目をつぶってからしばらくして、僕の右耳に忙しなく鳴き続けるセミの声と、小鳥のさえずりが聞こえてきた。そっと瞼を持ち上げれば、目の前にあらわれたのは歴史を感じさせる大きな屋敷、ぐるりと踵を返してみれば屋敷は森の中にあるようで、深緑の木々に包まれていた。
僕は再び、視線を大きな屋敷へと移す。
「ここに……」
士郎がいるのだろうか?
表札を見てみれば、"生鷹"と書かれていた。どうやらここで合っているようだ。読めないはずの字がさらりと読めてしまったことに驚いたものの、士郎に会うことの方がより重要であったので、気にしないようにした。
拳をつくりドアを叩こうとしたその時、黄色いものが視界の端に入ってきた。それが気になって、誘われるように歩みを進めてゆけば、そこにはひまわり畑があった。
───なんて綺麗なんだろう………。
もっと近くで見たいとひまわり畑に近づく。
「セント?」
聞き慣れないしわがれた男の声が聞こえて、僕はそちらに顔を向けた。
「本当に、セントな、のかい?」
僕の名を呼びそこにいたのは、白髪混じりの小柄な老人だった。
「きみがハンスだった士郎なのか?」
「あぁ、セント!」
瞳を大きく見開き、きらきらと輝かせながらこちらへ走って来て、士郎は僕を強く抱きしめ背中に手をまわした。鼻を啜り肩を上下させ声を震わせる姿を見て、ようやく会うことができたのだと僕は実感しながら士郎を抱きしめ返すと、つられて僕も声を出して泣いてしまった。
こうして僕は、親友との再会を果たすことが出来たのだった。
僕と士郎は無事再会を果たした後、同居生活をはじめた。ふたりで紅茶を飲んだり、絵を描いたりと以前と変わらぬ日々を過ごしており、とても平和だ。
そんなある日のことだ。士郎が旅行に行こうと言い出した。行き先はフランス共和国ヴァル=ドワーズ県オーヴェル=シュル=オワーズ。
時代が随分と変わったので、どうなっているのか楽しみだ。
飛行機というものに乗って、オーヴェルへ向かうようだ。飛行機とは空を飛ぶ移動手段のようで、蒸気機関車よりも遥かに速いらしい。この見た目といえば、曲線が滑らかで非常に美しく、まるで白鳥のようだと感動し、少々はしゃいでしまい恥ずかしい思いをした。はじめ、飛行機が空を飛ぶ瞬間を楽しみにしていたのだが、飛行機が空を飛ぶ瞬間は身体が安定せず、なんとも言えない浮遊感に恐怖を感じた。帰りも乗るのかと思うとひやひやしてしまうが、とても良い経験になった。
飛行機が着地し外へと出るが、面影はあるが随分と変わっていて、見慣れないものが多い。士郎が携帯電話というものを使って地図を見ながら案内してくれるので、僕は黙って彼に着いていった。
「セント、これを読んでみてくれないか」
ふたつの石を指差して士郎が言うので、しゃがんで石に記された文字を言う通りに読んでみる。
「『テオドルス・ヴァン・ゴッホ』」
そして、もう一つは、
「『フィンセント・ヴァン・ゴッホ』⁉︎」
まさか、僕たちの墓か⁉︎
驚愕し、背後に立つ士郎を見上げれば意地悪そうな笑みを浮かべていた。
「驚くのは、これを見てからにしてほしい」とそう言って、石の裏側の地面に近いところを士郎が指差したので、そこを読む。
「『J・A・H』? これがどうした?」
その意味がわからず、僕は首を捻る。
「頭文字だよ、友の名前を思い出してごらん」
頭文字? 自分と関係のある人物を思い出してみる。ウジェーヌ・アンリ・ポール・ゴーギャン、アーサー・コナン・ドイル、アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック、ハンス・ローガン・エバンズ、エミール・ベルナール、カミーユ・ピサロ、ジャック……そうか。
「まさか。ジャック・アーサー・ハンスということか⁉︎」
にんまりとした顔で士郎は頷いた。
「それが悪戯で書かれたものなのか、彼らがわたし達にあてたメッセージなのかはわからないのだがね。でも」と士郎がフィンセント・ヴァン・ゴッホの墓石を撫でた。
