それから一週間。一日一回、瓶を軽く上下させてガス抜きをする作業を続けた。果物の皮についていた酵母が、果物の糖分を餌にしてどんどん育っていく。ブドウ酵母などは特に元気がよく、糖分を分解したときにできる炭酸ガスでシュワシュワと泡が立っていた。これと小麦粉を混ぜて元種を作れば、二日後にはパンが焼ける!
 梨里は引き出しを開けて、ヴィルにもらった金貨を取り出した。ヴィルはこの一週間、毎日、夕方に食料を持って梨里の様子を見に来てくれたので、最初にもらった金貨はまだ一枚も使っていない。
 金貨一枚にどれくらいの価値があるのかわからないが、梨里はとりあえず金貨を二枚持って南市場に行ってみることにした。服はエミリアのドレスを梨里のサイズに合うように直して着ているが、やっぱりこの世界の人々とは違う黒髪と彫りの深くない顔立ちのせいか、目立ってしまうようだ。歩いているうちに、人々からじろじろ見られていることに気づいた。
(そりゃ、珍しいのはわかるけど……いくらなんでもちょっと見過ぎじゃない……?)
 梨里は足早に市場の中を歩き、小麦を売っている店を見つけた。上に幌のある木の台の上に布袋がいくつか置かれていて、中には粒のままの小麦、ライ麦、全粒粉、精製された小麦粉などが並んでいる。
(わあ、いろんな粉がある!)
 梨里は嬉しくなりながら、店の奥にいる太った中年男に声をかける。
「すみません、小麦粉をください」
「あいよ」
「これでどのくらい買えますか?」
 梨里が金貨を一枚差し出すと、その小麦商人は無遠慮にも梨里を頭の先から足の先までじろじろと見た。
「あんたが……エミリアたちの家に住みついたっていう異世界の女か」
 小麦商人は金貨を受け取ってガリッと噛んだ。
「えっ」
 梨里が驚いて見ていると、小麦商人は金貨をガリガリと噛みしめてから目の前に持ち上げる。
「ふーん、魔術で作った偽物じゃあないようだな。まあ、金貨一枚ならこのくらいだ」
 小麦商人は小さな袋に入った小麦粉を梨里に渡した。パンが二斤焼ける量だが……金貨二枚でこれだけしか買えないなら、物価はかなり高そうだ。
「まだ金貨は持ってんのか?」
 小麦商人の貪欲そうな目を見て、梨里は持っている、とは答えないことにした。
「え、ええと、今は持ってないです。あの、私、まだこの世界には慣れてなくて、ヴィル……ええと、ヴィルフリートに助けてもらってます」
 梨里の言葉を聞いて、小麦商人は眉を寄せる。
「ヴィルフリートって……ノイリンゲン侯爵のヴィルフリート・クヴェードリンブルク様のことか?」
「侯爵? えっ」
 ヴィルは侯爵だったのか! 名字があるのは爵位を持つ者だけだとヴィルから聞いていたが……まさか彼が侯爵だったなんて。
「何だ、その反応は。本当は侯爵様のことなど知らないんだろ? お前は勝手にあの家に住みついたんだな? この金貨もエミリアたちのものじゃないのか!?」
 小麦商人が商品を置いた台を回って梨里に近づいてきたので、梨里は驚いて後ずさった。
「ち、違いますっ」
「この泥棒がっ」
 小麦商人が両手を伸ばし、梨里につかみかかろうとした。梨里はとっさに身を翻して走り出す。人混みをかき分けて必死で走りながら振り向いたが、小麦商人が追いかけてくる気配はなかった。けれど、周囲の人たちは不審者を見るような目つきで梨里を見ている。
 梨里は泣きたい気持ちになりながら、家に走って戻った。ドアを閉めて錠を下ろし、肩でハアハアと息をする。
(怖かった……けど、何とか小麦粉だけは買えた)
 梨里は煮沸消毒した瓶にブドウ酵母を少しと小麦粉を入れて混ぜ、ふたをして棚の陰に置いた。こうすればパンを作る元になる元種ができるのだ。明日、この元種にさらに小麦粉を混ぜて発酵させれば、明後日パンが焼ける。それは楽しみなはずなのに、さっきの市場での出来事を思うと、怖くて心が浮き立たない。
 梨里は戸締まりを確認すると、手早くシャワーを浴びて早々にベッドに潜り込んだ。

 その翌日、梨里は朝日がまぶしくて目を覚ました。キッチンに降りて元種の様子を見ると、プツプツと小さな泡が立っていて、酵母が元気に活動しているのがわかる。梨里はそれに小麦粉と水を加えてよく混ぜた。こうして二回継ぐと、元気な酵母でふっくら美味しいパンが焼けるのだ。ほかの瓶を見ると、ほかの果物の酵母たちも元気に育っているようだ。
(いろんな果物で酵母を育てよう。それでパンを焼いて……ここで天然酵母ベーカリーを開くのはどうかな)
 朝食を食べながらあれこれ考える。
 エミリアが使っていたショーケースを改良すれば、ベーカリーを開けそうだ。夢だった天然酵母パンの店を出せることを考えると胸が躍るが……そのためには小麦粉を仕入れられる店を見つけなければならない。昨日の南市場の商人からはもう買いたくない。だが、ほかの人たちの反応を見ても、自分はこの世界の人たちに歓迎されていないのかも、という思いが強くなる。
 梨里が下唇を噛んだとき、扉のノッカーが叩かれた。
(もしかして……昨日の小麦商人……?)
