一八五三年三月三〇日オランダ北ブラバント州フロート・ズンデルトで生まれ、一八九〇年七月二九日にフランス共和国ヴァル=ドワーズ県オーヴェル=シュル=オワーズで三十七年という短い生涯を終えた、フィンセント・ヴァン・ゴッホ。
彼は、フランス共和国ヴァル=ドワーズ県オーヴェル=シュル=オワーズの麦畑で自身の左胸部を銃で撃ち、拳銃自殺したと言われている。
しかし、銃で左胸部を撃つのが困難であること、また、彼の手に火薬が付着していなかったことから他殺だったのではないかとも言われている。
『ひまわり』や『夜のカフェテラス』など数々の名作を生み出した彼は、自殺であったのか、はたまた他殺であったのか。
未だにその真実を知る者はいない──。
フィンセント・ヴァン・ゴッホ──通称セントは、オーヴェル=シュル=オワーズにいた。
「うん?」
昼下がり、気分転換に僕が散歩をしていると、目の前にうつ伏せになって倒れている男を見つけた。
「おい、きみ大丈夫か」
声をかけながら、僕は男が死んでいるのではないだろうかと、恐る恐るじりじりと近づいて男の肩を数度ゆすって仰向けにする。
「おわぁっ⁉︎」
僕は男の顔を見てのけぞり、尻もちを着いた。驚いた自分の声とともに、男の目が開かれる。
「あれ?」
ますます僕は目を大きく見開く。それもそのはず、男の顔は自分と同じ顔をしており、瞳の色も自分と同様、碧眼であったのだから。世の中には同じ顔が三人もいるというが、本当だったのだなと、まじまじとその顔を見た。
僕らは石のように暫く固まった。先に動いたのは男の方。男は僕の両手をがしりと勢いよく掴み、きらきらとした眼差しで言った。
「わたしはハンス・ローガン・エバンズと申します! 貴方をずっとお慕いしておりました! フィンセント・ヴァン・ゴッホ様!」
ハンスと名乗るこの人物を僕はおかしな男だと思った。それは、面白いという良い意味で。
"ずっとお慕いしておりました"
僕は自分が特別慕われるような者ではないと考えている。客観的視点からしてもその評価は正しいといえるだろう。たいして有名でもなく、ましてや噂をされるような目立った存在ではないのだから。
ハンスという変わった男が僕と話をしたいというので、賑わいを見せる街道へ移動し、しばらく歩いて適当なカフェにふたりで入った。
「特に貴方の描く『ひまわり』はとても素晴らしい! 黄色は裏切りという意味合いがあるのに、あえてその色を使って描くとは……。でも当然貴方のことだ、教職を目指していたのだから、ひまわりの持つ意味をご存知の上で描かれたのですよね!」
「あ、あぁ……」
ひまわりは"忠誠"の象徴だ。しかし、何故彼は、これほどまでに僕を知り尽くしているのだろうか。かれこれニ時間くらい僕の絵の話を止まることなる話続けるハンスに、困惑と恐怖を通り越して、感心を抱くほどにまで達していた。
弟のテオでさえも知らないことを面識のないハンスがここまで知っているという事実に僕は複雑な心境だった。
だが、一言でいうとするならば、この男は付き纏いというものの類いなのだろうと、僕は静かに悟った。
今のところ身の危険は感じていない。
「ところで貴方はいまどのような絵を描いているのですか?」
「僕のことは、セントと」
いつまでも名を呼ばれぬままでは寂しいと思い、そう呼ぶように彼に言えば、彼は一度目を丸くし微笑んで自分もハンスと呼んで欲しいと言ってきた。顔に熱を感じて僕はややうつむき加減で頷いた。
「いまは木の絵を描いているところだ。因みにテーマは──」
「"生と死"……ですか?」
「っ……⁉︎」
先に答えを出されてしまい、僕は続く言葉を呑んでハンスを見た。先ほどまで楽しそうに笑顔を絶やさない彼とは打って変わって真剣な表情に言葉が詰まる。しかも、その答えは僕しか知り得ない事実だ。
「何故、それを──」
──知っている?
