この部屋の主、北畠聖矢《きたばたけせいや》と出会ったのは、何を隠そう同人誌の即売会だ。彼は藍佳が発注した印刷所の営業だ。「本当は業務規程違反だけど、からすみさんの絵が大好きだから、応援にきてしまった」というのが、その時の彼の言葉だった。

 そこから男女の仲になるまでに長い時間はかからなかった。同じ趣味をもつ彼氏という存在に憧れていたし、素敵な日々が始まると、そのときは確信していた。

 けど、フタを開けてみたら何か違う。聖矢のオタク知識はご覧のとおりだし、好きだと言ってくれた藍佳の作品に対する態度もどこか不誠実だ。
 あのイベントの日も応援に来たなんていうのは方便で、顧客の中から食えそうな女を探してただけなんじゃ……? そんな邪推が鎌首をもたげる事もあった。
 けど、そのたびに藍佳はそれを頭の中で否定した。

「まぁ、がんばってよ。俺、藍佳ちゃんが頑張るの見るのが好きだから」

 なぜなら、そのいい加減さが心地よいのも事実だったからだ。週末に会って食事して、そのままこの部屋に泊まる。そんなゆるい繋がりが二人の交際だった。
 藍佳の部屋に上げたことは殆どない。藍佳も自室は同人活動の場であり、彼氏を連れ込む場所ではないと考えていた。そして今は五十路男の同居人もいる。(さすがにこの事は聖矢にも話していない)

 聖矢は、藍佳の趣味を馬鹿にしたり、自分の価値観を押し付けてきたりは絶対にしない。藍佳にとって、こちらのテリトリーに土足で入ってこない節度は、好ましく思えるものだった。
 そして何より、藍佳が寂しさを感じる時、甘える相手がいるのはありがたい。だから、多少の妥協は仕方ないのだ。
 そもそも自分の好みや価値観を全て受け入れて、ともに盛り上がってくれる、そんな他者の存在を藍佳は信じていない。そんなの多分、ファンタジーだ。