「いいや姉サン、それは違ぇな。今日は吹っ切れた顔してやがるぜ。辛ぇ事があったのかも知れねぇが、何処かでこうも思ってるはずだ。いいネタが出来たって」

 電撃が走る。そうだ。聖矢の部屋で覚えた怒りや屈辱、そして奥付に捨て台詞を書きなぐったときの……爽快感。そんな感情を確かに覚えている。
 そして、頭の隅では常にネタ出しを、そう心がけてきたアタシの思考はどこかで確信しているはずだ。これは、ネタになると。

「それをそのまま使うのは駄目だぜ? まずはな、弱火にかけながらゆっくり、ゆーっくりとかき混ぜていくのよ」

 北斎は鍋をかき回すように手を動かす。

「手は止めるな。かき混ぜ続けろ。そうするとな、じきにダマができる。そのダマを崩さないように、さらにかき混ぜていくのさ。ダマはますますデカくなる。そしてその挙げ句が……アレさ」

 北斎が指差す先には小さな樹脂の塊があった。『神奈川県浪裏』、博物館で回したガチャガチャのオモチャだ。

「ダマを紙に写すときだけはよ、べらぼうに楽しいんだ。それまでの辛ぇことを覆すくらいにな! あの醍醐味に触れちまうと、男女の秘め事なんざガキのおふざけだな」
「そっか、何となくだけど……」

 藍佳は手にしているペットボトルの水を頭からかぶった。ぼたぼたと髪と服と床が濡れる。頭が冷やされ、頭脳が覚醒する。
 カレンダーを見る。ネームの予定はとっくに過ぎている。しかもまる2日無駄にした。入稿予定日までも対して余裕はない。けど、やれる。やれるはずだ。

「アタシにも分かったかもしれないや。ホクサン!」