「わたしが、セントのファンだからですよ」
はっきりとそう言い切ったハンスに、そうかと返事をする他ない。不思議なことに、本当にそうなのだろうと胸にすとんと違和感なく落ちた。
「死ぬつもりなのですか? セント」
「ゴッホォ────⁉︎」
口に含んでいた茶を吹いてしまい、むせて止まらなくなった咳を落ち着けようと胸を叩いた。
そう。僕は、その木の絵の作品を最後にこの世を去るつもりで描いていた。
描いているとき、これは人が生を受け死に至るまでの人生を表しているようだと僕は思ったんだ。
木の根の絡み合いが人が歩む上での人生の苦悩を表しており、人が歩む道は必ずしも平坦ではなく曲がりくねっていると言っているようだった。それはまるで、僕の今までの人生を省みでいるようだった。そして、木を切断したときのことを想像すれば、そこから新たに芽吹き空へと枝を伸ばし、太くなる様子から"生"を。切断され風化し土に帰る様から"死"を思い浮かべたんだ。
「な、なななぜ?」
──そう考えた?
「わたしはセントのファンだから、心配しているのですよ」
消え入るような弱々しい声でそう言ったハンスの顔は、今にも泣きそうな顔をしていた。
カフェを出て、宿泊中のオーベルジュ・ラブー近くの林まで歩いて足を止めた。いま描いている木の幹、根、切り株の場所だ。
「秘密にすると約束してくれるかい?」
テオより遥かに自分のことを知り尽くしている彼だからこそ、知って欲しいと僕は思った。
「もちろん」
ハンスはわかりやすく唾を飲んで僕の目を見て深く頷いた。
「僕が今まで絵を描き続けてこれたのは、弟のテオが僕を援助してくれていたおかげなんだ。生活費も絵具も。僕ができることといえば、絵を描くことだけだ。だが、それでもテオのために何かしてやれないだろうかと思って考えて考えて考えてようやく思いついた」
一呼吸置いて、早口になりそうな気持ちを抑え込む。彼は、ハンスは、いまどのような顔をしているのだろうか。僕は言い表せない不安と恐怖に包まれ、ハンスに背を向け視界からハンスの姿を消し去った。感じるのは彼の気配のみ。
「作者の死。偉人は死んでから評価されるものが多い。生きているうちは評価されないことが多いのに、死んでから評価されるとは不思議なものだ。無謀な作だとわかっている。だが、一か八かで試して見る価値はあると僕は考えている」
「そんな───⁉︎」
「死んだあとのことは確かめようがない。だが、価値が見出されようがされまいがテオへの負担が減ることは間違いない」
「一体何を───」
「テオには僕の描いた沢山の絵を渡してある。もし、僕が死んでから評価されたとき、テオが僕の絵を売ればお金になるだろう。それが僕にできるテオへの恩返しなんだ」
「やはり、自殺を……?」
首を横に振って、僕は否定する。
「自殺じゃだめだ。インパクトが足りない。すでにお金は渡してある」
「殺されるというのか⁉︎」
ただの自殺では注目を集めにくい。しかし、他殺であれば、と僕は考えたのだ。
背にハンスの震えた声が当たる。辛い、悲しい、苦しい……彼の感情がそのまま僕の中に入り込んでくるかのようで、涙が溢れてきた。溢れ出た涙は地面を湿らせた。
自分の死に、どんな意味があったのか。真実を知られぬまま死ぬのは酷く寂しく孤独だろう。しかし、テオにその真実を打ち明けてしまえば、きっと僕を止めるに違いない。涙を流すに違いない。それでは、意味がない。だからこそ僕を知り尽くし、僕のファンであるハンスにだけ打ち明けようと思った。
彼になら、話してもいい。
直感的にそう思えたから。
