朝の6:30、セットしていたアラームが作動する。少し前から、ぼんやりと覚醒していた藍佳は、音が鳴るとほぼ同時にスマホに手を伸ばし、それを止める。今日は土曜日。昨日の夜遅くにこの部屋に転がり込んだのも、今日は仕事がないからだ。
 とはいえ、のんびりもしてられない。やらなきゃいけない事があるし、同居人も気がかりだ。藍佳はごそりとベッドから這い出すと、床に放り投げたままの下着を拾って身につける。その一連の音に目が冷めたのか、隣で寝ていた男も上半身を起こした。

「あれ? もう帰っちゃうの? ゆっくりしてけばいいじゃん」
「そうもいかないよ。いい加減新作のネームに取り掛からないとだし」

 ハンガーに吊るしてあるブラウスとスカートに手を伸ばしながら、藍佳はそう答えた。

「なになに、新作描いてんの?」

 描いてる、じゃなくて、これから描くんだよ。ネームに取り掛からないとって、今言ったばかりでしょ……心の奥でそうつぶやくけど、声には出さない。

「どんなの描いてるの? 見たいな。藍佳ちゃんの新作」
「まだちゃんとは決めてないけど……、久しぶりのリアルイベントだし、得意分野でいきたいんだよね」

 全世界を襲った疫病の驚異は、同人誌の世界も例外ではなく、大きな同人イベントは軒並み中止に追い込まれた。藍佳のサークル[ワラスボ・ラボ]は、よそのサークルと同様、オンラインイベントには積極的に申し込み、大手同人誌書店に委託して通販で既刊本を売っていた。

 けど同人誌は手渡しで頒布してこそ、という思いがどこかにあり、新刊を作るモチベーションは下がっていた。もちろん[からすみうるて]のペンネームでSNSはやっているし、そこでアップした1頁マンガがきっかけで、本を買ったという読者もいる。だから、オンラインが駄目というわけじゃない。けど、会場での本や人との一期一会の出会いが、たまらなく好きなのだ。

 そんな藍佳が待ち焦がれた、久しぶりの即売会。彼女は即決で参加を決めた。そして、そこには気合を入れた新刊を出すつもりでいた。

「藍佳ちゃんの得意分野って?」
「現代ファンタジーだよ。前にも見せたじゃん」
「えっと……あーアレかぁ」

 『トンネル坂の転校生』は、[ワラスボ・ラボ]の完売最短記録を樹立した自信作だった。
 藍佳の描く本は、基本的に二次創作ではなくオリジナル作品だ。流行り廃りとは無縁である代わりに、一度に頒布できる冊数が二次創作より少ない。だから普通は、年単位でじっくりと売れていくのだけど、『トンネル坂の転校生』は半年で完売した。
 その記録を誇らしげに語りながら、手元に残した一冊をあげたのに、どうやら「あーアレかぁ」で済んでしまうようなモノだったらしい……。

「今度は、ラブコメ仕立てに挑戦したいんだよね『君メト』みたいな」
「んー……なんだっけそれ?」

 はぁ、もういいや……。『君メト』こと『君はメトロノーム』は二年前に大ヒットした深夜アニメだ。続編にあたる劇場版が去年公開されたし、今でもSNSにはファンアートを上げる人が多い。自分と同じ人種なら、見たことはなくとも、聞いたことくらいはあるはずの作品だ。