窓側の席が一層遠くなった気がする。あちらには一日中、暖かな春の日差しが注いでいるが、廊下側のこちらだって、温かな笑いに満ちている。奏と千沙がいれば、縁もゆかりもない世界に足を踏み入れなくていい。わざわざ向こうに行って仲良くする必要はないだろう、そう思った。

 だから、その日の帰り、天道くんと二人で図書委員になったことなんか、私はすっかり忘れていた。ホームルームの前に奏から、彼の追加情報が欲しくない?と持ち掛けられ、一方的に教えられたけど、いらないと思ったから聞き流していた。

「ハヤシダさん…」

 校門を出て、江戸時代に造られた用水路を渡り、商店街に差し掛かった所で、後ろから声が上がった。演劇部の活動を覗きに行った二人と別れ、一人で学校の最寄り駅に向かっていた私は、中途半端な感じで薄雲の立ち込めた空を見上げていた。

 本当は、自分の名を呼ばれたと思ったのだが、東京郊外の住宅街で、付近に私立高校が三つもあるこの界隈で、こんなありきたりな名前を持った子は他にもいるだろう。学校に通い始めたばかりの私の筈がない、と勝手に決めて振り返らなかった。もう一度、

「図書委員の林田さん…」

 と具体的なカテゴリー付きで呼ばれても、そんな訳ないじゃん、と心の中で首を振ってやっぱり空を見上げていた。

 けれど、私にこんな態度を取られたというのに、その声はめげることなく後ろから追いつき、隣に並んで、ニコッと笑いかけてくる。私は、絶対に人違いだろう、と意地を張って前方の商店街と後方の用水路を振り返ったが、当然のことながら何処にも「林田さん」らしき人影が見つからなかったのでやむを得ず、そこにいる天道くんを見上げた。

「………」

「今日は大変だったね。みんな、委員をやりたがらないから、なかなか決まらなかった…」

「………」

「二人とも立候補したのって俺たちだけじゃない?これからよろしく。がんばろう…」

「………」

 決して無視していた訳ではない。いきなり男の子と並んで歩くシチュエーションに放り込まれて、緊張し、息が詰まって、何と答えたらいいか考えているうちに魅入っていたのだ。

どうして彼は私に話しかけてくるのだろう、と口を開けて見つめていた。

「あれ…」

 男子と歩くのって二年振り?

中学の時、家が同じ方向にあった木南(キナミ)(アユム)という男の子と私は毎日のように歩いていた。お互い、特別に意識することなく友達や部活のことを話し、家からこっそり持ってきたお菓子を分け合ってへろへろのお腹を満たしていた。同性の友達や幼馴染と同じ感覚で付き合い、長い通学路を楽しい道中に変えていた。私が最後に学校に行った日、家の前で握手して、ありがとう、さようなら、と言葉を交わした。

 あの日、彼と握手をした時に初めて、私は、男の子というものを意識した。
彼らと親しくなるということは、恋愛や交際に繋がる可能性がある。もちろん、何もないという結果に至ることもあるだろうが…。

ずっと一緒だったのに、最後の最後に自分がやってきたことを理解するなんて、何て間抜けな話だ。

あれ以来、一度もそんな機会がなくて、ようやく巡ってきたのが、天道くんというとても特殊な相手だったから、やっと出した声が変な風に裏返ってしまった。

「…私、部活に入らないから。ちょっと訳があって、運動ができないんだ。だから、貸出とか書架の整理とか、図書委員の仕事を毎日できるよ」

「うん…」

「だから…天道くんは無理しないで。サッカー部に行って」

 そう言っただけで、一週間分のエネルギーを使い果たした気分だった。姿を目にしただけで生気を吸い取られる、ドラキュラ伯爵めいたイケメンと話すのは、やっぱり疲れる。

 天道くんは、私が全精力を傾けて持ち掛けた話に事も無げに答えた。

「ありがとう。俺、図書室のこと何も知らないから…」

「うん…」

「正直、今まで一度も本を借りたことがないから、他の子より憶えなきゃいけないことがたくさんあると思うんだ。多分、誰かに付きっきりで教わらないとやっていけない。だから、よろしく」

「…え?」

「その時は、林田さんを頼りにしていい?」

 大きな体を可愛らしく縮ませて、両掌を目の前で合わせたお願いポーズをしてくる。

 うん…彼の目に吸い込まれがら、私は頷いていた。恋愛映画の主人公みたいな顔立ちにこんな風に頼まれたら、どんな子だって断れないだろう。究極の反則技だ。

 そうしたことを自覚しているのかいないのか、天道くんは、よかった、ありがとう、と子供みたいに喜んだ。そして、すっかり安心した様子で、窓側の席で友達と談笑するように、取り留めもない話を私にしてきた。

「大船先生って、去年結婚したばかりだって聞いたけど、本当なのかな…駅に行く途中にホームズっていう店があるの知っている?あそこで作ったパンが購買で売られているんだよ…林田さんは、モリムラと友達になったの?」

 学校に通い始めたばかりだと言うのに、次々と話を繰り出してくる。附属中学出身、ということを差し引いても豊富な話題。見かけによらず人懐こい話振りだ。

 この間、私は何をしていたかというと、

「そうなんだ、知らなかった…購買でお昼ご飯が買えるの?…村井さんと三人で…」

 そっけない受け答えとつまらないリアクションと口ごもった物言いで受け答えた。何を聞いても冷めた奴、と思われたに違いない。

 我ながらひどい応対だと思った。いくら深く関わらないと決めても、一緒に図書委員になって、帰り道で声を掛けてくれたのだ。もう少し愛想よくしないと彼に失礼だ、そう思ったが…無理だった。