「それで、その後いかがかと思えば順風満帆を絵にかいたようではないか」
「まあ、我が神にそのようなお言葉を頂戴するとは有り難き幸せにございます」
神託というのは誰にでもあるものではない。それこそ歴史の中で糾弾されてきた<聖女>でもない限りは神の声など聞こえまい。某国の戦乙女は神の声が聞けたそうだが魔女として裁判にかけられ、その美しい声は怨嗟のみを紡ぎ始め、壮絶な最期であったと聞く。結局、第三者の評価のせいで不当に死ぬのがいつの世も神や政治に関わる第一線の人間の運命なのだろう。
さて、神託などと宣ったがこれは夢である。
明晰夢というのか、なぜならわたしは先ほど使い慣れた寝台に身を投げ出したばかりだった。証拠に今の格好はシルクの寝着であるし、周りの風景も十五年前に見た切りの真っ白な闇に囲まれた石の広場であった。神々はみな元気そうである。神に元気そうだなんて表現もなんだかおかしいが、お変わりないのだからそういうほかないのである。
「十五年が過ぎた。第一王子は王太子となりそなたとの関係も良好」
「素晴らしい」
「素晴らしい」
「神々の慈悲あってこその今世の私どもにございます」
クロエは信心深いな、とリシャール様もロラン様もおっしゃっているが神に感謝せずして生きていけるほど強い人間ではない。結局最後に裏切るのは神ではなく人間であった。どれだけ愛し、どれだけ尽くそうとも残虐性をひそめた人間が真っ先に他者を切り捨てる。信用をするのであればまず神、次点で動物が良い。
こういうことを言うと捻くれているように聞こえるかもしれないが、たとえば王の席次争いでリシャール様を裏切るような存在がいたとすればそれはまず真っ先に人間だ。当然のことだろうが、その当然に麻痺してはいけない。どんな境遇であれ等しく生きる権利がある。命は決して平等とは呼べないが、生きようと思う気持ちは平等であるべきだ。女王として統治してきた自分のその考え方はこれからも変わるまい。
「衝突も波も起きぬ、平穏な十五年を過ごしてまいりました。半年後のデビュタントでは私とリシャール様の婚約が大々的に発表されます。書面ではもう固まった話ですが」
「人間とは難儀なものよなあ」
「面倒くさい」
「だが誓いを形骸化させてはよろしくなかろう」
「こたびはなぜ私に降りてきてくださったのですか」
「降りてはいない。そなたを上げたのだ」
「さようでございますか」
どちらでも大差ないと思うが爬虫類のようなその見た目であっても嬉しそうに笑う最高神に畏敬の念を示さずにいられようか。
「そなたの世界に、幸多からんことを」
◇◇◇
やはり夢だったか。
からまった毛先をつまみ、ほどきながらおぼろげな映像を描く。私は死んだらあそこに行くのだ。その前にひととき、夢を見てもよいという神々の慈悲でクロエ・エンディアとしていま生きている。
生きるってなんだっけ。王族として生きていた時、日々忙しくて自分のことなんてろくにできなかったけれど眠る直前だけはそんなことを考えていた。私のしていることは人を生かせているんだろうか。私自身は、生きているといえるのだろうか。虚無にも似たその感情をこの十五年いちども抱いていない。
生きているのだ。幸せに。
「クロエお嬢様、お茶の時間にリシャール様がいらっしゃるそうですよ」
「そう、では今日のお稽古は午前中で終わりにしましょう」
たとえあなたが何を知らなくとも私はずっとずっとあなたを想って生きていきます。
そうすることで私があなたと過ごした日々の美しい部分を取っておけるような気がするから。
そう思ったのに。
「…………婚約を、白紙に?」
「そうなんだ、すまないクロエ」
どうして、どこで、なにが起きているのかさっぱりわからない。
だって今世では確実に結ばれると言っていた。そういう運命なのだと知っている。もしかしてほかに好きな人ができた?政略的により優位な相手が現れた?あったとしてもそうなればもう隣国の王族とかそんな次元になってしまうではないか。勝ち目がない。
絶対に手放したくない、離れたくない。こんなに愛しているのに生きていてもそばにいられないのであれば何のために自分は転生までしたというのだろう。神託といいどうしてこうなにもかもおかしなタイミングでかさなってくるのだろう。
「某国の」
息苦しそうに彼は一言そう言ってこちらを見た。その目は昨日までと変わらない、私を愛している目だった。
「かつて某国で、処刑された女王がいる」
「……」