ハンスと出会ってから一ヶ月半後、僕が宿泊しているオーベルジュ・ラブーに彼が訪ねてきた。秘密を話したあの日、ここの三階を間借りしているからいつでも来るといいと彼に伝えておいたので、ハンスが姿を見せたこと自体は不思議には思わなかった。だが、秘密を知ったあの時の彼の顔といえば、真っ青でショックを隠しきれない様子だったものだから、彼が訪ねてきたことに関しては、とても驚いた。彼の顔を見たあの瞬間、もう彼と会うことはないのだろうと思っていたものだから、嬉しくはあったが……。
椅子に座って僕の入れた茶を一口飲むなり、神妙な面持ちでハンスは口を開いた。
「もし、死ぬことなく評価される方法があるとしたら、セントはどうしますか?」
僕は眉を潜めてハンスの瞳を見る。そんな上手い話があるわけがない。とても怪しい。
「死体を譲って頂くのです」
「ゴッホォ────⁉︎」
来て早々、突拍子もないことをハンスが言い出したものだから、口に含んでいた茶を吹き出してしまった。むせて咳き込むのが落ち着いてから、どういうことだ、と聞けば死体を偽装してあたかも僕が殺されたかのようにしてしまえばいいと、わけのわからないことをハンスが言い出した。
「死者に対する冒涜ではないか!」
「死体といっても、まだ死んでいません」
「どういうことだ?」
死体は死んだ人間のことだろ、と首を傾げる。
「あと一週間前後でお亡くなりになるホームレスに許可を得て、医者にも話を通しています」
「医者?」
「医者のアーサー・コナン・ドイルです」
アーサー・コナン・ドイルといえば、緋色の研究を書いた作家ではなかったか?
「彼は医者もやっているのか?」
「医者も、ということは緋色の研究をご存知なのですね!」
「読んだことはない。ピートン・クリスマス年鑑に掲載されていただのとちらほら噂を耳にしたぐらいだが。そうか、医者もやっていたのか」
驚いた。医者と作家の両方か、随分と多才な人物のようだ。テオに頼りきりな僕とは違うな。そう思うと、少し気分が沈んだ。
「報酬はセントの描いた絵と言っています」
「いや、ちょっと待ってくれ。僕はまだやるとは言っていない」
「すでに二人、外で待機してるんです」
「秘密をバラしたのか⁉︎」
とんとん拍子で一方的に進んでゆく話に焦りと興奮のあまり、僕は勢いよく椅子から立ち上がり、大きな声を出した。
「いいえ。わたしはセントに必要なのが死体だと言っただけです。セント、貴方がこの先どうするかは、彼らと話してみてから考えてください」
しばらくして、ハンスを含めた三人が部屋に入ってきた。ひとりは、七三分けの黒髪に二又に分かれて整った髭が特徴的な中肉中背の男だった。
「はじめまして、フィンセント・ヴァン・ゴッホと申します。セントと呼んで下さい」
「ご丁寧にどうも。私は、アーサー・コナン・ドイルと申します。私のことはアーサーと」
握手をかわして視線をもうひとりに移した。
「貴方は───」
驚きで開いた口が塞がらない。そのホームレスは僕の知っている人物だったから。
「やぁ、セント君。久しぶりだね」
彼は、ジャック。暇つぶしだと言って僕の絵をよく見にきていたホームレスの男だ。
「なぜ、貴方がここに?」
「セントのファンで貴方の役に立てるなら、死後死体を好きにして欲しいと許可を得ました」
「なんだって⁉︎」
まぁまぁ落ち着け、とジャックが僕の両肩を優しく叩いた。
「合意の上だよ。俺はどうやら病気らしくて、貯金していた金、すべてを使って診療所で診てもらったんだが、治療しても治らないと言われてしまったよ。だが安心してくれ、感染するものではないと言っていたよ。もちろん、報酬は頂くよ」
ジャックがにやりと不気味な顔でこちらを見てくるので、僕は彼から二歩後退し、続く言葉を待った。
