あの星が降る丘で、君とまた出会いたい。【新・あの花続編】

「でも、どっちにしろ俺は、朝のこと見て、加納さんすごいなって尊敬したよ」
 少し口調を改めて言うと、加納さんはぱちりと瞬きをした。
「尊敬……?」
「うん。花瓶も落書きも本当に悪質だし最低だし、あれくらい言わなきゃあいつら自分のしたことの重大さ分からないと思う。加納さんは一ミリも間違ってない。むしろめちゃくちゃ格好よかったよ。だから自己嫌悪なんてしなくていいよ」
 言ってから、女の子に対して格好いいなんて禁句だっただろうか、と気づいて焦った。でも、彼女は控えめに笑って、
「ありがとう。そう言ってもらえると、ちょっと安心する」
 と言ってくれた。
「……あれであいつらが少しでも反省してくれてたらいいな」
 苦笑いを浮かべてそう呟くと、彼女はすっと笑みを消して、「どうかな」と首を傾げた。
「人の考え方って、なかなか変わらないから……」
 まさかそんな言葉が続くとは思っていなくて、俺は息を呑んだ。てっきり彼女は、本気で怒って彼らを変えようとしたのだと思っていた。
「どんなに必死に自分の考えを訴えても、ちっとも分かってもらえられなかったりする。おんなじ言葉を使ってても、それまでの環境とか生き方とかが違うと、まるで外国語みたいに伝わらないこともある」
 それは確かにそうかもしれない。でも、中学二年生が言う台詞とは思えない。加納さんはやっぱり達観している、と感嘆した。
「人を変えるのって、すごく難しいよ……」
 そうだね、そうかも、と俺は頷く。
 思い返してみると、これまでの人生で、他人を変えたことなんて一度もないと断言できた。自分の親相手でさえ、自分の言葉で考えを変えることなんてできたためしがない。俺はいつも最終的には父さんや母さんの意見に従ってきた。
「……でも、簡単には変えられないって分かってても、どうしても許せなかったんだ」
 加納さんが噛み締めるように言った。その瞳には、紛れもない怒りが燃えている。
「あんなふうに、死を軽く扱うのは、許せなかった……」
 俺は無意識にごくりと喉を鳴らした。
「今の時代は、死が身近じゃないから……。誰かが死ぬのを見たことがない子も多いし、普通に生活してて命の危険を感じるようなこともないから……だから、あんなふうに簡単に死って言葉を使っちゃうんだよね」
 彼女の声が震える。反射的に手を伸ばし、背中をさすりそうになったけれど、慌てて引っ込めた。
「みんなが当たり前のように『死にそう』とか『死ぬほど』とか言ったり、冗談で『死ね』とか言うのを聞くたびに、なんていうか、息が苦しくなる……」
 ほっそりとした白い手が、ぎゅうっとセーラー服の胸元をつかむ。その顔は本当に苦しげに歪んでいた。
 言葉を失くして彼女を見つめながら、俺は自分の今までの生き方を振り返った。
 暑くて死にそう。死ぬほどきつい。そんな言葉を、何度も言ったような気がする。仲の良い友達とふざけ合っていて、『お前死ねよ』と言われたこともある。言ったことはないと思うし、そう信じたいけれど、もしかしたら覚えていないだけで言ったことがあったかもしれない。
 でも、きっともう二度と俺はそういう言葉を口にしないだろう。彼女が真剣な眼差しで言うのを聞いて初めて、そんなに軽々しく声にのせてはいけない言葉だったのだと気がついた。
 俺はもう何も言えなくなって、ただ黙って彼女の隣に座っていた。彼女も黙り込んだまま夜空を見ていた。
 彼女が失ったのは、いったい誰なんだろう。彼女にこれほどまでに『死』の重みを植えつけたのは、誰だったんだろう。
 そんなことをぼんやり考えながら空を仰ぐと、星が落ちてきそうな気がした。





「………ふー、あっつー……」
 あっという間に夏休みになった。
 今年も毎日うだるような暑さだ。俺はもちろん部活の練習のため毎日学校に来ていた。
