「だからぁ、何度提案されてもうちでは無理なんだよ。天然酵母のパンなんて、時間も手間もかかる。うちみたいに駅前にある忙しいパン屋で作れるわけないだろ。どうしても作りたきゃ、独立すればいい。そんな金もコネもないだろうけどな。ほら、勤務が終わったらさっさと帰れ。残業代は出せないんだからな」
 勤務先のベーカリーの男性店長に厳しい声で言われて、高居(たかい)梨里(りり)は「すみませんでした」と頭を下げた。そうして裏口から出てトボトボと歩く。
 店長は「この辺りは競争が厳しいから、給料をカットするしかない」とか「生き残るためにコストダウンだ!」と口癖のように言う。梨里は店を差別化してリピーターを増やすために、女性に人気の天然酵母パンを何度か提案してみたけれど……今日も怒られただけだった。
「あーあ……毎日同じ時間にベーカリーに行って、同じパンを焼いて、厨房の掃除をして……その繰り返しかぁ」
 パンが大好きで、高校卒業後に製パン専門学校に入学した。一年間技術を学んで、専門学校の紹介で就職したベーカリーだったけど……。学校に通っていたときは夢がいっぱいあったのに、現実は……「廃棄パンを減らせ!」「コスト削減!」と怒鳴られる日々。
 夢も心もすり減っていきそうだ。
 梨里は歩道をトボトボと歩き始めた。隣の駅前にある狭い賃貸アパートが梨里の家だ。両親は梨里が製パン専門学校に入った直後に事故で亡くなった。だから、両親には梨里が趣味として作っていたときのパンしか、食べさせてあげられなかった……。
 両親のことを思うと、鼻の奥がつんと痛くなった。涙が零れそうになったとき、突然強い風が吹きつけてきた。
「えっ……きゃ……」
 風はゴウゴウと大きな音を立てながら、渦を巻き始める。
「こ、これって……竜巻!?」
 梨里が恐怖を覚えたとき、目の前で女性がふわっと浮き上がった。梨里より少し年上の女性だ。
「きゃああぁっ」
「だ、大丈夫ですかっ」
 梨里は女性に向かって手を伸ばした。
「助けてぇーっ」
 女性は必死で両手を伸ばす。どうにか右手を伸ばして女性の左手を掴んだとき、梨里も風に煽られるようにして地面から足が離れた。
「きゃ、あああっ」
 風の中を体がくるくると舞い、上下左右がわからなくなる。
「た、助けて」
 女性の声が聞こえて、梨里は彼女を離すまいと左手を伸ばした。女性も右手を伸ばして、互いの手をギュッと握り合う。
「きゃーっ」
 風は耳が潰れそうなくらい大きな音で吹き荒れる。雨雲の中に突っ込んだように辺りが真っ暗になって……梨里は意識を失った。

 がやがやと人の話し声がして、梨里はふと我に返った。いつの間にか竜巻は収まっていて、梨里は硬い床の上にうつぶせに倒れていた。
(私、助かったの……?)
 ゆっくりと体を起こして辺りを見回し、愕然とする。梨里の――正確に言えば一緒に竜巻に巻き込まれた女性と梨里の――周囲には、ファンタジー漫画に出てくるようなローブを着た人たちが十人ほどいたのだ。
 その中の一人、白いあごひげをたくわえ、フードを目深に被った男性が、何か嬉しそうな声を上げて、手に持っていた杖を振り上げた。杖はまさにファンタジーの世界で魔法使いが使うような形をしていて、上部には赤い宝石の飾りが付いている。
(な、何? ここはどこ? この人たちは誰!?)
