ときは嘉永、江戸の街。町人が主役のこの街は、娯楽と学問が満ち溢れ、世界でも類を見ない文化都市となっておりました。文化・文政の頃に隆盛を極めたそれらの町人文化は、お上の弾圧にも耐え抜いて、今もなおこの街に花の賑わいを添えております。

 さて、浅草聖天町の一角では今、そんな賑わいの立役者がひとり天寿を全うしようとしておりました。雄大な山や波の景色、つややかな美女、勇壮な黄表紙の主人公に、踊りの振り付けの一挙手一投足……。この人は生涯を通し、ありとあらゆるモノを描き続けました。

 この時代の多くの人々が、この人の絵に夢中になりました。それだけではありません。その名前は百年に二百年と生き続け、もしかしたらこの先、世界中の画家たちに影響を与え続けるかもしれません。

 そんな美の巨人が今まさに、死を迎えようとしています。偉大なる死。画業に捧げた90年、きっと思い残すことはないでしょう……。

「馬鹿野郎、足りねぇよ」

 ……はい?

「全然足りねぇ……」

 いや、足りないと言ってもねアナタ、90ですよ? 大往生じゃないですか。

「知るかよ。オレが足りねえつってんだからよ、足りねえんだ。あと五年あったらホンモノになれたのによぅ」

 え…えぇ……? ホンモノって、アナタ充分偉大な画家ですよ!?

「だから、お()ェのものさしで決め付けんなって。五年でホンモノ、十年ありゃあ神サマだ。もしも倍も生きられたら……考えるだけでも心が躍らぁ」

 ふーむ……なるほどねえ。そこまで言うなら試してみます?

「何?」

 アナタの言う通り、倍生きたらどうなるか試してみようじゃないですか?

「出来るのかい、そんな事が?」

 厳密には、あなたの歳と同じだけ先の時代にアナタを飛ばすんですがね。

「へぇ~! そいつぁ面白えや。でも無料(ロハ)つうワケにはいくめえ。見返りは何でぇ?」

 そうですね……では神サマの腕とやらで、私の絵を描いてもらいましょうかね。

「いいぜ、その話のった!!」

 わかりました。それでは……

「あ、ちょっとまった!!」

 ……っとと。なんですか?

「倍くれぇじゃ面白くねえや、いっそ二倍くれぇ先の世の中を見てみてえ」

 ふむ……。ということは2020年代あたりですかね。いいでしょう。それでは……

「まった! まってくれ!!」

 …っとととと。アナタね、いい加減にしてくださいよ。

「一応聞くけどよ、引っ掛けじゃありゃしねえよな? 二倍先と言ったらオレぁ二百七十だ。目が覚めたら(コツ)になってた、とか無しだぜ?」

 アナタ聞きしに勝る偏屈者ですね? 大丈夫ですよ。その時代で活動しやすいよう年齢を調整します。何ならご希望の年齢のお姿にして差し上げますよ?

「そいつぁ、いたれりつくせりだ! 近頃、目は遠いわ腰は動かねえわで難儀してたんだ。一番動けた五十くらいで頼む」

 わかりました。それでは今度こそ、本当に飛びますよ? …………せやっ!!