 休憩時間になり、グラウンドの片隅にある水道に行って顔を洗う。冷たい水が気持ちいい。
 スポーツタオルで顔を拭っていると、ふいに「宮原くん」と声が聞こえた。
 この声は、と胸が跳ねる。振り向くと、予想通り加納さんだった。少し離れたところに立って、俺のほうを見ている。さらさらの髪がそよ風に吹かれてふわりと揺れていた。
 その口許が微かに緩んでいて、無性に嬉しくなる。彼女はクラスではあまり笑ったりはせず、とてもクールな印象だ。でも、俺にはときどきこうやって微笑みかけてくれる、ような気がする。たぶん俺の思い上がりだと思うけれど。
 公園のベンチに並んで話したあの日以来、俺と加納さんは日常的に会話をするようになっていた。
 といっても、おはよう、暑いね、じゃあね、とかそれくらいのものだけれど、それでも随分な進展だ。しかも、今日は加納さんから話しかけてくれた。
 俺は精いっぱい自然な感じの笑顔を浮かべて、さらりと挨拶を返す。
「おはよう。どうしたの、こんなところで」
「おはよ。先生に呼ばれてるんだけど、ちょっと早く着いちゃったから、サッカー部見てた」
 加納さんに練習風景を見られていたのだと知り、俺は急に居たたまれなくなった。格好悪いプレーをしなかっただろうか、と心配になる。
「宮原くんて、サッカー上手いんだね」
 並んで水場から離れる途中で、彼女が唐突にそう呟いた。
 びっくりして隣を見下ろすと、きれいな瞳がまっすぐに俺に向けられている。
「私、あんまりサッカーは詳しくないんだけど、見てたら何となく分かったよ。前の中学でもやってたの?」
 加納さんは、こんなに暑いのにほとんど汗もかいていなくて、やけに涼しげだ。
 それに比べて、俺はだらだらと汗を流して服もびしょ濡れで、なんとも恥ずかしい気がした。
 でも、上手いなんて言ってもらえるなんて、やばい。俺はにやにやしてしまいそうな口許を必死に引き締めて、なるべく平然と答える。
「あー、うん、やってたよ」
「そうなんだ。中学から? それにしてはすごく上手だよね」
「いや、小さいときからクラブチームでやってて、前の中学では部活とクラブ両方いってた」
「へえ、すごい。がんばってるんだね」
 加納さんの言葉は、どうしてこんなにまっすぐに突き刺さるんだろう。
 そう考えて、俺はなんとなく答えに思い当たった気がした。彼女は社交辞令を言ったり、嘘をついたり、言葉を飾ったりしないからだ。
 女子にしてはすごく口数が少ないけど、その分、無駄なことなどを口にしたりしない。その静かに澄んだ眼差しで相手のことをじっと見つめて、自分の中でよく吟味した必要な言葉だけを言っているのだ。
 だから、こんなにもまっすぐに心に響くんだ。
「………うん、がんばってるよ」
 気がついたらそう呟いていた。
「子どもっぽいって笑われるかもしれないけど……、俺、本気で、プロになりたいって思ってるから」
 加納さんの飾らない言葉に、なんだか俺まで素直になって、そんなことを言ってしまった。馬鹿にされるのを怖れて、誰にも言ったことがなかったこと。
 口に出してから、ものすごく恥ずかしくなった。でも、彼女は笑ったりしなかった。
「子どもっぽくなんかないよ。夢があるってすごいことだもん。ちゃんと努力して、それで見てる夢なんだから、誰も笑ったりなんてできないよ」
 そう言って、グラウンドの方に目をやった。
 でもその瞳は、グラウンドで走り回る中学生たちではなく、もっと遠くの空の向こうを見ているような気がした。
「……夢が見れるのって――将来の夢があるのって、すごく幸せなことだよね」
 加納さんが呟く。
 初めそれは、よく耳にする、『夢があるのは羨ましい、自分にはやりたいことが見つからないから』というような意味だと思った。
 でも続く言葉を聞いて、そういう浅い話じゃないんだ、とすぐに理解を改める。