 梨里は一緒に竜巻に巻き込まれた女性を見た。女性は少し先で、床に手をついて上体を起こしていた。呆然とした表情だ。大学生くらいで、白い半袖カットソーにペールブルーのフレアスカートを着ている。柔らかな茶色い髪は緩やかにウェーブがかかっていて、彫りが深く、大きな黒い瞳が印象的な美人だ。
 梨里は手を使って床を這うようにしながら女性に近づいた。
「だ、大丈夫ですか?」
 怯えた表情だった女性は、梨里を見て泣き出しそうになる。
「何なの、あの人たち。ここはどこなの? 私たち、竜巻で外国にでも飛ばされたの?」
 女性の言葉で、梨里は周囲にいる人たちが、金色や明るい茶色の髪をしていることに気づいた。フードのせいで顔はよく見えないが……肌は透き通るように白い。何より話している言葉に、まったく聞き覚えがない。
「そんな……そんなバカなことが……」
 梨里は不安な気持ちで辺りを見回した。みんな杖を振り上げて喜びの声を上げていて……すぐに危害を加えられそうな雰囲気はないが……。
 しかし、そのうち不思議なことが起こった。梨里の周囲を満たしていた雑音にしか聞こえなかった音が……言葉として認識できるようになったのだ。さっきまでわけのわからなかった言葉が、日本語と同じように理解できる。
「どうして……?」
 女性も驚いたように目を見開いた。
「さっきまでぜんぜん意味がわからなかったのに……」
 梨里も愕然とする。すると、最初に杖を振り上げた白いあごひげの男性が近づいてきた。そうして女性の前で片膝をつき、深々とお辞儀をする。
「ようこそお越しくださいました、聖女様」
「えっ!? せ、聖女?」
「いかにも。あなた様はバンベルク王国の第一王子、アルフォンス様の花嫁となられるお方です」
「え、ちょっと待って。バンベルク王国? 第一王子? 何それ!」
 女性はお尻をついたまま後ずさる。
「ベルント、聖女様は召喚できたか?」
 突然、若い男性の声がして、広間の扉が大きく開いた。ブーツの音を響かせ大股で入ってきたのは、暗めの金髪をした二十歳過ぎくらいの男性だ。中世の王族が着るような、胸元にフリルがたっぷりついたシャツと金で刺繍が施された赤い燕尾服のようなものを着ている。
「はい、アルフォンス様。こちらが聖女様でございます」
 あごひげの男性――ベルント――は恭しくお辞儀をした。
「なるほど、確かに美しい。私の妻にぴったりだ」
 アルフォンスの言葉を聞いて、女性はうろたえた。
「そ、そんな」
「そなた、名は何と言う?」
「え、わ、わた、私……」
「急に召喚されて戸惑っておろう。だが、これも我が王国に安寧と繁栄をもたらすための神の思し召しなのだ。そなたが国母にふさわしい聖女の素質を備えているがゆえのこと。さあ、今日はゆっくり休むがよい」
 アルフォンスは女性の手を取って立たせた。ベルントがアルフォンスに問いかける。
「アルフォンス様、こちらの少女はいかがいたしましょう? 側室になさいますか?」
 アルフォンスは梨里に目を向けた。直後、あからさまに顔をしかめる。
「こんな貧相な小娘、好みではない。捨て置け」
 言うやいなや、アルフォンスは女性を促しながら扉に向かった。女性が不安そうに振り返ったが、従者と思しき男性が二人、アルフォンスたちの後に続き、すぐに女性の姿は見えなくなった。
 残された梨里は心細さのあまり泣きそうになるのをぐっとこらえ、ベルントに問いかける。
「あの、いったいどういうことなのか説明してもらえませんか?」
 ベルントは梨里に向き直り、フードを下ろした。七十歳くらいの白髪の老人の顔が現れる。しわが刻まれたその顔は、しかし、百戦錬磨の魔法使いといった印象だ。
 そんなことを思って、梨里は自分に驚く。
(魔法使いって……そんなバカな)
 ベルントは梨里の前で片膝をついて話し始めた。
「千年前、神のお告げにより、一人の男がここに王国を築きました。それが初代国王、ツェーザル・バンベルクです。それ以降、百年に一度、神のお告げがあり、お告げに従うことで、バンベルク王国は栄えてきました。先頃新たに、異世界より聖女を召喚して第一王子の花嫁とするように、とのお告げがありました。バンベルク王国が末永く栄えるためには、これまで通り神のお告げに従わねばなりませぬ」
「お告げ……? 異世界……?」
(そんなの信じられない! きっと夢を見てるんだ)
 梨里は自分の頬を右手で思いっきりつねった。
「いった!」
 あまりの痛さに涙目になる。ベルントは困ったような笑みを浮かべて話を続ける。
「魔導師十人がかりで召喚の儀式を行い……本来なら聖女様お一人を召喚するはずだったのですが、何かの手違いであなたも召喚されてしまったようです」
「手違いって……!」
 異世界とか召喚とか、まだ信じられない。だけど、ここに来る直前に巻き込まれた竜巻が……召喚の儀式だったのでは、という気がしてきた。
「じゃあ、私は……さっきの女性の巻き添えを食って……召喚されたっていうの……?」
 梨里は呆然とつぶやいた。
「そのようです。先程のお方からは聖なる力を感じましたが……残念ながらあなたからは何も特別な力を感じませぬ」
 ベルントがすまなさそうに言った。
「どうせ私は貧相な凡人ですよっ。っていうか、そもそもこんなの誘拐じゃないですか! 地球に、日本に戻してくださいっ! さっきの女性も一緒に!」
 梨里の言葉を聞いて、ベルントの顔がますます申し訳なさそうになる。
「それは無理なのです」
「無理って? どういうこと?」
「召喚の儀式によって作られる世界を結ぶ道は、一方通行でしかないのです。こちらから元の世界には行けません」
「な……っ」
 梨里は全身から血の気が引くのを感じた。
「だったら……私、これから……どうしたらいいの……?」
 元いた世界に戻れないなんて。苦労して製パン専門学校を卒業して、ようやく夢だったパンを作って生活してたのに!
