五十話 盗み聞き
やはり風魔の里の襲撃は余計であったと、お礼は思わずにはいられない。小田原に向かう際に、動きを察知した氏康の別働隊への襲撃はいたしかたないとしても、風魔の里の襲撃は、敵にただで情報をくれてやったようなものだ。
恥ずかしいので口が裂けても言わないが、生野のことは愛しているし、その智謀を信頼もしている。ただ、風魔衆のことに限って言えば、生野は恐れすぎのように感じる。まるで、怪談話を聞かされ続けた子供が、成長しても目に見えない幽霊を必要以上に恐れているかのようだ。
まさか、本当にそうなのか? 今まで疑問に思わなかったことが気になってくる。考えてみれば、生野が北条家の隠密部隊ともいえる、風魔衆の里の場所を大まかではあったが知っていたのはおかしい。八犬家の外にいた時に偶然見つけたとも考えられるが、見た目は普通の村となんら変わりない。偶然あそこにたどり着いても、そこが乱波の里とは気づけないだろうし、気づかれるへまを、他の八犬士をことごとく葬った風魔衆がするとも思われない。もしかして、誰かに風魔の里の位置や脅威も含めて聞かされていたのではないだろうか?
そこまで考えて、お礼は首を振った。
やはりそれはない。風魔の里のことを知るのは風魔衆のみ。主の北条家といえども役目を命じるだけで、風魔衆のことを深く知っているとは思われないし、隠密行動をする者が自分のことをべらべらと話すはずもない。
考え事をしながらも、お礼は騒ぎを起こすのにちょうどよさそうな場所を見つけた。階段からそう離れてはいないが、階段の見張りが状況を確認するためには廊下の角を曲がらねばいけない場所ではある。
いざ、油を撒こうとした時、廊下の向こうから人がやって来る気配がして、お礼は人が通らないであろう廊下の隅で小さくなって息をひそめた。
姿を見せたのは、侍とは異なる格好をした屈強な雰囲気を持つ男三人と、その三人からは距離をあけて歩く、女中とは思えない美しい女が一人。
「くそっ。なぜ拙者が城下ではなく城内の警護なのだ。……おそらく静馬であろう。彼奴のことだ、あのよく回る舌で頭領になにかを言い含めたに違いないわ」
「いや、剛心殿。いくら静馬殿が切れ者とはいえ、そのようなことはなされぬでしょう」
「左様。それに八犬士とやらが、頭領の言われた通り、小田原城を攻めることに固執しておるのなら、城内の警備であっても、奴らを仕留める機会はありましょう」
「ふん。ありえん。我ら風魔とて、今の城の警備を潜り抜けて忍び込むのは至難の業。八犬士だか発狂死だかしらんが、里見如きの飼い犬が、ここまで入りこめるはずもない」
つまらなさそうに言う剛心と呼ばれた男を、今度は離れて歩いていた女が窘める。
「尾延様。油断をなされませぬよう。残った三人の八犬士の内の一人は、すでに城内に忍び込んでいるやもしれませぬ」
お礼は注意の矛先を、男たちから女へと移した。いまあの女は、残り三人と言った。生野は昨日行動を起こしていないから、三人というのは生野、お礼、お信磨の三人のことだろう。つまり、太助、小三治、吉乃の三人は死んだのだ。
お礼は両の拳を強く握りしめる。悲しいし悔しい。それでも一つだけ確信していることは、三人とも使命を果たしたうえで死んだのだということだ。根拠はないがわかる。だから、自分はこの作戦を続行する。
……それにしても、この女は何者であろうか? 風魔の女であろうか? 少なくとも里では見かけなかった女だ。
剛心が女を振り返り見た。
「乙霧殿。ご忠告ありがたく存ずる。さすがは八犬士のうちの二人を仕留めるのに貢献されたお方だ。実に用心深い。だがこの小田原城は我らだけで守っているわけではござらんよ。北条様の麾下の方々も詰めておられる。虫一匹入る隙間もござらん」
乙霧と呼ばれた女が笑った。心底人を馬鹿にした笑いだった。
「虫は小さくとも眼に映ります。……例え熊のような体躯をしていたとしても、眼に映らなければ忍び込みようはいくらでもありましょう」
乙霧はそう言って、なにも無い虚空に目を向ける。
お礼はどきりとした。お礼の『呪言』は、まだ敵には知られていない筈。見えないことがお礼の『呪言』であるのだから、それは当然である。なのにこの女はまるでそれを見てきたかのように言ってのけた。
勘であろうか? あらぬ方向を見ていることから、実際にお礼の姿が見えているという訳ではないようだ。
対して、お礼が潜んでいるなどとは露ほどにも思っていない剛心は、訳がわからないと大げさに首を振る。
「いやはや。静馬といい、あなたといい、下手に知恵が働くと、常人には理解しかねることを語りだしますな。姿を消すなどとたわけたことが可能ならば、今頃大殿の首は胴から離れておりましょう」
そんなこともわからんのかと、己の首に手を当てながら、剛心は侮蔑の笑みをみせる。
乙霧はその笑みに、見る者が凍りつくような視線を返す。
「……はぁ。風魔の精鋭は、頭の中まで肉が詰まっているのでしょうか?」
そう言って、先程の剛心以上の侮蔑の思いを込めて、にたりと笑った。
やはり風魔の里の襲撃は余計であったと、お礼は思わずにはいられない。小田原に向かう際に、動きを察知した氏康の別働隊への襲撃はいたしかたないとしても、風魔の里の襲撃は、敵にただで情報をくれてやったようなものだ。
恥ずかしいので口が裂けても言わないが、生野のことは愛しているし、その智謀を信頼もしている。ただ、風魔衆のことに限って言えば、生野は恐れすぎのように感じる。まるで、怪談話を聞かされ続けた子供が、成長しても目に見えない幽霊を必要以上に恐れているかのようだ。
まさか、本当にそうなのか? 今まで疑問に思わなかったことが気になってくる。考えてみれば、生野が北条家の隠密部隊ともいえる、風魔衆の里の場所を大まかではあったが知っていたのはおかしい。八犬家の外にいた時に偶然見つけたとも考えられるが、見た目は普通の村となんら変わりない。偶然あそこにたどり着いても、そこが乱波の里とは気づけないだろうし、気づかれるへまを、他の八犬士をことごとく葬った風魔衆がするとも思われない。もしかして、誰かに風魔の里の位置や脅威も含めて聞かされていたのではないだろうか?