「もしも日本が今みたいじゃなくて……例えば、戦争してる国だったら……。子どもたちは夢どころじゃない。生き抜くのに必死で、将来の夢なんて考える暇さえない。好きなスポーツも、勉強も趣味も、着る服だって何もかも思うようにはできなくて……ただ、どうやって食べ物を手に入れるか、明日まで無事に命を繋げるか、そういうことしか考えられない。だから、当たり前みたいに、夢があるとかないとか言えるのって、本当に幸せなことだと思う」
 俺は驚いて何も返せなかった。
 もし日本が今、戦争をしていたら。そんなこと、考えたこともなかった。
 言葉もなく、俺は加納さんの横顔を見つめる。
 しばらくぼんやりと向こうを眺めていた彼女が、はっと我に返ったように俺を見た。
「………ごめん、変な話して。びっくりしたよね」
 そう言って、少し恥ずかしそうな顔になる。初めて年相応の表情を見て、俺は嬉しくなった。
「変なんかじゃないよ」
「でも、こんな話したら、普通は笑うでしょ?」
「笑わないよ。だって、加納さんは俺の話を笑わないで聞いてくれたから」
 きっぱりと答えると、彼女はくすりと笑った。こんなに近くで笑顔を見たのは初めてだった。
 いつもの凛とした顔もいいけれど、笑った顔もすごく可愛い。
 なんとなく正視できなくて、俺はふいと目を逸らした。
 そのとき、練習再開の合図が聞こえて、俺は「じゃ、また」と言って、足早にグラウンドに戻った。
 コートに向かう足どりが自然と弾んでしまい、彼女に気づかれませんように、と思う






 夏休みになって二回目の日曜日。
 今日は、社会科見学の事後学習のことで調べ物係が集まることになっていた。
 せっかくの日曜なのに、とぼやいているやつもいたけど、俺はむしろ楽しみにしていた。
加納さんに会えるからだ。
「宮原くん」
 涼やかな声が聞こえて振り向くと、思ったとおり彼女だった。待ち合わせ場所の駅の改札口に立っていた俺を見つけて、声をかけてくれたのだ。
「おはよ、加納さん」
「おはよう。早いね」
「あー、うん、思ったより早く着いちゃった」
「そっか」
 加納さんは頷いて俺の隣に立った。
 その姿を、俺はこっそり横目で見る。当たり前だけど、私服だ。そんなことに、やけにどきどきしてしまう。
 ずいぶんとシックな服装だ。中学生の女の子がよく着ているような、カラフルな柄ものと短いスカートやショートパンツなどではなく、小さな黒文字が控え目にプリントされた白いTシャツに、濃いグレーのスキニージーンズ。
 どちらかというと地味な格好なのに、彼女の落ち着いた雰囲気にはよく似合っていた。
「みんな、遅いね」
 彼女がふいに口を開いたので、俺は我に返った。
「あー、だよな、もう時間なのに」
 俺はスマホを取り出して確かめてみる。すると孝一からラインが入っていた。
『ごめん、今日行けなくなったわ』
 マジかー、と俺は項垂れる。気づかなかったけれど、三十分以上前に入っていた連絡だった。
 理由は書かれていないから分からないけれど、急用か、もしかしたらサボりか。孝一は面倒くさがりなところがあるようだから、調べ物なんて苦手だと思う。実際、今日の集まりを決めたときも「めんどくさい」とか「それぞれネットで調べてくっつければいいんじゃね?」と何とか回避しようとしていたのだ。
 加納さんにラインの画面を見せると、
「そっか、しょうがないね。まあ、三人でも別に問題ないよね?」
「まあね。にしても有川さんも遅いね、連絡とか来てない?」
 何気なく訊ねると、加納さんは少し困ったような顔をした。
「………ごめん、有川さんの連絡先、知らない」
 申し訳なさそうに言われて、俺のほうがもっと申し訳なくなる。
 そっか、加納さんて、少し他の女子たちとは違うから。ラインでこまめに連絡とったりとかしなさそうだもんな。
