次の日から容態が悪化し、三日間、ベッドから起き上がれなかった。精密検査を受けた結果、私に残された時間はあと一年。病気が慢性から急性に変わって、予断を許さない状態になった、と担当の先生から知らされた。病院の外は日増しに明るい時間が長くなり、春に向かって一歩ずつ進んでいるというのに、ベッドに伏せている私には一筋の光も差さない。奏と千沙が乗っていったあのエレベーターの扉が私の前で開くことは永遠にない。

今まで味わったことがない絶望感が濁流のように胸に押し寄せ、何日も起き上がることができなかった。あきらめるな、希望を持て…。

どんなに言い聞かせても鼓動が治まらず、消毒液の匂いのするシーツに顔を埋めていた。


 それから嵐に飲み込まれたような日々が何か月も続いた。私にでなく、闘病生活を支えてくれる家族に。

 ちょっと穿った言い方をすれば、病人の当事者は呑気なものだ。何を言っても許されるし反論もされない。感じたことをそのまま口にして、憂さを晴らし、周りの人を振り回していればいいのだから。

 一方、家族はたまったものではない。何を言われても、ひどい態度を取られても、私を見捨てられないのだ。鋭利な刃物みたいな私の言葉を素手で受け止めるしかないのだから。

父はいつも弱々しい笑みを浮かべて私の話を聞き、祖母は涙目で、大丈夫、貴方はきっと立ち直る、と言って私を励ました。琴は無言で衣類の交換と買い物をこなし、二年ぶりに会った叔父と年下の従妹は、こんな時だけ来てもらっても何の足しにもならない、二度と顔を見せるな、と私に追い返されてしまった。

もう手の施しようがない。体より先に気持ちが壊れてしまった。

未来を持たない者にとって、情けや希望は暴力にしかならない。どんなにやさしく接してもらっても、心が尖っていく。周りの人たちの言葉が私を傷つけ、どうして余計なことをするの、もうすぐ消えてしまう人間を助けても無駄なのに、と暴言を吐かせる。それを受けた家族が私の肩を抱きしめると、さらにつらくなって跳ねのける。どうしたらこの子を救えるのか、と途方に暮れた顔にさせる。誰が見ても負のスパイラル、悪循環の繰返しで、重苦しい空気が病室に充満した。


 四月になり、桜の花びらが窓の外に舞い、温かな日差しに誘われた入院患者や外来診療を受けた子供たちが、公開空地の庭園や散策路に繰り出すようになった。三十キロほど離れた東京郊外の高校では、私の同級生だった子たちが二年生になり、新しい友達と新しい先生に出会って、新しい毎日を送っているだろう。

 世の中すべてが新しい年度を迎え、そこで暮らす人々を次のステージに上げていく。小学生も中学生も、大学生も新社会人も、皆一様に人生のコマを進めている。

 世の中がそんなことになっている時、私は病室のベッドに座り、うつろな目で窓の外を眺めたり、布団にくるまってまどろんだりしていた。奏と千沙から、またお見舞いに行きたい、と何度もメールがあったが、体調が悪いから、などと理由を付けてすべて断った。

 もう家族に当たり散らすことはない。そんな気力も体力も尽きたから、というのもあったが、何をしても周りの状況が変わらないと知るとそれに抵抗するのが馬鹿らしくなり、魂が抜けたみたいに残された時間を呆然と送っていた。
自分に未来がある、なんてことをきれいに忘れていた。