 頼れる人が誰もいない異世界で『捨て置け』と一人取り残され、これからどうやって生きていけばいいのか。それを思うと絶望しかなく、目からポロポロと涙が零れた。
「お気の毒です」
「お気の毒じゃないですっ。何とかしてください。せめて……住むところと食料を……」
 梨里はベルントにすがるように言った。彼は左手を顎に当てる。
「そうですな。それくらいはせねばなりませぬな。では、私の孫に手配させましょう」
 ベルントはすっと立ち上がると、スマートフォンで電話でもするのかと思いきや、左手を胸に当てて目を閉じた。しばらくそうして口をもごもご動かし、やがて目を開ける。
「今、孫のヴィルフリートに思念を送りました」
「思念?」
 梨里はぱちくりと瞬きをした。驚いて涙が止まる。
「王宮の庭で剣術の稽古を監督しているはずですので、間もなく参ります」
 ベルントが言った通り、ほどなくして広間の扉が開き、背の高い男性が一人入ってきた。騎士が着るような――両肩に金の肩章があり、右肩から胸の前に金の飾り紐が垂らされた――夜空のように深い藍色の衣装を身につけ、白いブーツを履いている。腰には金の鞘に入った長い剣が下げられていた
「仕事中だというのに呼びつけるとは、我が祖父は相変わらず人使いが荒い」
 男性は不満そうに息を吐いた。ベルントは座り込んだままの梨里に顔を向ける。
「ご紹介します。我が孫、第二騎士団団長のヴィルフリート・クヴェードリンブルクです」
「初めまして。ヴィルフリート・クヴェードリンブルクです。祖父から思念で事情を伺いました。聖女様の巻き添えで召喚されたとか」
 ヴィルフリートは胸に手を当てて恭しくお辞儀をした。顔を上げたヴィルフリートがあまりに端正な顔をしていて、梨里は息をのむ。ヴィルフリートは二十五歳くらい。輝くような金髪に意志の強そうな青い目をした美しい顔立ちの男性だ。
「気の毒に。こんなに幼いのに異世界に召喚されるとは」
 哀れみのこもった声で言われ、梨里は眉を寄せる。
「幼い!? 黒髪で顔立ちが地味なのでよく実年齢より年下に見られますけど、私、こう見えて今十九歳ですっ。ベーカリーで働いてる社会人ですっ」
「社会人?」
 ヴィルフリートが首を傾げた。この世界には〝社会人〟という言葉はないのかと思いながら、梨里は答える。
「世の中に出て働いて、お金をもらってる人って意味です」
「それは失礼した。で、そなた名前は?」
「高居梨里ですっ」
 梨里はぷいっと横を向いた。
「タカイ……それがファーストネームか?」
 語順が日本とは違うらしいと認識して、梨里は言い直す。
「ファーストネームはリリです。タカイはファミリーネーム」
「ファミリー……。そなたの家族も心配しているだろうな」
 ヴィルフリートに言われ、梨里は表情を曇らせる。
「両親は一年前に事故で亡くなりました。ほかに親戚もいないので、心配してくれる人はいません」
「そうか……。だからといって、意に反して異世界に連れてこられたのは、本当に気の毒に思う。だが、神のお告げとあらば、私たちは従うしかないのだ」
 梨里は肩を落とした。
「とにかく、そなたは聖女ではなく、王子の花嫁にもならないようだから、ここで何とか暮らしていけるよう私が力を貸そう」
 ヴィルフリートは右手をすっと差し出した。握手でもするのかと梨里がその手を握ると、彼は梨里の手を引いて立ち上がらせた。
 ベルントが梨里に言う。
「ヴィルフリートが団長を務める第二騎士団は、街の治安維持が主な任務です。街のことなら、ヴィルフリートに訊くと間違いありませぬ」
 梨里はヴィルフリートの手を離し、諦めた気分で息を吐く。
(元いた日本に帰れないのなら……この団長さんの言うように、どうにかここで一人で生きていかなくちゃいけない……)
「お願いします」
 梨里はヴィルフリートを見上げた。身長一五二センチの梨里にとって、彼は見上げるように背が高い。さっきの女性と比べて凹凸もない自分は、彼にとって――王子も含め、この世界の人々にとって――〝幼い〟〝貧相な小娘〟でしかないのだろう。