「美しく聡明な女王は、どういうわけか国民の反乱によって斬首によってその一生を終えた。背景には女王を貶めようとした王室関係者の影があったと聞く。……それで」
ひどく言いにくいことなのだろう。その女王について彼が語るというのは。
でもどうして、その某国の女王とはきっと私のことでルネならともかくリシャールはなにも関係ない。<わたしたち>はあの斬首からおよそ十年もあとの世界に生まれているのだ。
リシャールの祖父、前国王であればなにか因果があるかもしれないが(私は死んでいるので知らないものの)リシャールがこんな顔をする理由などどこにもないではないか。
「信じて、もらえるかはわからないが、自分がかつてその女王の騎士であった……夢を見た。ただの騎士ではなくて、きみのように幼馴染としてずっと、そばにいた」
「でもそれは」
「わかっている、夢だと、思う。だがわからない、夢だとして本人しか知らないであろう約束を私は夢で聞いてしまった。もし、いつか、そんな世界があるならばと女王が言うんだ。その微笑みがひどく君に似ていた。来世で、もし出会えたなら今度こそ手を取って生きていきたいと」
本来彼は知らない話だ。どうしてそれを夢にみたかまではわからない。業を煮やした神々のいたずらかもしれないし、本当になにかのきっかけでふと流れ込んできたいわば手違いかもしれない。ルネとしての自分、アリスタとしての私。逆転した主従。交わされた約束。でもそれがなんだというのだろう。
「どれだけ君を愛しく思っても、それがなにかの呪いなのではと、そんな約束をしたせいで君を縛る呪いのようなものがあったらと思うと耐えられなかった。目が覚めた私の寝所は水でもこぼしたようなありさまで……いてもたってもいられなかった」
「つまり、私を嫌いになったりしたわけではないのですね」
「そんなわけないだろう!……ただ、怖い。愛する女王を目の前で殺されたのだ。愛する人を守れずに死んだ感覚を味わった。王家に輿入れするのであればクロエにもそういう危険が付いて回るだろう。私は騎士ではない、すぐに君を守れない。私とともにして、君が死ぬ未来など考えたくもない。たとえそれがどんなに深い夢でしかなかったとしても」
王太子がなにをおっしゃいますやら。
夢に見たから婚約を白紙にと言われてはいそうですかといえる程度であれば最初からもっともっと嫌な顔をして殿下に会いに行っていったでしょう。そもそも私はあなたに会うためだけに生きてきたのですよとそんなこと言っても伝わらないか。それこそ夢のような話ではないか、どうしてそんな言い分が通じようか。
ルネ。いいえ、リシャール殿下。私はもうずっとずっと長いことあなたの隣で生きるためだけにこうして生きてきたのですよ。
「夢を見ました」
「夢?」
「私の前世は某国の女王アリスタで、神々によって再度命を吹き込まれ、幸せに生きるためにクロエになったのです」
「……」
「私の幸せは殿下の隣にございます、どうか、どうか、その悲しい夢とご自身を重ね合わせないでくださいませ。こうして私はあなた様の目の前にいるではありませんか」
事実がどうであれ、歴史がどうであれ、夢がどうであれ、もしそれで深い絶望を覗き込んでしまったのだとしても、この道を手を取りともに歩んでまいりましょう。
そうして私たちがいきていることで新しい歴史となり、新しい事実となり、来世のだれかの幸せな記憶となるのでしょうから。
「……すまない、取り乱したようだ。白紙のはなしは、なかったことにしよう」
「そもそも独断で決められるものでもないのですけれどね」
「まったくだ、どうかしている」
「お茶をもう一杯いかがですか?」
「いただこう」
ねえルネ、あなたに声をかける日はもうこないけれどだからと言ってあなたと言葉を交わした日々がなくなるわけではないのよ。アリスタとしてあなたを信じ、あなたを愛し、あなたに愛された日々が消えることなんてこれから先ありえないのよ。記録がなくなり、人々が消え、この世界が滅んだとしても、ほかならぬこの私があなたをずっと覚えているわ。
目の前のリシャール様はあなたであってあなたでないけれど、この私はアリスタであってアリスタでないけれど、これから先リシャールとクロエは歴史に名を残す国王と王妃となってその事実を誰もがしるところとなり、
けれどその裏で私がアリスタであったことを覚えていましょう。
そうして私たちは、何度も同じ世界で歴史をつないでいくのですから。