翌日、登校して、それがただの気のせいでないことを、玄関や廊下で行き会う生徒、教室で顔を合わせたクラスメートの様子で知った。

『ねぇ、聞いた?』

『里中ゆずだろ?大人しい顔して、やってくれるな』

『俺だったら耐えられないかも』

『天道くんは平気なのかな?』

『大丈夫じゃない?彼にとってはいつものことだもん』


 肩を寄せて、小声で話し、それから首を伸ばして当人の様子を窺う。そんな光景が何度も、あちこちで見られた。まるで学校中が同じ病気に罹ったみたいに、同じ話を持ち出し、不穏な空気を作っていた。

 やはり、里中ゆずに覚えた嫌な感じが、現実のものになってしまった。

 彼女は、天道翔がこれまで付き合ってきた女の子たちと違う。北川凪や他の子たちは、つらい気持ちを受け止めて再び歩き出したが、ゆずはその場で倒れ、蹲ったままだ。もう二度と立ち上がれないかもしれない。

 もちろん、それでゆず一人が駄目な人間だ、とは言えない。同じ「恋人と別れる」でも、人によって受取り方が違うのだから。

 ただ、ゆず自身は、どんなにつらくても学校にいないから、余計な声を聞くことも興味本位の視線に晒されることもない。これ以上、追い詰められることはないだろう。

 だが、同じ当事者でも天道翔は違う。彼は毎日学校に行って、たくさんのクラスメート、同級生、教師たちと顔を合わせる。直接言われなくても、自分に向けられた様々な関心を肌で感じる筈だ。心を閉ざして背を向けることができればいいが、誰にでも心を開く性格が、嫌でもいつもどおり友達と接した。ふざけ合って、言葉を交わして、受けなくていい傷を負っていくのが、窓側と廊下側の席に分かれていても手に取るように分かった。

 テンドウの笑顔を目にするほど胸が騒ぐ…。

 そんな状況に耐えられなくなった私は、図書室で返却された本の整理をしている時に思い切って声を掛けた。体が重くて、うっかり気を抜いたら倒れてしまいそうだったけれど、書架に掴まって、告白するような意気込みで、テンドウ、と言った。

「ん、上の棚?」

 そう言うと彼は、私が手にしていた歴史小説を取り上げ、長身を活かして、天井までそびえる書架の上段に収納個所を捜していくが、そこに一つの隙間も見つけられず、手にしていた本の背表紙に目をやるとあからさまに顔をしかめた。

「これ、コードが違ってない?」

「…え?」

「いつもでたらめに並べているって、俺に文句言っているのに…」

「いや。そういう意味で声を掛けたんじゃなくて」

「じゃあ、何の用かな?」

 まるで鬼の首を取ったみたいな顔で、書架の上段と同じ高さから中段の私を見下ろしてくる。

 何だ、そんな言い方をしなくてもいいじゃないか…と普段なら言い返している所だが、そこをぐっとこらえて言った。

「うん…そろそろ、個別指導が必要かなって」

「あぁ、期末テスト…再来週だっけ?」

「来週だよ。さては忘れてたな」

「やばい。リン、ナイスタイミングだ」

「でしょう?それなら、手続きに従って依頼しなさい」

 我ながら、何をやっているんだと思う。彼の悩みを聞くつもりが結局、いつものようにコントめいた調子でテンドウのお願いを聞いているのだから。

「しょうがない。今度も面倒みてやるか」

 そう言って、恭しく下げられた頭に手を伸ばして、ポンポンと叩いた。触れた途端、恥ずかしいとか嫌がられないかなとか、余計な気持ちがふっと消えて聞いていた。

「他にはない?」

「ん?」

「何でもいいから。相談に乗るよ」

 私の手を頭に乗せたままこちらを見上げてくる、彼の目を真っすぐ見つめて言った。

 テンドウは、何かを察したように低い声で答えた。

「じゃあ、恋愛の悩みでもいいか?」

「うん。いいよ」

「そうか…」

 ふぅっと張り詰めていた息をもらすと、私の前に屈めていた背を再び書架の上段にそびえさせて言う。

「ありがとう。その時が来たらお願いする」

 そうして、私の頭に手を乗せてポンポンと叩くと、脇をすり抜けて行ってしまった。

 テンドウの大きな体が、天井の照明を遮って一瞬、私の視界を薄暗くする。そこにどんな気持ちが通り過ぎていったか分からない。

気が付いたら再び明るくなって、大きな背中が書架の間から閲覧室に出ていく。ほんの数秒前に彼の頭を叩いていた私の手は、何も掴めないまま、薄暗い書架の間にさまよっていた。