 ヴィルフリートに連れられて、梨里は広間を出て長い廊下を歩き、大きな門から外に出た。石造りの重厚な門の外は石が敷き詰められた通りになっている。振り返ると、おとぎ話に出てきそうな白亜の城がそびえ立っていた。
(すごい……大きなお城)
 あの失礼な第一王子の顔が蘇り、梨里は首を左右に振った。
 ヴィルフリートがさっと右手を挙げ、二人の前に馬車が横付けられる。二頭の茶色い馬が引く、四輪の箱馬車だ。
「えっ、馬車!?」
 この世界の雰囲気から自動車があるとは思えなかったが……移動手段が馬車とは。驚く梨里にヴィルフリートが問いかける。
「馬車が珍しいわけでもないだろう?」
「いや、珍しいです。っていうか、乗ったことありません」
「それは……珍しいな」
「私が元いた世界では、馬車は観光地とかでしか乗れませんでした」
「なるほど」
 そのとき、馬車の後ろの従者用立ち台から一人の若い男性が降りて、扉を開けた。
「どうぞ」
 ヴィルフリートは梨里の手を取って、馬車に乗るよう促した。
「あ、ありがとうございます」
 梨里は先に馬車に乗り込んだ。続いてヴィルフリートが乗り込み、隣に座る。
「この世界はリリーがいた世界とはずいぶん違うようだな」
 ヴィルフリートの言葉を聞いて、梨里は首を傾げて彼を見た。
「リリー?」
「そなたの名前だ。リリーではなかったか?」
 いきなり呼び捨てで、しかも名前を間違われて、梨里は苦笑する。
「最後の音は伸ばしません。梨里です」
「リィリィ……リーリィ……」
 ヴィルフリートはつぶやいてわずかに顔をしかめた。どうやら梨里の名前は発音しにくいらしい。
 梨里は大きく息を吸って言葉を紡ぐ。
「リリーでいいです。私、この新しい世界でどうにかやっていくしかないみたいだし、この世界に合わせます」
 ヴィルフリートはしばらく梨里をじっと見つめていたが、やがて優しげに目元を緩めた。
「そなたは逞しいな。では、リリーと呼ぶことにしよう。私のことはヴィルと呼んで構わない」
「ヴィルですか?」
「ヴィルフリートの愛称だ」
「それは助かります。名字は……何でしたっけ? クウェート……クヴェードリンク?」
「クヴェードリンブルクだ。そなたには確かに馴染みの薄そうなファミリーネームではあるな」
 ヴィルは笑ったが、梨里は顔をしかめる。
「この世界の人たちは、みんなそんな長いややこしい名前や名字をしてるんですか?」
「いや。名字があるのは爵位を持つ者だけだ。平民には名字はない」
「あー……じゃあ、私みたいな貧相な小娘に名字があったら、逆におかしいんですね」
「貧相な小娘?」
 ヴィルは眉を寄せて梨里を見た。考えるような視線を向けられ、梨里は頬が熱くなるのを感じた。
「さっき、第一王子に……アルフレッド王子に言われたんですっ」
 ヴィルは苦笑を浮かべた。
「王子は……何というか……そうだな、グラマラスな女性がお好きのようだから」
「それで私には見向きもしなかったんですね。でも、別にあんな失礼な人に好かれたくはありませんけどっ。っていうか側室とかありえないし!」
 梨里は頬を膨らませて窓の外を見た。窓にはガラスがはめ込まれていて、この世界にガラスはあるのだとわかる。
「確かに失礼だな。リリーの髪はとてもまっすぐで艶やかだ。こんなに美しい黒髪は見たことがない」
 ヴィルは梨里のロングヘアに触れて、毛先までスッと撫で下ろした。梨里はドキッとして彼を見る。
「ベ、ベーカリーで働いてたときは、髪を染めるのは禁止だったんです。どうせキャップを被るので、厨房の外からお客様に見えることはなかったんですけど……店長が厳しい人で……」
「梨里は染めたかったのか? こんなに美しい髪なのに、染める必要などないと思うが」
 ヴィルが梨里の毛先に軽く口づけたので、梨里は目を見開いた。
「ヴィ、ヴィル!?」
「ん? 美しいものにはつい口づけたくなるだろう?」
 ヴィルに不思議そうにされて、梨里はさらに目を大きく開く。
「いや、なりません!」
 そう答えてから、ふと考える。
(かわいい小動物を見たらチューしたくなることは……あるけど。そういう感覚なのかな?)
