矢絣の着物に海老茶色の行灯袴。
 そして編み上げ革靴。
 髪はうしろ髪の上の部分だけをひとつに結わえて、小豆色の大きなリボンをつける。

 憧れの女学校の制服は、いつ着てもときめきが止まらない。

 週に一度。多くて二度。
 私、一橋(ひとつばし)あやがこの恰好をできるのは、姉の初子(はつこ)さんが恋人との逢引を楽しんでいるほんの二時間ほどの間だけ。

 半年ほど前、私と初子さんが茶屋で団子を食べながら文学談義をしていたとき、初子さんはうしろに座っていた新聞記者の周防(すおう)公平(きみひら)さんと意見の食い違いからなかば喧嘩になった。

 しかし、なぜかそれから意気投合して、惹かれ合うようになったのだ。

 といっても、華族として生を受けた初子さんと新聞記者の周防さんは身分の違いから、頑固者の父・重蔵(じゅうぞう)の反対に遭うのは目に見えていて、こっそり隠れて会うことしかできない。

 彼女はどこに行くのか言伝してからの外出しか認められていないので、私を伴って買い物に行くということにしてある。

 一橋家の娘ではあるけれど、わけあって初子さんとは違い女中のようなことをしている私が、周防さんと会う間、初子さんとの入れ替わりを提案したのだ。

 華やかな着物では目立ちすぎるため、初子さんは私の粗末な着物を纏い、そして私は初子さんの袴をはいて入れ替わったあと、こっそり家を抜け出すことにしている。

 女学校に行くことが叶わなかった私にとっては、初子さんの逢引を隠すためとはいえ、別世界に浸れる至福の時間だった。


 袴姿でちょっとすました顔をして、街中をうろうろするのが楽しくてたまらない。

 街の中心を横断するように悠然と流れる大きな川にかかる橋にはアーク灯。

 東西に延びる大通りにはモダンな造りの西洋建築。
 あれは銀行だ。せわしなく人が出入りしている。


 この街も数年前まではさほど栄えてはいなかったが、少し離れた街にある大きな紡績会社『津田(つだ)紡績』がすさまじい勢いで業績を伸ばしていて、その結果、工場への雇用が増え、経済的に潤うようになったのだとか。

 なんでも、社長の息子が積極的に陣頭指揮を取るようになってから海外との取引がうんと増え、国の上層部も注目しているらしい。

 私にはそんな話はピンとこないものの、父や母が『津田さんのおかげよね』とよく話しているので、よほどすごい人なのだと思っている。


 街の中心から少し離れたところには線路が敷かれていて、運がよければもくもくと煙を上げて走る蒸気機関車がうっすらと見える。

 どうやら電気で走る電車なるものもできたようだけど、まだ目にしたことがない。


 私は街を歩く人たちを眺めながら想像を膨らませるのに夢中になった。

 あっ、あの人も華族かしら。それともお金持ち?

 声に出しはしないが、人間観察に心躍らせる。

 制帽に詰襟、そして金ボタンの学生服を着て、背筋をピンと伸ばして歩くふたりの男性は、私よりもずっと背が高い。
 きっと帝国大学生だ。

 ということは、上流階級の人だろう。

 私と同じ海老茶色の袴をはいた女学生――海老茶式部もちらほらいる。

 女学校に行けるのはほんの一握りの選ばれた人間だけの特権だ。

 その権利があるかどうかは、生まれ落ちた瞬間に決定する。
 家柄の良し悪しがすべてだった。


 それから街中を歩き始めると、たくさんの商店に目を奪われる。

 いつも言いつけられた買い物にはやってくるものの、時間が限られているためお目当ての店に一直線。こんなにゆったりと歩いたことはない。


「あっ、洋服の仕立て屋さんだわ。ミシンよね、あれ」


 いつもは用がないので通り過ぎる店から、カタカタカタという軽快な音が聞こえてきて、窓から中を覗くと店主が白い布をミシンで縫っている。

 繕い物はよくするけれど、もちろんミシンなんて使った経験がない。
 どういう仕組みになっているのか興味津々。

 私は店主の作業をたっぷり観察したあと、移動した。


 次に目に入ったのは籠(かご)屋さん。
 ここでは一度籠を買ったことがある。
 その店頭で店主が見事な手つきで籠を編んでいく様子をじっと見つめる。


「いらっしゃい」
「あっ、ごめんなさい。客じゃないんです。おじさんが編んでいくのが速くてびっくりして」


 客ではないと言ったのに、店主は嫌な顔をせず対応してくれる。


「もう慣れてるからね。やってみるかい?」
「いいんですか!」


 うれしくて声が上ずる。

 それから手ほどきを受け、少しだけ編ませてもらった。


「なかなかうまいじゃないか。だけど、きれいな着物を着たお嬢さんが、籠編みに興味を持つなんて珍しいねぇ」


 しまった。初子さんの代わりをしていることなんて、すっかり頭から飛んでいた。


「あはは。おじさん、ありがとう!」


 私は曖昧に笑ってごまかし、店を飛び出した。


「あっ、いけない……」


 遠くから蒸気機関車が近づいてくる音がする。

 家の中で家事に追い立てられているときとは違い、好きなことをしていられる時間があまりに楽しくて、初子さんとの約束の時刻が迫っているのに気づかなかった。

 今日は、あの蒸気機関車が通る頃には合流しなければならなかったのに。

 時計を持たない私は、どこかの店先にある時計を盗み見するか、太陽の位置で大体の時間を把握していたが、すっかり忘れてはしゃいでいた。

 ああ、この夢中になると他のことを忘れる性格をなんとかしなくては。