そこまで考えて、お礼は首を振った。
やはりそれはない。風魔の里のことを知るのは風魔衆のみ。主の北条家といえども役目を命じるだけで、風魔衆のことを深く知っているとは思われないし、隠密行動をする者が自分のことをべらべらと話すはずもない。
考え事をしながらも、お礼は騒ぎを起こすのにちょうどよさそうな場所を見つけた。階段からそう離れてはいないが、階段の見張りが状況を確認するためには廊下の角を曲がらねばいけない場所ではある。
いざ、油を撒こうとした時、廊下の向こうから人がやって来る気配がして、お礼は人が通らないであろう廊下の隅で小さくなって息をひそめた。
姿を見せたのは、侍とは異なる格好をした屈強な雰囲気を持つ男三人と、その三人からは距離をあけて歩く、女中とは思えない美しい女が一人。
「くそっ。なぜ拙者が城下ではなく城内の警護なのだ。……おそらく静馬であろう。彼奴のことだ、あのよく回る舌で頭領になにかを言い含めたに違いないわ」
「いや、剛心殿。いくら静馬殿が切れ者とはいえ、そのようなことはなされぬでしょう」
「左様。それに八犬士とやらが、頭領の言われた通り、小田原城を攻めることに固執しておるのなら、城内の警備であっても、奴らを仕留める機会はありましょう」
「ふん。ありえん。我ら風魔とて、今の城の警備を潜り抜けて忍び込むのは至難の業。八犬士だか発狂死だかしらんが、里見如きの飼い犬が、ここまで入りこめるはずもない」
つまらなさそうに言う剛心と呼ばれた男を、今度は離れて歩いていた女が窘める。
「尾延様。油断をなされませぬよう。残った三人の八犬士の内の一人は、すでに城内に忍び込んでいるやもしれませぬ」
お礼は注意の矛先を、男たちから女へと移した。いまあの女は、残り三人と言った。生野は昨日行動を起こしていないから、三人というのは生野、お礼、お信磨の三人のことだろう。つまり、太助、小三治、吉乃の三人は死んだのだ。
お礼は両の拳を強く握りしめる。悲しいし悔しい。それでも一つだけ確信していることは、三人とも使命を果たしたうえで死んだのだということだ。根拠はないがわかる。だから、自分はこの作戦を続行する。
……それにしても、この女は何者であろうか? 風魔の女であろうか? 少なくとも里では見かけなかった女だ。
剛心が女を振り返り見た。
「乙霧殿。ご忠告ありがたく存ずる。さすがは八犬士のうちの二人を仕留めるのに貢献されたお方だ。実に用心深い。だがこの小田原城は我らだけで守っているわけではござらんよ。北条様の麾下の方々も詰めておられる。虫一匹入る隙間もござらん」
乙霧と呼ばれた女が笑った。心底人を馬鹿にした笑いだった。
「虫は小さくとも眼に映ります。……例え熊のような体躯をしていたとしても、眼に映らなければ忍び込みようはいくらでもありましょう」
乙霧はそう言って、なにも無い虚空に目を向ける。
お礼はどきりとした。お礼の『呪言』は、まだ敵には知られていない筈。見えないことがお礼の『呪言』であるのだから、それは当然である。なのにこの女はまるでそれを見てきたかのように言ってのけた。
勘であろうか? あらぬ方向を見ていることから、実際にお礼の姿が見えているという訳ではないようだ。
対して、お礼が潜んでいるなどとは露ほどにも思っていない剛心は、訳がわからないと大げさに首を振る。
「いやはや。静馬といい、あなたといい、下手に知恵が働くと、常人には理解しかねることを語りだしますな。姿を消すなどとたわけたことが可能ならば、今頃大殿の首は胴から離れておりましょう」
そんなこともわからんのかと、己の首に手を当てながら、剛心は侮蔑の笑みをみせる。
乙霧はその笑みに、見る者が凍りつくような視線を返す。
「……はぁ。風魔の精鋭は、頭の中まで肉が詰まっているのでしょうか?」
そう言って、先程の剛心以上の侮蔑の思いを込めて、にたりと笑った。