図書室の鍵を学生課に返し、玄関から外に出たのは、もうすぐお昼になる頃だった。

今日は一刻も早く帰ろうと思ったのに、図書室の片づけや新年の準備をしていたら結局、最終下校時間ぎりぎりになってしまった。最後まできちんと片づけないと気が済まない性分が、こんな所で仇になった。

言うまでもないことだが…この病気に罹ると、とても疲れやすくなる。心は何も変わらないのに、ちょっと張り切っただけで立ち眩みがしてその場にうずくまってしまう。まるで、体だけ別物に取り換えられたみたいに言うことを聞いてくれないのだ。

こんな私の前に立ちはだかったのは、三十センチを超える積雪と駅までの道を霞ませてしまうほどの猛烈な吹雪だった。

これは何の試練?青春のど真ん中にいる少女漫画の主人公じゃないんだから、どうしてこんな手の込んだ仕掛けを用意するの?

 天に向かって因縁を付けたところで、雲間から一筋の光が差すこともない。いや、私の言い方が気に食わなかったのか、雪雲は一層激しい風を私の体に叩きつけ、都内の遭難者第一号を出そうとした。

 凍った積雪に足を取られ、電線から降ってきた雪の塊に驚かされ、チェーンを履いた車が遠ざかる音を耳にしながら、変わり果てたいつもの風景に棒立ちになる。

どうしよう、やっぱり琴に連絡しようか…。

そうして普段の何倍も時間を掛けて辿り着いた最寄り駅で、さらなる困難が私の前に立ちふさがった。

『大雪のため、運転本数を大幅に削減して運行しています。次の電車の到着時刻は、各方面とも未定です…』

 改札口の前に持ち出されたホワイトボードが、コンコースに上ってきた大勢の人を足止めさせている。

学校帰りの学生服、近隣の工場に出入りしている大人たち、お出かけ帰りの高齢者グループ。

そんな人たちの前で、拡声器を手にした駅員が声を張り上げ、西武線だけでなくJRにも遅れが出ている。電車が来ても大変な混雑で乗車できない場合もある、と悲痛な声で知らせていた。

 じゃあ、どうしたらいいの?これから大事な用があるのに…そんなことを駅員に訴えるのは、足止めを食らった人のうちほんの一握りで、殆どの乗客は驚くほどあっさりと自分の運命を受け入れ、学校や職場に戻るか、近くの店で時間を潰そうと階段を降りていってしまう。

そうして電車に乗りたい人がやってきては、ため息をついて去っていく。吐いた息がいつまでも白く漂っている改札前で立ち尽くしているのは、憑りつかれたように携帯電話をいじっている年配の女性と電車の運行情報を流している電光掲示板を遠い眼差しで見上げている男子学生、そして青白い顔をした私の三人だけだった。

 さぁ、どうしよう。家に帰れない。学校に戻る体力もない。家族の助けも望めない…琴から安否確認のメールがあったけれど、向こうも所沢の先で運転見合わせに巻き込まれているらしい。

このまま凍えてしまうのか。せめてホームズパンに寄って何か買っておくべきだった…そんなことを考えているうち、ふと閃いた。

 夏休みの図書室当番、ホームの待合室でパンをかじりながらやった打ち合わせ…あの時、冷房が効いていたんだから、大雪の今日は暖房が掛かっているんじゃない?

 そうだ、あそこならきっと体を温められる、そう思って改札を抜け、フラフラの足取りでホームに降りていったのが大きな間違いだった。

「へ…?」

 果たしてそこには、私と同じことを閃いた老若男女が押し寄せ、決して広くない透明な箱の中を満員電車並みのすし詰め状態にしていた。

確かに暖かいだろう。コートで着ぶくれしているうえ、次々と新たな乗客が訪れ、僅かな隙間に割り込んでくるのだから。吹き込んだ雪が屋根の下まで積もっているホームとはまるで別世界だ。

 でもそんな所に乗り込んで、子猫みたいに潜り込む愛嬌もふてぶてしさも心の余裕も、今の私は持ち合わせていない。いっそ吹きさらしのベンチに座って凍えた方が楽かも、と思ってしまう心境だ。

もう駄目かもしれない…最後の気力をため息で吐き出しながら、ぼんやりと霞んで見えるもう一本のホームに目をやる。その時だった。

「……」

 追い詰められた人間を立ち直らせるには、励ましの声を掛けるより、もっと追い詰められている人間を見せるのが一番だ。手を貸してあげなきゃ、と突っ伏した心が立ち上がるから。

 誰が言ったのか知らないが、そこに見覚えのある人影を見つけた私は、失いかけていた気力を取り戻してコンコースに上る階段に取って返し、白い息をもくもくと吐きながらもう一本のホームに降り立った。そこで公園に設置されたオブジェみたいにベンチに腰かけている大きな人影の前に立つと、何年ぶりかで再会を果たしたみたいな声で呼びかけた。

「テンドウ…」