 自分は小動物扱いなのかと梨里は肩を落とした。
「あそこに見える大きな川がバイロリー川だ。王都ノルトラインのみならず、バンベルク王国全体の水源となっている。ノルトラインはこのバイロリー川の中流に沿って築かれている」
 ヴィルが左側の窓の外を指差しながら言った。バイロリー川は川幅が広く、流れはゆったりとしている。
「この辺りがノルトラインで一番賑やかな地域だ」
 ヴィルが右側の町並みを手で示しながら言った。そちらには石造りの二階建ての家がいくつも並んでいる。
「バンベルクには騎士団が三つある。第一騎士団は主に王族や王城の警護・警備が任務だ。第二騎士団は祖父が言っていた通り、街の治安維持が主な任務だ。ほかに第三騎士団というのがあって、国境地帯の警備に従事している。人数も一番多い」
 そのほか、ヴィルは王国の仕組みを簡単に説明してくれた。彼の話を総合すると、バンベルク王国は中世の王政国家のようなものらしい。
「南市場の近くに空き家があるから、そこで暮らすといい」
「空き家……でも、持ち主さんの許可がいりますよね?」
「持ち主は……いない。私の妹夫婦の家だったんだ」
 ヴィルの声が寂しそうになり、梨里は首を傾げた。
「今は引っ越されたんですか?」
「いや……。妹の夫は第三騎士団の騎士で、半年前、スパイを捕えようとして命を落とした。おそらく隣国ウンナのスパイだったと思うが、証拠はない。遺体は騎士団の馬車で運ばれることになっていたから、家で待っていればよかったものを……妹は夫の遺体を引き取りに国境地帯に向かった。途中、ヘルフォルトの森の近くで盗賊に襲われて殺されたんだ」
 ヴィルが沈んだ声で言った。梨里は両親のことを思い出して、目に涙が盛り上がった。かける言葉が見つからず、ヴィルが膝の上に置いていた左手に、そっと自分の右手を重ねる。
 ヴィルはハッとしたように顔を上げ、梨里の目にたまった涙を見て笑みを作った。
「すまない。リリーに家族のことを思い出させてしまったか? 残された私たちは、彼らのことを忘れず、一生懸命生きるしかないのにな」
 ヴィルは「ありがとう」と言って、右手で梨里の手をポンポンと撫でた。
「さて、そろそろ南市場が見えてきた」
 ヴィルの言葉通り、周囲には人が増えて、物を売る賑やかな声が聞こえてくる。馬車は人混みの中をゆっくり抜けて、白い石造りの家々が並ぶ通りに入り、その外れにある二階建ての家の前で停まった。
「ここだ」
 外から扉が開けられ、ヴィルは先に降りて梨里に手を差し出した。
「あ、ありがとうございます」
 男性に――それも美しいイケメンに――エスコートされるという慣れない事態に戸惑いながらも、梨里は彼の手を取って馬車から降りた。
「わぁ……かわいいお家」
 その家は出窓に小花柄のカーテンが飾られた白壁のかわいらしい建物だった。ただ、出窓の植木鉢には何かの植物が茶色く干からびていて、この家には誰も手入れをする人がいないのだとわかる。
「本当に……私がここに住んでいいんですか?」
 梨里は遠慮がちにヴィルを見た。彼は寂しげに微笑んで頷く。
「ああ。住む者がいなければ、家は朽ちていくだけだ」
「ありがとうございます。大切に住まわせていただきます」
 梨里はペコリとお辞儀をした。従者が細長い金色の鍵を恭しく持ってヴィルに差し出す。彼はそれを受け取って、梨里に渡した。
「これが家の鍵だ。私は少し買い物をしてくるから、先に入って中を見ているといい。人を雇って週に一度は部屋を掃除してもらっていたが……どうなっているか」
「ありがとうございます」
 梨里はヴィルを見送り、木の扉の鍵穴にそっと鍵を差し込んだ。回すとカチリと音がして鍵が開く。扉をそっと押して開けると、そこは小さな店のような造りになっていた。ショーケースのような棚があり、何か小物のような物が置かれている。そっと取り上げて見ると、それはリボンや宝石をあしらった髪飾りだった。
(ヴィルの妹さんは……ヘアアクセサリー屋さんだったのかな……)
 部屋の中を見回すと、隅に木製の看板が立てかけられていた。そこには〝髪飾り~エミリアの店〟と書かれている。
 エミリアはヴィルの妹の名前だろう。
 梨里はエミリアとその夫のために黙祷を捧げた。それから一階を見て回る。一階の奥はダイニングキッチンになっていて、その隣はバスルームのように見えた。一メートル四方の石造りの床があって、頭上にシャワーのようなものがついている。
 梨里は試しにパイプの途中にあるレバーを持ち上げた。ゴボゴボと変な音がして、赤っぽい水が噴き出した。少しして透き通った水に変わる。
(よかった、使える)
 その隣の小部屋はトイレになっていた。地球の中世ヨーロッパでは、まだこのようなものはなかったが、ここの水道事情は当時の地球よりも進んでいるらしい。
