「えっと、それじゃあさ! これなんかどうかな?」
「おっ! どれだいどれだい?」

 藍佳は本棚に並ぶ一冊を取り出す。全年齢の本だけど、この人も表情の描き分けが上手い。

 楽しい。藍佳は北斎と話しながら思った。会社のランチタイムの腹立たしさや、聖矢の部屋での物憂さがまるで無い。同じ目線の人と、同じ趣味の話題で盛り上がる。そんな事があるのか。

 価値観の共有なんてファンタジー、今朝そう思ったばかりなのに。

 藍佳のオタク趣味は多岐にわたる。その中でも最も心を惹かれるのが、男性向け成人漫画の世界だ。可愛らしい女の子が乱れる姿がたまらなく好きだ。
 別に彼女たちを性の対象としているわけじゃない。乙女ゲームは大好きだし、男の推しキャラは大勢いる。それとは別腹で、えっちで可愛く、美しい女の子のイラストを愛しているし、そういうものを自分の手で生み出したいと思っていた。

 そんな人に打ち明けると引かれそうな価値観を、葛飾北斎は共有して、盛り上がってくれる。藍佳はこのひとときを心から楽しんでいた。すると……

「おっと! 話盛り上がってて忘れるところだった。それでよ、オレも女の顔を考えたりしながら描いてみたんでぇ!」

 北斎はそう言いながら立ち上がり、壁際のデスクに置かれたPCのキーボードを叩いた。

「へ? 描いてみた?」

 液晶に光が宿る。と、そこに快楽に身をよじらせる美少女の姿が映し出された。

「ええっ!? うそ!!」

 上手い。所々のタッチが妙に和風であるものの、浮世絵とはまるで違う現代風の……しかもかなりえっちなイラストだ。いやむしろ、和のテイストがエロスを増幅させてる。見ていると、こっちが変な気分になってきそうだ。

「ホクサン、いつのまにペンタブとツールの使い方覚えたの!?」
「そりゃあ姉サンよ。オレぁ姉サンがこの板にその棒こすりつけてるの、ずーっと見てたんだぜ? このくらいの芸当できらぁ」

 何でもないように、けどほんのりと得意げな声で北斎は答えた。

 観察眼……。藍佳はふと、前にネットで見つけた記事を思い出す。北斎の代表作のひとつ「神奈川沖浪裏」。あの有名な波頭の表現は、ハイスピードカメラで捕らえた波の形に酷似しているらしい。
 葛飾北斎は、その生涯で何度も波の絵を描いてきたが、あの代表作が生まれたのは老境に入ってからだという。その類まれなる眼で何十年も打ち寄せる波を見続け、ついにあのグレートウェーブを生み出したのだ。

 そんな北斎にしてみたら、一週間ガン見してペンタブの使い方を覚えるくらい、どうってことないのかもしれない。