 梨里は不安になって息を潜めた。すると再びノッカーが叩かれ、ヴィルの声が聞こえてくる。
「リリー? まだ寝てるのか? リリー?」
 梨里はドアに駆け寄り、錠を外して扉を開けた。
「ヴィル!」
「リリー、おはよう」
 ヴィルの笑顔にじーんとして、梨里は思わず彼の胸に飛び込んだ。
「ヴィル!」
「どうした、リリー」
 ヴィルは驚きながらも、梨里の背中にそっと両手を回した。
「昨日の夕方、リリーを訪ねたんだが、いなかった。出かけてたのか?」
「はい……買い物に。昨日来てくださってたんですか……」
 そこまで言ってから、梨里はヴィルが侯爵だということを思い出した。
「あっ、すみません、侯爵様に無礼なことを!」
 梨里がさっと後ずさったので、ヴィルは驚いたように手を離した。
「私が侯爵だったら何か問題か?」
 ヴィルに真顔で問われて、梨里は言いよどむ。
「え、だって、ヴィル……侯爵様はものすごく身分の高い方じゃないですか。それなのに、私みたいなのがこんなに馴れ馴れしく……」
「リリー」
 ヴィルは上体をかがめて梨里の目を覗き込んだ。
「私はリリーが異世界から来た少女だからと言って、接する態度を変えたりはしない」
 ヴィルの言葉に梨里はハッとなった。昨日の小麦商人などは、まさに梨里が異世界人だからと言って、泥棒のように扱った。
 ヴィルは梨里の両肩にそっと手を置いた。
「だから、リリーも私が侯爵であろうとなかろうと、今まで通り接してほしい」
「ご、ごめんなさい」
 梨里の両目に涙が盛り上がった。ヴィルは梨里を胸に抱き寄せて、背中をよしよしと撫でる。
「泣かないでくれ。きつい言い方をしてすまなかった」
 梨里は涙を拭うと顔を上げた。
「いいえ、すみません、大丈夫です。それより、今日は朝から来てくださるなんて、どうしたんですか?」
「うん、今日は久しぶりに休暇を取ったから、リリーをピクニックに誘いに来たんだ」
 梨里はそのとき初めて、ヴィルがいつもの騎士の服装ではなく、シンプルなシャツとトラウザーズという格好なのに気づいた。
「ピクニック、ですか?」
「気晴らしになるかと思ってね。王城のコックに頼んで、ランチボックスを用意してもらったんだが」
 ヴィルが振り返り、梨里は扉の前に馬が一頭いるのに気づいた。馬の背には丸めたブランケットやバスケットが乗せられている。
「馬で行くんですか?」
「ああ。リリーは馬車が初めてだと言っていただろう? だから、馬に乗ったこともないと思ったんだが」
「ありません」
「乗馬も楽しいぞ。今から行けるかな?」
 ヴィルの笑顔を見て、梨里は心が軽くなるのを感じた。
「はい!」
 梨里は扉に鍵をかけると外に出た。
「先にリリーを乗せよう」
 ヴィルは梨里の両腰を掴むと、軽々と馬上に持ち上げた。梨里は長いスカートを広げて馬に跨がる。続いてヴィルがひらりと梨里の後ろに跨がった。後ろから彼にピタリと体を寄せられ、彼が手綱を握る。あまりに密着されて、梨里は顔が熱くなるのを感じた。
「出発するよ」
 ヴィルが馬の脇腹を蹴り、馬はゆっくりと歩き出した。ヴィルは手綱を操り、市場とは逆の方向、街外れへと馬を進める。周囲には家はほとんどなく、すぐに野原に出た。野原には小川が流れていて、日の光を浴びて川面で光がキラキラと踊っている。川辺にはピンクや白のコスモスが咲き乱れていて、その美しさに梨里は感嘆の声を上げた。
「わぁ……きれい!」
「もう少し進むと森がある」
 ヴィルの言葉を聞いて梨里は表情を曇らせた。
「森……ですか?」
「この辺りの森は安全だ。第二騎士団が警備をしている地域だからね」
 だが、その影響力が及ばない地域もあるのだ、とヴィルは悲しげにつぶやいた。きっとエミリアのことを思い出しているのだろう。
