「ん……あれ? ホクサン?」

 酔いつぶれてそのまま寝てしまい……気がつけば朝の光が窓から差し込んでいた。部屋には藍佳一人。北斎の姿は見えない?

「あれ、トイレ?」

 のそりと起き上がり大きく両腕を伸ばす。と、そこで、ローテーブルの上に紙が置いてあるのに気がついた。酒瓶や空の惣菜トレイなどをどかして置かれたその紙には、鉛筆で

 不里斗
   ↑
   やる

 とだけ書かれていた。

「え?」

 とっさに頭の中に嫌な予感がよぎり、紙を手にとった。紙はPC横のプリンタの棚から取ってきた只のA4の白紙。裏にも何も書かれていない。

『北斎さん、あとでお話ありますから』

 昨日の〈高位存在(アルティオレム)〉の言葉が蘇る。何の話だったか尋ねたら北斎にはぐらかされた。

 え、うそ? こんなアッサリなの?

 彼がいつまでもこの時代にいるわけじゃない、そんな気はしていた。この時代の絵を学ぶためのホームステイ。確か一番最初にあのイケメンはそんな事を……。

「何よ……別れの挨拶ぐらいさせなさいよ」

 さんざん迷惑かけておいて、人のことを振り回しておいて……それに、人に……

「人に地獄を歩かせる覚悟させといてさ!」

 そういう事? 藍佳は紙を見る。葛飾北斎は自身の画号にこだわりを持たず、弟子にやったりしていた。これが……そういうことなの?
 これからの話だって決まったじゃないか。[ワラスボ・ラボ]として仕事するんじゃないのか? 他の人に描けない絵って、アレはホクサンのことだろ? アタシ独りでやれというのか?

「ちっくしょう! 馬鹿野郎、いらねえやこんなもん!!」

 北斎譲りのべらんめえ口調で叫びながら、紙をクシャクシャに丸めると、窓から放り投げた。


「あたっ」

 やばい、通行人にあててしまった。藍佳は窓から身を乗り出し、下の人に謝る。

「ごめんなさい! ついっ…………え?」

「ゴミを放るのは家の中だけにしとけよ姉サン」

 北斎が丸めた紙を拾いながら言った。

「え、なんでそこに……?」
「なんでって、起きたらちょうど日の出時だったんでなぁ。朝焼けを見に出てたのよ」
「へ? 帰ったんじゃないの?」
「帰るって、どこに?」
「どこって、江戸に」
「言わなかったか? オレぁ江戸じゃ死んだ身だぜ? 今さら帰れるかよ」
「え?え? だって〈高位存在(アルティオレム)〉さんが話があるって」
「ああ、したぜ。当分ここにいるって言っといた」
「へ?」

 顔が熱くなるのを感じる。

「なんでぇ姉サン? ひょっとしてオレが出ていったとでも思ったか?」
「だ、だって……そんな書き置きがあったら……!」

 北斎は手にしている紙玉を広げる。

「ああ、オレの絵で仕事の話が来たんだろ? これからはその号を二人で使いまわした方が都合が良いと思ってな」

 何じゃそりゃ!? 名前にこだわらないにもほどがあるだろ!!

「そん代わり、オレも[からすみうるて]って号を使わせてもらうからよ」

 北斎はニヤッと笑う。

「だっダメだよ! あの名前はアタシの! アタシだけのだからぁ!!」

 朝の本所両国。北斎通りの裏路地にその叫びはこだました。

-完-