「ここに眠っているのは、ジャックであることには違いないさ」
士郎との文通が途絶えてすぐ、僕は彼に会いに行ったつもりだったのだが、士郎によると、最後の手紙を出してから一年後に僕が来たようで、時間の誤差があったらしい。その一年の間に、士郎が一度ここに来たとき、たまたまこのメッセージを見つけたようだ。
弟テオについては、ユトレヒトの市営墓地に埋葬されていたが、墓地の契約期限が切れたため、その後、テオの妻ヨハンナ・ファン・ゴッホ=ボンゲルたちによって、オーヴェルのジャックが埋葬されている隣りへ改葬したのだという。
僕たちはその墓石に手を合わせた。
友と恩人、そして愛する弟へ感謝を込めて──。
絵の具を使わずともパソコンとペンタブレットというものを操ることで、絵が描けるということを知り、僕はイラストレーターとしてデビューしようと意気込んでいたのだが。
「士郎……これは、どのように操作するのだろうか」
「うむ……」
早々に挫折した。
絵を描くためには、沢山の線を繋がなくてはならないし、ソフト?とやらの設定をして、色を変更するときにはあちこちボタンを押してから絵を描かなくてはならない。元々、機械操作に疎く、更に僕からして未来の物で馴染みのないものだからさっぱりわからない。
士郎もはじめ、面白そうだと線を繋いだり設定をするのに奮闘していたのだが、彼も機械操作に疎いようで、結局、僕たちは諦めることになった。
どうやら僕たちは、筆から卒業することはできないようだ。だが、パソコンの画面は見ているとちかちかして目が疲れ、創作時間が短くなってしまうので、それでいいと思う。
士郎と同居して、二年が経過しようとしていた時、士郎の大きな屋敷の一室を保管庫として絵を入れていたのだが、そろそろ溢れてしまいそうになっていた。どうしたものか、保管していてもこれらをどうこうするつもりはないし、かといって捨てるのはもったいない。暫く、唸りながら考えているとあることを思いついたので、士郎に聞いてみることにした。
「いいんじゃないか? 出してみようか、コンクール」と、彼から許可をもらったので、コンクールに出してみることにした。
ある時、ジリリリリリ……と滅多に鳴ることのない士郎の携帯電話が音を出し、彼は電話に出て暫く話し込んでいた。会話を終えた彼は僕を見ると、勢いよく飛びつき抱きしめてきた。
「流石だな、セント。最優秀賞、おめでとう!」
「まさか、さっきの電話は、コンクールの⁉︎」
「あぁ! 授賞式は来週の水曜日で、テレビの撮影や記者がいるそうだ。名前の公表はふせてもいいし、匿名でもいいそうだけど、どうする」
「そうだな、名前か───」
────当日。
「最優秀賞、おめでとうございます! お名前を伺っても宜しいでしょうか?」と、記者の人が僕にマイクを向けてくる。
「僕は、ジャック・ローガン・ドイルと申します」
ジャック、ハンス・ローガン・エバンズ、アーサー・コナン・ドイルに感謝を──。
こうして、僕は未来で芸術家ジャック・ローガン・ドイルというペンネームで名を馳せることになるのだった。
一八五三年三月三〇日オランダ北ブラバント州フロート・ズンデルトで生まれ、一八九〇年七月二九日にフランス共和国ヴァル=ドワーズ県オーヴェル=シュル=オワーズで三十七年という短い生涯を終えた、フィンセント・ヴァン・ゴッホ。
彼は、フランス共和国ヴァル=ドワーズ県オーヴェル=シュル=オワーズの麦畑で自身の左胸部を銃で撃ち拳銃自殺しただとか、左胸部を撃つのが困難であること、彼の手に火薬が付着していなかったことから他殺だったのではないかとも言われている。
しかし、事実は異なる。『ひまわり』や『夜のカフェテラス』など数々の名作を生み出した彼は、自殺でも他殺でもない。
彼は時間跳躍し、現代でもまた芸術家として生きているのだから。