「さあ、着いた」
 ヴィルは森の入口で馬を止めた。先に降りて両手を伸ばし、梨里の腰を掴んだ。梨里は彼の肩に掴まって地面に降りる。
「ありがとうございます」
「少し歩いてみるか?」
「はい!」
 ヴィルは馬の手綱を木の枝に結びつけた。ヴィルが促すように梨里の腰に手を回し、梨里はドギマギしながら足を前に進める。
「きょ、今日はお仕事お休みなんですか?」
 何か話題をと思って、梨里は口を開いた。
「ああ。騎士舎の管理もあって、基本的に休みは取らないんだが、たまには休むように前々から副団長に言われていてね」
「基本的に休みは取らないって……! 働き過ぎじゃないですか!」
 梨里は目を丸くしてヴィルを見た。ヴィルはかすかに笑みを浮かべる。
「仕事をしていると……悲しいことや嫌なことを忘れられるだろう?」
 ヴィルの瞳が悲しげに揺らぎ、エミリアのことを思い出しているのだとわかった。
「だからって、働き過ぎはよくないですよ! 騎士団ってブラック企業じゃないですか!」
「ブラック企業?」
 ヴィルが首を傾げ、梨里は「あ」と口に手を当てる。
「元いた世界では……社員を劣悪な条件でこき使う会社のことをそう呼んでいたんです」
「騎士団はそんなことはない。陛下はつねに国民のことを考えてくださっている。だから、私も街を守ることで、国民を守るという陛下の思いに応えたいと思っている」
「陛下は……どんな方なんですか?」
 あの第一王子の様子からすると、国王陛下もイマイチな感じに思うのだが……。
 だが、ヴィルは敬意の込もった口調で言う。
「すばらしい外交手腕をお持ちで、この三十年、戦争もなく、平和に国家を治めていらっしゃる」
「でも……隣国はスパイを送ってくるんでしょう?」
 梨里はヴィルから聞いたエミリアの夫の話を思い出しながら言った。
「世の中には平和を嫌う者もいる。戦争になれば武器が売れるし、金貸しも儲かる」
「でも、国民は苦しむことになりますよね」
「ああ。だから、そうならないよう力を尽くされている国王陛下を、私は全力でお支えしたいのだ」
「ヴィルって本当にいい人なんですね。異世界からきた私の面倒も見てくださって」
 そのとき小川のほとりに着き、梨里はしゃがんで水に手を入れた。
「わぁ、冷たい」
 隣にヴィルが片膝をついて座った。
「リリーに初めて会ったときから、目が離せなくなったんだよ」
 どういう意味だろうかと梨里は首を傾げた。初めて会ったときは……元の世界に帰れないと知って絶望して泣きながらも……ヴィルに『幼い』と言われて腹を立てていた気がする。
「このまま放っておけないな、と思ったんだ」
「おじい様に頼まれたんですものね?」
 梨里は伺うようにヴィルを見た。
「頼まれても、断ることだってできたよ」
「でも、相手が私じゃなくても断ったりしなかったんでしょう?」
「そうだな。だが、リリーでなければ、エミリアたちの家には住まわせなかった」
 ヴィルは言って、梨里の髪をくしゃくしゃと撫でた。きっと彼は梨里を妹のように思って面倒を見てくれているのだろう。
「さて、そろそろランチにしようか。王城のコックだから、腕は超一流だ」
「わー、楽しみです!」
 梨里はヴィルと一緒にブランケットを広げた。ヴィルがバスケットを開けると、ロールサンドがいくつも入っていた。薄いパンにレタスやローストビーフ、ハムや卵などが巻かれている。
「リリーに作ってもらったものを説明したんだ。パンは肉や野菜と別々に食べるものだったから、コックは驚いていた。だが、これからこういう食べ方が流行るかもしれないな」
「むしろ今まで一緒に食べようとしなかった方が驚きなんですけど」
「ははは」
