下共々手負いの八犬士にやられるとは思ってもいなかった。おまけに静馬までもが命を落したとなると、小太郎の立場と言うよりも風魔の存続自体が厳しいものとなってくる。


「そもそも、その八犬士が生きているかどうかは対した問題ではない。問題なのは里見家に八犬家が残っておるということだ。再び力を蓄え、別の者が『呪言』の力をもって襲撃してこないとも限らん」


 小太郎の不安を乙霧は笑って否定した。


「それはもうありえませぬ。里見家から八犬家がなくなりましたゆえ」

「なんと! それは真か⁉」

「はい。先ほど一夜から連絡がありました。いかに化け狐の残した呪いの力といえども、呪う相手が消えては力の発揮しようもありますまい」


 乙霧の浮かべる皮肉な笑みに、小太郎は寒気を感じる。


「わかった。それならばよい。大殿には儂からきちんと説明申し上げる。それより、煎十郎はどうした? あやつは無事なのであろう。なぜ顔を見せぬ?」

「……煎十郎様なら、あちらでございます」


 乙霧が道の先を指さす。遠目に一挺の駕籠が二人の男に担がれ遠ざかっていくところであった。


「煎十郎様はこのまま一夜の里に連れて行きます。わたしもお役目を果たしましたので、ここで失礼させていただきます」

「な! どういうことだ。確かに婿にやることは認めたが、挨拶もなしに連れていくとは、あまりにも無礼であろう」


 小太郎は駕籠を追いかけんとする勢いで言ったが、乙霧が道を塞ぐように立っているので進むに進めない。小太郎といえど、乙霧には迂闊に近づけないのだ。


「どうかお許し下さい。本来、一夜はどちらか一方の勢力の味方をすることはありませぬ。他の勢力に情報を売る妨げになりますから。それをしてしまったからには、速やかに去ることが、これ以上事態を悪化させない唯一の手段でございます。……お詫びと言ってはなんでございますが、どうぞこちらをお受け取りください」


 乙霧はそう言って地面に置いてある大きな箱を指し示す。それは、煎十郎がいつも背負っていた薬箱であった。


「煎十郎様は、すでに小太郎様に命じられた書を書き終えてございます。どうぞ我が夫の、風魔衆としての最後の成果。お納めください」


 乙霧がもう話は終わりとばかりに、小太郎達に背をむけ歩き始める。
 しかしすぐにその歩みを止めた。そのまま振り返らずに語りだす。


「ああ。そうそう。忘れるところでございました。その箱の中にひと房の髪が入っております。静馬様が私に託されたものでございますが、時雨殿の物だそうでございます。なんでも、煎十郎様と夫婦になれないことを悲観して自害なされたとか。……他に良い子を産める相手を探せば良いだけのことでございましょうに、他の里の方のお考えになることはよくわかりませんね」


 突然の愛娘の死の報せに、さすがの小太郎も言葉を失う。静馬の死は事前に知らせてきていたのに、時雨の死はここまで黙っていた。小太郎の足を止める機を計っていたとしか思われない。


「小太郎様、失礼ながら私達にかまけている場合ではないかと。遅くとも明朝には氏政様が小田原に帰城されることでございましょう。氏政様は此度の敗戦の責を、どなたかになすりつけたくてうずうずなされております。従軍させた者たちを半分以上呼び戻し、風魔の得意とする乱波仕事を満足に行うことができなかった。……いかに氏康様の命を果たすためとはいえ、氏政様にとっては糾弾する良い口実でしょう。早めにお帰りになられて、対策を練られるべきでは?
 僭越ながら意見を述べさせていただきますと、氏政様退却のおり、獅子奮迅の活躍で氏政様をお守りしたという般若様に小太郎の名を譲り、隠居なされるのが最善ではないかと思われます。そして、時雨殿の墓守でもされて余生を過ごされては如何かと……」


 小太郎が力なくうなだれた。乙霧の言ったことは単なる個人の想像ではない。氏政は、偉大な父の名に負けまいと、歴戦の家臣団や周囲の列強に舐められまいと、面子をたいへん気にする。
 人によっては野盗の群れとみなされる風魔衆に、責任をなすりつけることにためらいはしないだろう。乙霧の言う通り、自分が小太郎の名から降りることで、少しでも矛先を緩めるしか方法はないかもしれない。
 こんな時に意見を求めた若き天才はもういない。苦しい時に心を癒してくれた愛娘ももういない。自身の目指した里の在り方の象徴となるべき若者もいなくなる。
 再び歩き始めた乙霧の背中と煎十郎を乗せた駕籠が遠くなっていくが、小太郎には彼女達を追いかける気力は湧いてこず、ただただ雨に打たれていた。