切り分けたチェリーパイを義母であるエトワルド伯爵夫人と、数人のメイドたちと分けたところでちょうど一切れだけ余った。
「あら、そしたらちょうど3時だし、ダニエルのところへ持って行ったらどうかしら」
義母の提案に、確かに買って来てくれたのはダニエルだったのに、一切れだけを今朝勢いのまま食べてただけで、はいおしまいというのも可哀想だとシェリルは頷く。
「そう、ですわね。せっかく買ってきてくれたのだし。だったら私が持っていきますわ」
自分たちが持っていくとメイドが声を上げるのを制し、ワゴンに乗せたパイと紅茶をゴロゴロと引っ張って、シェリルはダニエルが仕事をしている書斎へと足を運ぶ。
重厚な両開きの扉をノックしようと手を持ち上げたところで、中から誰かと話すダニエルの声がしてその手を宙で止めた。
「……しかしこのまま清い結婚を続けることになりますと、スタンダード家有責のもと、離縁する必要が出てきます。ダニエル様しか跡継ぎが居られないのに、子が出来ないとなると大問題なのですよ」
どくん、と大きく心臓が嫌な音を立てた。
この声は家令であるジェシーの声だ。
そっと扉に近づいて、そのまま二人の会話に耳を澄ます。
「旦那様も早く孫が見たいと仰られてます。焦らすようではありますがーー」
「俺は、シェリルの気持ちが整うまでは手は出さないと決めてる。それで離縁になろうとも、彼女の心に傷を作ってまで襲おうとは思わないが」
ピシャリ、と言い切るダニエルに、それでもジェシーが何か言い募る声がする。
しかしシェリルはそれ以上聞いていられなくて、近くを通りかかったメイドにワゴンに乗ったお茶の指示を出してその場をそそくさと立ち去った。
(……離縁ですって!?)
家令が何を言おうともどうってことないが、まさか、ダニエルすら離縁の可能性を否定しないなんて。
『それで離縁になろうとも、彼女の心に傷を作ってまで襲おうとは思わない』
そんなふうに考えて、シェリルに触れようとしなかったなんて。
それで離縁なんてことになったら全く、まっったく笑えない。
「貴方は、私が欲しくて、あんなにも姑息に他の男たちを蹴散らかして来たんじゃないのよっ!」
そう、自分にいつまで経っても婚約者ができないのも、ついこの間まで言い寄って来ていた周りの男性がどんどん婚約していくのも、常に私に張り付いて牽制していた男のせいだと知っていた。知っていて、放っておいた。
いつか自分を貰ってくれる男がいると分かっていたから。
それを、……私も望んでいたから。
父親ーースタンダード侯爵が認める家格の男の下限が、伯爵位である彼のところに落ちるまで、ずっとずっと、待っていたのだ。
それを簡単に離縁だなんて言ってくれるな。
いや……意地を張って、彼に触れさせなかった自分が一番、馬鹿で意気地なしで、どうしようも無い女だってことは分かっている。
もうちゃんと、素直になるから。
「私を手放そうとしないでよ……」
触らない、なんて。言わないでよ。