 店舗スペースの右手にある木の階段を上がると、二階には部屋が二つあった。 一つは夫婦の寝室だったのだろう。大きなベッドがあって、もう一つは壁際に本棚があるだけだった。もしかしたら……二人は将来、子ども部屋にと考えていたのかもしれない。
 梨里は悲しく寂しい気持ちになりながら、一階に下りた。ちょうど玄関扉が開いて、布袋を抱えたヴィルが入ってくる。
「当面の食料を調達してきた」
 ヴィルはショーケースの横を通り、ダイニングキッチンのテーブルに袋を置いた。
「リリーの口に合えばいいのだが」
 そう言ってテーブルにチーズの塊、レタスとトマト、ナスなどの野菜のほかに、洋ナシ、ブドウ、ブルーベリー、リンゴ、オレンジといったたくさんの果物を並べた。そのどれも、梨里に馴染みのある形をしている。
「それから、この包みはハムとパンだ」
 ヴィルが茶色い包みを二つ、テーブルに置いた。
「パン!」
 目を輝かせる梨里の前で、ヴィルは包みを開いた。一つの包みには分厚くスライスされたハムが、もう一つの包みにはチャパティのような平たいものが何枚も入っている。
「これってパンなんですか? チャパティとかピタパンっぽく見えますけど」
「ん? リリーの元いた世界のものとは違うのか?」
「違いますねぇ。こういうのもありましたけど、名前が違いました」
「バンベルクでは……というより大陸ではパンと言えばこれだな。もう少し分厚くしたのもあるが、私は硬くてあまり好きではない」
 梨里は「ふーん」と声を出した。どうやらパンに関してはそれほど進んでいないらしい。そう思ったとき、梨里のお腹が小さく音を立てた。
「あっ」
 梨里は恥ずかしくなって顔を赤らめた。ヴィルは小さく微笑み、キッチンの棚に向かった。
「そろそろ昼食の時間だ。私のことは気にせず食べるといい」
 ヴィルは棚から白い皿とフォークとナイフを取り出し、キッチンの水で洗った。それを拭いてテーブルに置く。
「ヴィルは?」
「私は城に戻る」
「お昼は食べないんですか?」
「そうだな。あまり時間がない」
 それは私を送ったせいだろうか、と思いながら、梨里はレタスを手早く洗い、チーズを薄く切った。それらをハムと一緒にパンに乗せてくるりと巻いた。
「よかったら、これを持っていってください」
「これは……斬新な食べ方だな」
 ヴィルの反応を見て、梨里は目を丸くする。
「え? これってこうやって食べるんじゃないんですか?」
「パンはちぎって食べるものだぞ」
「いや、まあ、そうですけど」
 どうやらサンドして食べるという食文化はないらしい。梨里はロールサンドを紙で包んで差し出した。
「とにかく、昼食抜きじゃ力が出ませんから。どうぞ食べてください」
「わかった。ありがとう」
 ヴィルはロールサンドを受け取ってから、梨里の目を覗き込んだ。
「突然、知らない世界で暮らしていかねばならなくなり、慣れないことがたくさんあるだろう。困ったことがあったら、いつでも私を呼んでくれ」
「呼ぶ?」
「思念を送れば届くはずだ」
「思念……?」
 それはベルントも言っていたが、そもそも普通の地球人の梨里にはどうやって思念を送ればいいのかわからない。
「心で強く念じれば届くんだが……そうか、リリーには魔導師の血が流れていないんだったな。だったら、少し遠いが、辻馬車を雇って王城に来るといい。私は王城内の騎士舎にいる。門番に伝えて、梨里がいつでも中に入れるように手配しておこう」
「それは心強いです」
「この家にある物は何でも自由に使ってくれて構わない。必要なものがあれば、これで買うといい」
 ヴィルはテーブルの上に金貨を数枚置いた。
「何から何まで……本当にありがとうございます」
「では、また」
 ヴィルは梨里の頭を軽くポンポンと撫でて身を翻した。梨里は彼の背中を頼もしい思いで見送る。
 彼のおかげで住むところが見つかった。あの無責任王子は梨里が路頭に迷って野垂れ死のうが、気にもかけなかったかもしれない。
 梨里は悔しい思いで歯ぎしりをしたが、ふぅと息を吐き出した。
「お腹が空いてるとマイナス思考になるよね。せっかくヴィルが買ってきてくれたんだし、ランチにしよう」
 梨里はハムとレタスを皿に盛った。ヴィルが言っていた通り、パンをちぎって口に入れる。チャパティは普通、全粒粉で作られるので、全粒粉の味がするかと思ったが、バンベルクのパンは小麦粉とほんのり塩の味がする。
「材料は違うけど、作り方はチャパティと一緒なのかも」
 結局、梨里は薄いパンにハムとレタスを巻いて食べた。それからどの果物を食べようかと思案して、その量の多さに「うーん」とうなる。
(どれも完熟してるし……このままだと腐っちゃうよね……)
 そう思って、ふといい考えが頭に浮かんだ。
(そうだ!)