「あ、でも、橋口さんのなら知ってるから、訊いてみようかな」
 そう言ったとき、着信音が鳴った。彼女のスマホだ。
「橋口さんから………」
 小さく呟いて、画面を俺のほうに向けてきた。
「えっ、有川さんも来れないの?」
「法事だって………」
「そっか、しょうがないよな」
「うん」
 彼女はあまり慣れないような手つきで画面をタップし、橋口さんに返事をしたようだった。
 てことは、と気がついてしまう。今日は、加納さんと二人きり? うわ、マジで? どうしよう……。
 丘の上の公園では、ほんの三十分ほど並んで話しただけだった。学校で話すときもせいぜい五分か十分くらい。でも今日は、調べものをするのだから何時間も一緒にいることになる。俺の心臓、耐えられるかな。
 加納さんがスマホをしまって俺を見た。
「じゃ、行こっか」
 さらりと言って、平然と歩き出す。さすがだ。
 いや、というか、俺、まったく意識されてないってことか………。
 彼女は迷いのない足取りで、すたすたと人波の間をすり抜けていく。俺も後を追った。
 目的地は、市立図書館。そこで、戦争や特攻についての資料を探して、必要な情報をまとめ、発表用のプリントを作るのだ。
 図書館に入り、館内案内図を確認して、歴史関係の本が並べられている書架へと向かった。
「この本と、こっちと………あ、その本もけっこういいよ」
特攻隊に関連する本を探していると、彼女がやけに詳しいのに気がついた。
「加納さん、詳しいね。調べたことあるの?」
俺がそう訊ねると、彼女はこくりと頷いた。
「資料館行ったあと、もっと色々知りたいなって思って……」
「へえ……すごいな」
我ながら間抜けな返答だけれど、それくらいしか言えなかった。
中学生で、自分から戦争について調べようと思うなんて。加納さんは本当に、普通の子とは全然ちがう。
「俺さ、特攻隊ってよく知らないんだ。前の学校でちょっと習ったけど、ちょうどテスト前で急いで終わらせた感じだったから、あんまり説明とかなくて。よかったら、基本的なことだけでも教えてくれない?」
十冊ほどの本を持って学習コーナーに行き、隅っこの大きな机を陣取ったところで、俺は加納さんにそう言った。彼女は「うん」と頷き、一冊の本をゆっくりと開きながら、静かに語り出した。
「太平洋戦争、第二次世界大戦ってね、日本は最初のほうは連勝してたんだって。ロシアみたいな大国に勝ったり、アメリカ軍を壊滅させたり。だから国民はみんな、日本の強さと勝利を確信してて、神風が吹く国だから敗けるはずがないって思ってたんだって」
「そうなんだ……全然知らなかった」
授業やテレビから知った内容では、日本は貧困と飢餓に苦しみながらたくさんの犠牲者を出した敗戦国、というイメージだった。
「でも、勝てたのは、他の国が日本を甘く見てた最初のころだけで……だんだん日本は敗けが続くようになって、戦況は悪くなる一方だった。それでも新聞やラジオでは、まるで日本が勝ち続けてるように報じてた。だから国民は、まだ日本の勝利を信じ続けてて、貧しくて飢えに苦しむ悲惨な生活にも耐えてた。自分たちの食べ物を削ってでも、戦ってくれてる軍人たちを応援して」
加納さんはふと窓の外に目を向け、眩しそうに目を細める。
その視線の先では、幼稚園くらいの子供たちが公園の水場で無邪気に遊んでいた。
なんてのどかなんだろう、と俺は思う。今彼女が話してくれていることと平和だ、と実感した。
「空襲がどんどんひどくなっていった。毎日のようにアメリカの爆撃機が飛んで来て、都市部が次々に攻撃されて、数え切れないほどの命が奪われていく。国民も少しずつ危機感を覚えはじめた。軍部は何とか戦況を挽回しようとして、焦ってた。でも、アメリカは圧倒的に物資が豊かで、日本はもう資金もなくて、武器も戦闘機も満足には作れない。
正攻法では勝てそうにない。だから………特攻作戦が考えられた」
