「ごめん。鍵返すの、頼んでいいか?」

「いいよ。早く行ってあげて」

「わるい…」

 その日もテンドウは、図書委員の仕事を終えるや、里中ゆずが待つ三階の教室に駆けていった。彼女が代わっても甲斐甲斐しく迎えに行く、彼らしいやさしさだ。

 図書室の鍵を学生課に返した私は、高校の玄関から校門に向かわず、かつてテンドウとプレゼンの練習をした外階段の下で友達を待つ振りをして時間を潰した。やがて中庭の散策路に二人が現れると、何食わぬ顔をして後に続き、校門を出て、最寄り駅に向かって商店街を歩いていった。

 林田鈴という子は、川越の家から都内の学校に通って、友達に囲まれながら高校生活を送っている、と思っていたが、果たしてそうだろうか。そう思っているのは本人だけで、本当は何の実態もない、幽霊みたいにふわふわと浮かんでいる存在なのかもしれない。

最寄り駅に向かって手を繋いで歩いていく、テンドウとゆずの後ろ姿を見守る自分を振り返ってそう思った。

「……」

私は、今ゆずがいるポジションに立ったことがない。飛び込もうとしたこともない。それなのに、まるで一番近い場所にいるみたいに彼のことを見つめている。教室で窓側と廊下側の席に離れていても、図書室のカウンターに並んで座っていても、こうして恋人と歩いている姿を離れた場所から眺めていても…。

多分この先も、このままの距離で年月が過ぎ、卒業してしまうだろう。それでも、どういう訳か天道翔の姿を追ってしまう。彼がどんな気持ちでいるか、どんな未来に向かっているか、思い浮かべてしまう。やせっぽちのゆずと帰っていく大きな背中に不安ばかり感じている。

 その日も学校の最寄り駅は、異なる方向からやってきた四本の線路を二つのホームの左右に並べ、コンコースから降りてきた学生たちをそれぞれの家に向かう電車に乗せていた。

どんな仲のいいカップルも、帰る方向が違えば、コンコースの上かどちらかのホームでさよならしなければならない。胸の中にすきま風が吹いているような日に訪れると、思いがけず人生の寂しさを感じてしまう場所だ。

 テンドウとゆずは、国分寺方面と拝島方面に行く電車が発着するホームに降りて、待合室のベンチでいつまでもお喋りしている。大げさにのけぞって驚いたり、肩を縮ませて畏まっている彼の姿に、彼女が控えめに笑っている。二人だけの温かな時間が、陽が暮れていくホームに流れていた。

 そんな光景を私は、所沢方面行きの電車が来るもう一方のホームから線路越しに眺めている。先ほどから何本もの電車が二つのホームに到着し、学生たちを乗せていったけれど。こんなことをしても何もならない、胸が騒ぐだけだと分かっていたが、体が見えないロープで繋がれたみたいに、なかなか電車に乗ることができなかった。