 ヴィルが楽しそうに声を上げて笑った。彼の笑い声を初めて聞いたような気がして、梨里は胸がほわんと温かくなる。
「それじゃあ、食べようか」
 ヴィルに促されて、梨里は両手を合わせた。
「はい、いただきます!」
「それはリリーの世界での礼儀作法か?」
 ヴィルに訊かれて梨里は頷く。
「はい」
「なるほど。では、いただきます」
 ヴィルは同じように手を合わせてから、梨里に向かって軽くウィンクをした。

 それから森を散策して野ブドウを見つけて食べたり、リスの巣を探したりした。そうして楽しい時間を過ごし、日が暮れ始める前にまた馬に乗せてもらって帰路についた。
 馬に揺られながら、梨里は考えていたことを話し始める。
「私、元の世界ではパン職人として働いていたんです」
「そう言っていたな」
 耳元でヴィルの低く柔らかな声がしてくすぐったい。梨里は軽く首をすくめて話を続ける。
「それで、こっちの世界で夢だった自分のベーカリーを開こうと思って。こっちのパンとは違う、ふんわりした風味豊かなパンを焼きたいんです」
「エミリアのようなことを言う」
 ヴィルがぼそりとつぶやいた。
「え?」
「エミリアも自分がデザインした、人とは違う物を売りたいと言って、あの髪飾りの店を始めたんだ」
「そうだったんですか……。その店を……私が使わせてもらってもいいでしょうか?」
 梨里が肩越しに振り返ると、すぐそばにヴィルの顔があってドキッとする。
「もちろん。きっとエミリアも喜ぶ。パンが焼けたら、私がお客第一号になろう」
 頬に彼の息がかかり、梨里はドギマギして前を向いた。
「あ、ありがとうございます。そ、それで、衛生面を考えてガラスを使ったショーケースにしたいんですけど……」
「それなら家具職人に言って作らせよう。馴染みの職人を紹介する」
「ありがとうございます!」
「ほかには……パンなら塩と小麦粉が必要だな」
 小麦粉、と聞いて、梨里の表情が曇った。昨日の小麦商人の様子を思い出し、小麦を売ってもらえるだろうかと不安になる。
「どうした?」
 ヴィルが肩越しに顔を覗き込み、その距離の近さに梨里は顔を赤くしながら答える。
「う、あ、小麦粉って市場以外でも買えますか……?」
「市場以外でとなると、農家から直接仕入れなければならないが……それなら大量に買いつける必要が出てくる。小麦を挽く必要もあるから、粉挽き業者を探さなければならない。そのつては残念ながらないんだが……」
 ヴィルにすまなさそうに言われて、梨里は肩を落とした。ということは、あの小麦商人から買うしかないのか。
 やがてエミリアたちの家が見えてきたが、梨里は違和感を覚えた。それはヴィルも同じようで、馬の脇腹を蹴って歩を速める。
「どういうことだ!?」
 家の前に到着し、ヴィルは馬からひらりと降りた。馬上の梨里にも家が荒らされていることがわかった。木の扉が蹴破られたように内側に倒れているのだ。
「嘘っ」
 ヴィルは梨里を馬から下ろすと、馬の陰に追いやった。
「リリーはここで待っていろ」
 ヴィルは腰を低く構えて右手を左腰にやったが、そこに剣がないことに気づいた。
「しまった。休暇だから帯剣していなかった」
 ヴィルはベルントが彼を呼ぶときにしていたように左手を胸に当てて目を閉じた。そうしてすぐに目を開ける。
「副団長に思念を送った。すぐに駆けつけるはずだ。それまでリリーは離れていろ」
 言うなりヴィルは家の中に飛び込んだ。
「ヴィル!」
 ヴィルはざっと一階を見て回り、足音を忍ばせて階段を上る。
(家を荒らした犯人が二階にいたら……ヴィルは丸腰なのに……っ)
 梨里は心配になって胸の前で祈るように両手を組んだ。少ししてヴィルが階段を下りてくるのが見えて、ホッとする。彼は壊れた戸口から外に出て梨里の前に立った。
