六十二話 老いてなお……


「……確認してからでは見失うか……」


 だがいますぐに八犬士が生き残った際の網を張るよう小太郎に進言すれば、間違いなく小田原城下に網を張るよう指示がくだる。
 それでは賭けにでることができない。光の八犬士が襲撃失敗後、仮に生き残ることができたとしても、十中八九、五体満足ではなかろう。いまは姿の見えぬ八犬士の犬が奇跡を起こしてくれるのを当てにする訳にもいかぬ。
 逃げた八犬士捕縛の網を相模(さがみ)と武蔵の国境まで下げるだけなら、実際に八犬士が逃げてからのんびりと小太郎に報告すれば良いのだが、これだと姿の見えぬ犬の存在が不気味すぎる。もし八犬士が連れていた犬というのが、静馬たちが小田原についた際に見かけた、八犬士の首を盗んでいった犬であるならば、人ひとり背負って走ることくらいは難なくできそうだ。
 いい案が浮かばぬまま、小田原城へと足を向けた時だった。


「おお、静馬。お主もいまから城の応援か」


 声をかけてきたのは、くたびれた印象の壮年の風魔衆。
 名は逆鉾(さかほこ)。今回の八犬士に対する組分けで、連絡組頭を任せられた、かつては小太郎と四代目を競ったほどの手練れの乱波。
 ただ、いまも壮健な小太郎と比べると、老いに身体も心も蝕まれ、若かりし頃の面影は残っていない。今回組頭に任命されたのも、いまの実力というよりは年齢と経験を考慮してのものだ。組頭になってからも実際に連絡組の者達に指示をだしていたのは別の者で、逆鉾は相談役をしていたにすぎない。ここにきて風魔衆の手が足りなくなってきたために、自分自身も連絡役として走りだしたが、いかんせん若い者たちにはまったくと言っていい程ついて行けていない。


「もということは、逆鉾様もでございますか?」

「いや、わしは最後の人集めじゃ。使うにしろ使わぬにしろ、本丸に掛けた布は最終的に糸を引いて回収せねばならんからな。もう足りてはおるが、人が多い方が片付けが早くおわろう。いまのわしではこんな仕事を任せられるのが関の山よ」

「なにを言われる。かつて迅雷の逆鉾とまで呼ばれたお方が」

「……昔の話じゃ。所詮は頭領になり損ねた男よ」


 半ば吐き捨てるように言う逆鉾を見て、静馬は顎を撫でる。


 この男、だいぶ覇気を失ってはいるが、現状への不満といまの小太郎への嫉妬までは失っていないようだ。


「……まだ諦めるのは早いのではござらぬか?」

「なにを言いだすのだ。お主」


 逆鉾は驚きながらも声をひそめる。


「考えてもごらんなされ。おそらくあの八犬士の襲撃は失敗するでしょうが、その対応策を示したのは一夜衆の乙霧殿でござる、頭領はなにもなされてはおらぬ」

「いや! その一夜の協力をとりつけてきたのは頭領ではないか」

「自ら何の対策も講じなかったことが、多くの乱波衆を失う結果に繋がってござる。これは充分に糾弾されるべきこと。次代の小太郎候補と呼ばれていた者も、ほとんどが手柄をあげてはござらん。死人まででている始末。逆鉾様はすでにお聞き及びと存ずるが、氏政様は里見との戦に敗れた。つまり氏政様の元に残った般若もまったく手柄がない。ここで逆鉾殿が一番の手柄を立てれば、頭領をいまの立場から追いやり、風魔を正しき道に戻すことも不可能ではござらん!」

「た、正しき道?」

「頭領が推し進めている里の為に戦えぬ者を優遇する道ではなく、命を懸けて戦っている乱波衆が正しく評価される風魔の道でござる」


 静馬はまったく思ってもいないことを真剣な顔つきで熱く語る。
 その身も凍るような熱は、すでに終わったかと思われた男の野心に火を点ける


「おお。……いや待て、静馬。いまのこの状態で一番手柄とは?」

「むろん、八犬士の大将の首。いま城に向かって宙を歩いておる男こそ、間違いなく八犬士の大将」

「どうやって宙にいる男を討つ? 弓や鉄砲を用意しておる間はあるか?」

「いや、それはおそらく用意しても無駄でしょう。ご覧あれ」


 静馬は突如袖から棒手裏剣を出したかと思うと、光の八犬士が歩いたと思われる箇所に向かって投げつける。
 なんと棒手裏剣が宙で止まった。


「な、なんと!」

「八犬士の『呪言』の一つでございますな。この力を用いて城に向かった以上もう勝敗は決しているのです。先程も言いましたが、乙霧殿の勝ちです」

「八犬士でなくか?」

「はい。逆鉾殿が懸命に人集めをなされたお蔭でございますな。八犬士が燃やせるのは瓦を覆った布のみとなりましょう。布につけられた糸を引くは風魔なれど、策を講じたのは乙霧殿。……いまの我らにできるのは、八犬士が生きて小田原を脱出し、体勢を立て直してくれるのを祈るのみ。そしてそうなったらしめたもの。その八犬士を逆鉾様が討たれればよいのです」

「ここで八犬士が死んだら?」

「その時は、唯一自力で八犬士の首を取った拙者が、他の乱波衆を味方に引き入れたうえで、逆鉾様を頭領に推します。般若も次期頭領を確約してやりさえすれば簡単に味方につくでしょう」


 逆鉾は唾を飲み込むと、耐え切れんとばかりに乾いた声を出す。


「な、なぜお前がそこまでする?」


 静馬はにやりと笑った。性格の悪さを強調するような笑みだ。


「よくぞ聞いてくださった。もし上手く逆鉾様が頭領になられましたら、拙者を風魔から出して欲しいのです。無論、風魔をやめれるとは思ってはござらん。諸国巡業の任を拙者に命じてくださればよい。
 逆鉾様はご存知でございましょう? 
 私が常々自由に生きたいと願っておることを。……いまの頭領の下ではそれは叶いませぬ。……拙者は自由を手に入れる。逆鉾様は小太郎を手に入れる。悪い条件ではございますまい」

「うむ。確かにお主にそういった願望があることは感じておった。確かに頭領なら、耐え忍べというに決まっておる。……よ、よし! わかった! お主の願い聞き届けようではないか」


 逆鉾が自身を納得させるように何度も頷く。


「おお! よくぞ決心してくだされた。それではお耳を拝借」


 静馬は噴きだしそうになるのを必死に堪えながら、今後の計画を逆鉾に耳打ちした。