彼女は、まるで体験してきたかのように語る。苦痛に歪んだ表情に、俺まで息苦しくなってきた。
空襲の映像は、テレビで放送されたのを何度も見たことがある。街も人も焼かれて、たくさんの生活があったはずの場所が、ただの焼け野原に変わっていったのだ。
「特攻隊は、片道だけの燃料と、爆弾だけを積んで、次々に飛び立っていった。体当たりすることで的中率が上がるって、軍部は考えてた。実際にはほとんどが失敗したって言われてるけど………。でも、日本には、それ以外に勝つ道はないって思い込んでた」
淡々と語られる彼女の言葉。でも、その中には、隠しようもない悲しみと苦しみが含まれていた。
「特攻隊員たちは、出撃の命令を受けて、家族と別れを惜しむ暇もなく飛び立って、南の海に散っていったの。……信じられる? 出撃命令って、ほんの数日前に出されてたんだよ? 故郷に帰って家族にも愛する人にも会うことさえ出来ない。家族のもとには遺書だけが届けられて、そのころにはもう、彼らはこの世にいないの。そんなのって、ないよね………」
加納さんはゆっくりと視線を戻して、じっと俺を見つめる。
こんなにも真っ直ぐに人を見る瞳を、俺は知らない。
窓から射し込む陽の光を受けて、彼女の目が薄茶色に透けていた。
その瞳が、ゆらゆらと揺れている。心なしか、目の縁が淡い赤にほんのりと染まっている。
涙が滲んでいるのだ、と俺は気づいた。その瞬間。
「ーーー泣かないで」
俺は、ほとんど反射的に、加納さんの手を握っていた。
彼女の泣き顔を見た途端、頭が真っ白になった感じがして、自分の意志とは無関係に、なんとかして彼女の涙を止めないと、という思いで頭がいっぱいになってしまったのだ。
ひゅ、と彼女が息を呑む音がして、それで俺は唐突に我に返る。
さらさらとして滑らかな白い手。それを握りしめた手のひらが、今にも汗ばんできそうだ。
心臓が口から飛び出そうなくらい、どきどきしていた。
「………ご、ごめん」
掠れた声で謝ると、加納さんはふるふると首を横に振った。
「べつに、謝ることない」
それから、おかしそうに微笑む。
「………こんなとこで、いきなり泣いたりしないよ。泣きそうに見えた?」
「うん………ちょっと」
「大丈夫。ありがと」
彼女はにこりと笑って、開いた本のページを俺のほうに見せる。
「この本ね、特攻隊が始まるまでの経緯とか、すごく分かりやすく書いてあった。これまとめるといいかも」
その言葉を聞いて、俺たちは特攻隊について調べて発表するために図書館に来ていたのだ、と思い出した。
彼女から受け取った本を、1ページ目から見ていく。確かに、俺にでも理解できる分かりやすい文章で書いてあった。
彼女はその間に他の本を手に取り、ノートに書き写したりしている。俺も大事そうなことをいくつか簡単にまとめた。
学習コーナーには、俺たちの他には、近所の高校の制服を着た男子高生三人組と、大学生らしい女の人一人しかいない。
すごく静かだ。ページをめくる音と、シャーペンの芯が紙に触れる音だけが聞こえる。
何気なく目を上げると、思いがけないほど近くに加納さんの顔があった。窓から射し込む光に白く照らされている。長くて真っ直ぐな睫毛が伏せられて、頬にくっきりと影を落としていた。
彼女は集中した様子でノートにペンを走らせている。
見惚れてるヒマなんかない、と気を引き締めた。俺も頑張らなきゃ。加納さんに幻滅されたくない。
一冊目をざっと読み終え、大事なポイントはだいたいまとめ終えたので、俺は次の本に手を伸ばす。
何気なく手に取ったのは、社会科見学の行き先だったという特攻資料館が発行しているものだった。表紙をめくってみる。
「……あ」
出撃前の特攻隊員たちが、みな同じ飛行服に身を包んで、カメラに向かって微笑む写真が並んでいる。
一枚目の写真は、花の枝を持って明るい笑顔を弾けさせている、若い隊員だった。写真の下に、名前と年齢も載っている。