「家の中には誰もいない。ショックだと思うが、被害を確認してくれないか?」
 ヴィルが左手を伸ばして梨里の右手を握った。梨里は不安からヴィルの手をギュッと握る。彼に続いて家に入り、ダイニングキッチンの床が見えて泣きそうになった。被害があったのは、入口の扉と大切に育てた酵母の瓶だった。ブリーベリーやリンゴ、洋ナシなどで起こしていた酵母の瓶が、床に落とされ割られていたのだ。木の床に果物が散乱し、酵母液が染み込んでいる。
「ひどい……」
 梨里はその場にへなへなとくずおれた。ヴィルが膝をついて梨里の腰に手を回す。
「リリー」
「あれで酵母を起こしてパンを焼こうと思ってたのに! 大切に育てた酵母だったのに! もうすぐ……パンが焼けたのに……」
 自分はこの世界に歓迎されていないどころか、こんなにも疎まれていたのか! そのショックに、目から涙が溢れ出す。
「リリー」
 ヴィルが梨里をギュッと抱きしめた。
「犯人を必ず見つける。この街の治安維持を預かる第二騎士団団長の名誉にかけて」
 ヴィルが今までになく低い声で言った。そのとき、外から男性の声が聞こえてくる。
「団長!」
 ヴィルは梨里を抱えるようにして立たせた。梨里がそちらを見ると、四人の騎士が立っている。一人の衣装には肩章と飾り紐がついていたが、残りの三人にはついていなかった。肩章と飾り紐のついた騎士にヴィルが言う。
「副団長、現場を調べてくれ。この家にあっては不自然な物を残らず見つけ出してほしい」
「承知しました」
「私はリリーを送ってから戻ってくる」
「お気をつけて」
 騎士たちが敬礼し、ヴィルは小さく頷いた。梨里はヴィルに促されるようにして外に出る。
「ここは心配だから、クヴェードリンブルク家のタウンハウスに連れていく」
「タウンハウス?」
「王都に滞在するときに使う家のことだ」
 ヴィルは侯爵だから、領地には別の大邸宅があるのだろう。梨里はぼんやりしたままヴィルに馬に乗せられ、暮れかけた街の通りを進んだ。やがて王城の見える石造りの三階建ての邸宅の前に着いた。
「お帰りなさいませ、ヴィル様」
 扉が開いて、白いシャツに黒のベストと半ズボン、絹の靴下と革靴を履いた初老の男性が現れた。ヴィルは左手で梨里の腰を支えながら言う。
「リリー、執事のコンラートだ。コンラート、こちらはリリーだ。エミリアたちの家をリリーに貸していたんだが……留守にしている間に何者かに荒らされた。私は調査に戻らなければならないから、その間リリーを頼む」
「かしこまりました。リリー様、さ、こちらへ」
 コンラートが恭しく中を示したが、梨里は不安でヴィルを見た。
「ヴィル……」
 ヴィルは右手で梨里の右手をギュッと握る。
「部屋を荒らした犯人を捕まえる。そうして償いをさせる。コンラートは私が幼い頃から侯爵家に仕えてくれている。ここは安全だから、しばらくここにいるといい」
 ヴィルが梨里の手を離して馬に跨がった。梨里は彼に声をかける。
「あの、どうかお気をつけて!」
「ありがとう」
 ヴィルは馬を蹴った。梨里は彼の姿が通りを曲がって見えなくなるまで見送った。
「リリー様、大変だったでしょう。食事を用意させますから、どうぞおくつろぎください」
 コンラートに声をかけられ、梨里は彼の方を向いた。
「ありがとうございます。お世話をおかけします」
 邸宅の入口は広い玄関になっていて、梨里は美しい絨毯の敷かれた応接室に案内された。ゆったりしたソファがあり、「こちらでお待ちください」と勧められた。あまりに豪華な部屋に戸惑っているうちに、今度はグレーのワンピースに白いエプロンを着けた女性が現れた。梨里より少し年下くらいの女性だ。