「俺を看取ってほしいんだ。俺がその日まで生きていたということを知っていてほしいんだよ」
とんでもない要求をしてくるのではと思っていたので、僕は彼の意外な要求に拍子抜けし肩の力を抜いた。
「僕は、まだやるとは。それに、看取るくらいならこの件を受ける必要ないだろう。看取ってほしいなら僕は看取る」
「合意の上だと言ったはずだ。俺がそうしたいからするんだ。どうせ死ぬなら役に立ってから死にたいってもんだ。いや、この場合は死んでから役に立つ、だな」とジャックがいつもの調子でからからと笑った。
「私もそうだ。私がやりたいと思ったからこそ、ここにいる。まぁ、どんな事情を抱えているかは知らないんだがね」
アーサーが人の良さそうな顔で僕を見てきた。
「セント、あとは貴方がどうしたいか言えばいい。セント、わたしはしたいことをしているだけだ。だから、見返りを求めているわけではないよ」
三人は「自分がやりたいからやっているだけだ」と主張する。その言葉の裏に、僕の力になりたいという想いが込められているのだと知った。
あたたかい……。
胸の辺りのシャツをくしゃりと掴んだ。なんて幸せなのだろう。僕のために動いてくれる人が三人もいる。ぬくたい雫が頬を伝うのを感じながら、僕はきゅっと結んだ口を開いた。
「僕は─────」
それから僕はテオへの恩返しのために名をあげたいとふたりに話し、協力を得ることになった。
一週間が経とうとしていたとき、ジャックは息を引き取った。
息を引き取る直前、「有名人のセントとして死ねるんだ。こりゃ光栄だぜ」と意地悪そうな笑みを浮かべていつもの調子でジャックが話した。死ぬ間際だというのに、そんなことを言うものだから彼につられて僕は笑ってしまった。
そして、ジャックは安らかな眠りについたのだった。
七月二七日に僕は、オワーズの麦畑で金を渡していたふたりの少年と待ち合わせをしている。それまでに何とかしなければならない。彼らは銃を持っている。その日、僕の姿をひとめ見れば銃口を向けてくるに違いない。僕は死人になりすますために、オーベルジュ・ラブーを後にした。
ジャックを看取ったこの場所は、オワーズの麦畑近くの林の奥にひっそりとある廃屋。事前にジャックの姿を僕に偽装するためのものがここに置いてある。骨格を似せるために必要なメスや注射器といった医療器具、髪を染めるための毛染め、肌質を似せるための化粧品などだ。
ジャックの背丈や肩幅は僕と似たような感じだが、ジャックの頬は痩せこけているため、脂肪を注入することになりアーサーが担当した。また、皺の数を数本増やせば、ぱっと見僕に見えなくもない。次に髪を赤っぽく染め上げた。僕は最後に化粧を施すことになった。化粧も絵具も同じだろうとジャックのやや黒めの肌を手でシュッシュッと塗りたくってゆく。僕の顔は丁度ハンスとそっくりなので彼を見本にすることになった。
上手くいかないものだな、と首を傾げながらやっていると、とんとんと肩を叩かれて後ろを見ればハンスの困惑した表情がそこにあった。
「セント……一体なにをやっているんだい?」
「僕に似せるために化粧をしているだけだが」
見ればわかるだろうという思いを込めてハンスを見返せば、ハンスとアーサーは互いの顔を見やって苦笑した。
「流石、芸術家というべきだろうか……」
「セント、貴方は化粧をしているのではなく、まるで絵を描いているようだ。化粧は粉が余ってはならない、伸ばすんだよ。粉が顔に集まった女性はそこらを歩いてはいないだろう?」
その言葉で冷静になり、ハンスからジャックへと再び視線を移せば、これはないなと納得できた。
人を作品にしてどうする、と一度僕は頭を抱えて切り替えると、再び手を動かしたのだった。