 梨里はキッチンの棚を探して、ガラス瓶がいくつもあるのを見つけた。それを丁寧に洗い、鍋に湯を沸かして煮沸消毒する。瓶が冷えて乾いたら、洋ナシとリンゴとオレンジはカットして皮ごと、ブドウとブルーベリーはそのまま入れて、水を加えて蓋をした。
(これで天然酵母を起こせば、ふんわりした風味豊かなパンが焼ける!)
 梨里は楽しみになりつつ、瓶を棚の涼しい場所に並べた。 
 それから一週間。一日一回、瓶を軽く上下させてガス抜きをする作業を続けた。果物の皮についていた酵母が、果物の糖分を餌にしてどんどん育っていく。ブドウ酵母などは特に元気がよく、糖分を分解したときにできる炭酸ガスでシュワシュワと泡が立っていた。これと小麦粉を混ぜて元種を作れば、二日後にはパンが焼ける!
 梨里は引き出しを開けて、ヴィルにもらった金貨を取り出した。ヴィルはこの一週間、毎日、夕方に食料を持って梨里の様子を見に来てくれたので、最初にもらった金貨はまだ一枚も使っていない。
 金貨一枚にどれくらいの価値があるのかわからないが、梨里はとりあえず金貨を二枚持って南市場に行ってみることにした。服はエミリアのドレスを梨里のサイズに合うように直して着ているが、やっぱりこの世界の人々とは違う黒髪と彫りの深くない顔立ちのせいか、目立ってしまうようだ。歩いているうちに、人々からじろじろ見られていることに気づいた。
(そりゃ、珍しいのはわかるけど……いくらなんでもちょっと見過ぎじゃない……?)
 梨里は足早に市場の中を歩き、小麦を売っている店を見つけた。上に幌のある木の台の上に布袋がいくつか置かれていて、中には粒のままの小麦、ライ麦、全粒粉、精製された小麦粉などが並んでいる。
(わあ、いろんな粉がある!)
 梨里は嬉しくなりながら、店の奥にいる太った中年男に声をかける。
「すみません、小麦粉をください」
「あいよ」
「これでどのくらい買えますか?」
 梨里が金貨を一枚差し出すと、その小麦商人は無遠慮にも梨里を頭の先から足の先までじろじろと見た。
「あんたが……エミリアたちの家に住みついたっていう異世界の女か」
 小麦商人は金貨を受け取ってガリッと噛んだ。
「えっ」
 梨里が驚いて見ていると、小麦商人は金貨をガリガリと噛みしめてから目の前に持ち上げる。
「ふーん、魔術で作った偽物じゃあないようだな。まあ、金貨一枚ならこのくらいだ」
 小麦商人は小さな袋に入った小麦粉を梨里に渡した。パンが二斤焼ける量だが……金貨二枚でこれだけしか買えないなら、物価はかなり高そうだ。
「まだ金貨は持ってんのか?」
 小麦商人の貪欲そうな目を見て、梨里は持っている、とは答えないことにした。
「え、ええと、今は持ってないです。あの、私、まだこの世界には慣れてなくて、ヴィル……ええと、ヴィルフリートに助けてもらってます」
 梨里の言葉を聞いて、小麦商人は眉を寄せる。
「ヴィルフリートって……ノイリンゲン侯爵のヴィルフリート・クヴェードリンブルク様のことか?」
「侯爵? えっ」
 ヴィルは侯爵だったのか! 名字があるのは爵位を持つ者だけだとヴィルから聞いていたが……まさか彼が侯爵だったなんて。
「何だ、その反応は。本当は侯爵様のことなど知らないんだろ? お前は勝手にあの家に住みついたんだな? この金貨もエミリアたちのものじゃないのか!?」
 小麦商人が商品を置いた台を回って梨里に近づいてきたので、梨里は驚いて後ずさった。
「ち、違いますっ」
「この泥棒がっ」
 小麦商人が両手を伸ばし、梨里につかみかかろうとした。梨里はとっさに身を翻して走り出す。人混みをかき分けて必死で走りながら振り向いたが、小麦商人が追いかけてくる気配はなかった。けれど、周囲の人たちは不審者を見るような目つきで梨里を見ている。
 梨里は泣きたい気持ちになりながら、家に走って戻った。ドアを閉めて錠を下ろし、肩でハアハアと息をする。
(怖かった……けど、何とか小麦粉だけは買えた)