それを見た瞬間に、俺は言葉にならない衝撃を受けた。
「十七歳……」
うそだろ、と思う。十七歳ということは、高校二年生だ。
俺は思わず顔を上げ、向こうのテーブルに座っている三人組の男子高生を見た。
顔を寄せ合ってぼそぼそ喋りながら、一人が手に持つスマホの画面を覗きこんでいる。ゲームか何かをしているように見えた。ときどき、噴き出すような仕草をして、小さな声で笑い合っている。
十七歳。たぶんあの人たちと同じくらいだ。特攻隊には、あんなに若い人もなっていたのだ。その事実が激しく胸を打った。
俺たちも三年経ったら十七歳になる。三年後の俺は、国のために自ら死ぬことができるだろうか。無理に決まっている。
でも、そんな驚きはほんの序の口だった。
ページをめくるたびに現れるのは、どれも若い顔ばかり。ほとんどが二十歳前後だったのだ。
今で言えば、成人式を迎える年、たしか大学二年生。就活さえ始まっていない。人生これから、というか、まだ何も決まっていないと言ってもいいくらいの年齢。
なんで、こんなに若い人たちが、自分の命を犠牲にしてまで敵に体当たりなんかしなきゃいけなかったのだろう。別に、年をとっていたらいいというわけでもないけれど、でも、死を覚悟して飛び立っていった彼らのあまりの若さに、俺は言葉も出なかった。
ショックを隠し切れないまま、俺はページをめくっていく。
顔写真のページが終わると、次は彼らの遺品の写真が並んでいた。なんてことはない、筆記具やノート、読んでいた詩集や、身につけていたもの。
こんなものがまだ残っているんだ、という感動よりも大きかったのは、彼らは俺と同じように生きて、普通に生活していた青年たちだったんだ、という思い。やりきれなかった。
次に現れたのは、流れるような筆文字。
遺書だ。家族に宛てた遺書。出撃命令を受け、数日以内には死ぬことが決まったときに書かれた手紙。
ごくりと唾を呑んでから、俺は読み始めた。
嫌だ、怖い、死にたくない。そんな言葉が並んでいることを、どこかで想像していた。
でも、誰一人そんなことは書いていない。むしろ皆、まるで、死ぬことが嬉しいかのような書き方をしている。
お国のためにとか、天皇陛下万歳とか、悠久の大義とか、俺には共感も、理解すらできない言葉たちが、迷いのないまっすぐな文字で書き連ねられているだけ。
あとは、育ててくれた親に対する感謝と、親不孝だったと詫びる言葉。見事に敵軍に体当たりすることで親の恩に報いる、なんて信じられないことも書かれていた。
そんなわけないのに。子どもが死んで嬉しい親なんて、子どもが死んだことを誇りに思える親なんて、いるわけがないのに。生きて欲しかったに決まっている。
誰に向ければいいかも分からない感情を持て余し、深く項垂れた。
それ以上見ていられなくて、俺は本を閉じた。
ふと視線を感じて目を上げると、加納さんがじっと俺を見つめている。
「………遺書、読んだ?」
「読んだ……。なんていうか、つらい」
「うん………」
彼女は小さく頷いて俯いた。
特攻隊について、もちろん名前は聞いたことがあったし、どんなことをしていたのかも知っていた。自分が死ぬことを覚悟して自爆テロのようにして亡くなった人たちだということは分かっていた。
でも、写真や遺品、遺書を見たことで、その過去が急に、生々しい現実として立ちのぼってきた気がした。
まるで映画か漫画みたいな、現実感のない話。でも、紛れもない事実なんだ。
日本は、なんてことをしたんだろう。十代や二十代の若者たちを死なせてまで、何が欲しかったんだろう。
どうかしている。頭がおかしくなっていたとしか思えない。
戦争なんて、病気だ。心の病気だ。
敵に勝つことより、名誉より、土地や資源より、人の命が一番大切だということ、そんな当たり前のことさえ分からなくなってしまう病気なんだ。