「キッチンメイドのカーヤと申します。エミリア様が嫁がれて以来、こちらに侍女はおりませんので、私がリリー様のお世話をいたします」
 カーヤは先に立って、二階の奥にあるバスルームに梨里を案内した。
「エミリア様の衣装をご用意しています。お手伝いいたしましょうか?」
 カーヤの言葉を聞いて、梨里は瞬きをした。つまり、服を脱がせるとか体を洗うとか、そういう手伝いのことを言っているのだろう。
「い、いいえっ、大丈夫ですっ」
「かしこまりました。では、入浴が済まれましたらお呼びください」
 カーヤは一礼して部屋を出て行った。そこは床全体にタイルが敷き詰められ、真ん中に大きなバスタブが置かれただけの部屋だ。部屋の四隅にランプが置かれていて、全体をリラックスできそうな淡いオレンジ色に染めている。
(部屋一つがバスルームなんて、贅沢……!)
 バスタブにはたっぷりと湯が張られていた。台の上の籐製のカゴにはふかふかのタオルとすみれ色のドレスが入っている。肩の部分を持って持ち上げてみたら、貴族の女性が着るような本物のドレスである。
(これ……私が着たら絶対胸が余る……)
 美しいドレスを着てみたい気もするが、この貧相な体には似合わない自信がある。梨里は着てきた服をもう一度着ることにして、ドレスをカゴに戻した。ワンピースを脱いでバスタブに入る。久しぶりの湯船に、梨里は大きく息を吐き出した。けれど、やっぱり心は安まらない。せっかくヴィルがエミリアたちの家に住まわせてくれたのに、あんな目に遭った。ここにだっていつまでもいられるわけじゃない。
(いったいどうすればいいんだろう……)
 梨里はバスタブの縁に頭を預けて天井を見上げた。天井は豪華な彫刻が施された折り上げ天井になっている。
(でも、今はヴィルに頼るしかないんだ……)
 申し訳ない気持ちになりながら、梨里は入浴を終えた。着てきたワンピースを着て部屋を出る。カーヤは『入浴が済まれましたらお呼びください』と言ってくれたが、どうやって呼べばいいのかわからず、梨里は一人で一階に下りた。足音に気づいて、どこからともなくコンラートが姿を現す。
「リリー様、カーヤにドレスを着るお手伝いをさせましょう」
 梨里は慌てて首を横に振った。
「い、いえ。お気遣いなく。こっちの方が私は落ち着きますので……」
「さようでございますか。では、ダイニングに案内いたします」
 コンラートに先導され、今度は応接室の向かい側にある部屋に通された。部屋の中央にはアンティーク調の重厚なテーブルが置かれ、両側に椅子が並んでいる。
「どうぞ」
 コンラートに椅子を引かれ、梨里は恐縮しながら座った。すぐにカーヤと同じ服装の四十歳くらいの女性が盆を持って現れた。
「コックのマルガと申します。今日は久々にお客様がお見えということで、腕を振るいましたよ」
 梨里の前に野菜たっぷりのスープが置かれた。
「あとは牛肉と野菜のグリル、それにパンをお持ちしますね」
「ありがとうございます」
 梨里はセッティングされていたスプーンを取り上げ、スープを口に運んだ。煮込まれた多彩な野菜の旨味にホッとする。
(ここの人たちは……私を見ても市場の人たちみたいな反応を見せなかった……)
 そのことに嬉しくなりながらも、それは召使いだからなのだろうか、と考えた。梨里は扉の横に控えているコンラートに声をかける。
「あの……コンラートさんは……髪の色も目の色も違う私がこんなところに座っていても……何とも思わないんですか?」
 コンラートは体勢を崩さずに答える。
「私たちはお仕えするヴィル様が、人を身分や外見で判断なさらないことを誇りに思っております」
 コンラートのその言葉に、梨里は胸がじぃんと熱くなった。