 梨里は煮沸消毒した瓶にブドウ酵母を少しと小麦粉を入れて混ぜ、ふたをして棚の陰に置いた。こうすればパンを作る元になる元種ができるのだ。明日、この元種にさらに小麦粉を混ぜて発酵させれば、明後日パンが焼ける。それは楽しみなはずなのに、さっきの市場での出来事を思うと、怖くて心が浮き立たない。
 梨里は戸締まりを確認すると、手早くシャワーを浴びて早々にベッドに潜り込んだ。

 その翌日、梨里は朝日がまぶしくて目を覚ました。キッチンに降りて元種の様子を見ると、プツプツと小さな泡が立っていて、酵母が元気に活動しているのがわかる。梨里はそれに小麦粉と水を加えてよく混ぜた。こうして二回継ぐと、元気な酵母でふっくら美味しいパンが焼けるのだ。ほかの瓶を見ると、ほかの果物の酵母たちも元気に育っているようだ。
(いろんな果物で酵母を育てよう。それでパンを焼いて……ここで天然酵母ベーカリーを開くのはどうかな)
 朝食を食べながらあれこれ考える。
 エミリアが使っていたショーケースを改良すれば、ベーカリーを開けそうだ。夢だった天然酵母パンの店を出せることを考えると胸が躍るが……そのためには小麦粉を仕入れられる店を見つけなければならない。昨日の南市場の商人からはもう買いたくない。だが、ほかの人たちの反応を見ても、自分はこの世界の人たちに歓迎されていないのかも、という思いが強くなる。
 梨里が下唇を噛んだとき、扉のノッカーが叩かれた。
(もしかして……昨日の小麦商人……?)
 梨里は不安になって息を潜めた。すると再びノッカーが叩かれ、ヴィルの声が聞こえてくる。
「リリー? まだ寝てるのか? リリー?」
 梨里はドアに駆け寄り、錠を外して扉を開けた。
「ヴィル!」
「リリー、おはよう」
 ヴィルの笑顔にじーんとして、梨里は思わず彼の胸に飛び込んだ。
「ヴィル!」
「どうした、リリー」
 ヴィルは驚きながらも、梨里の背中にそっと両手を回した。
「昨日の夕方、リリーを訪ねたんだが、いなかった。出かけてたのか?」
「はい……買い物に。昨日来てくださってたんですか……」
 そこまで言ってから、梨里はヴィルが侯爵だということを思い出した。
「あっ、すみません、侯爵様に無礼なことを!」
 梨里がさっと後ずさったので、ヴィルは驚いたように手を離した。
「私が侯爵だったら何か問題か?」
 ヴィルに真顔で問われて、梨里は言いよどむ。
「え、だって、ヴィル……侯爵様はものすごく身分の高い方じゃないですか。それなのに、私みたいなのがこんなに馴れ馴れしく……」
「リリー」
 ヴィルは上体をかがめて梨里の目を覗き込んだ。
「私はリリーが異世界から来た少女だからと言って、接する態度を変えたりはしない」
 ヴィルの言葉に梨里はハッとなった。昨日の小麦商人などは、まさに梨里が異世界人だからと言って、泥棒のように扱った。
 ヴィルは梨里の両肩にそっと手を置いた。
「だから、リリーも私が侯爵であろうとなかろうと、今まで通り接してほしい」
「ご、ごめんなさい」
 梨里の両目に涙が盛り上がった。ヴィルは梨里を胸に抱き寄せて、背中をよしよしと撫でる。
「泣かないでくれ。きつい言い方をしてすまなかった」
 梨里は涙を拭うと顔を上げた。
「いいえ、すみません、大丈夫です。それより、今日は朝から来てくださるなんて、どうしたんですか?」
「うん、今日は久しぶりに休暇を取ったから、リリーをピクニックに誘いに来たんだ」
 梨里はそのとき初めて、ヴィルがいつもの騎士の服装ではなく、シンプルなシャツとトラウザーズという格好なのに気づいた。
「ピクニック、ですか?」
「気晴らしになるかと思ってね。王城のコックに頼んで、ランチボックスを用意してもらったんだが」
 ヴィルが振り返り、梨里は扉の前に馬が一頭いるのに気づいた。馬の背には丸めたブランケットやバスケットが乗せられている。
「馬で行くんですか?」
「ああ。リリーは馬車が初めてだと言っていただろう? だから、馬に乗ったこともないと思ったんだが」
「ありません」
「乗馬も楽しいぞ。今から行けるかな?」
 ヴィルの笑顔を見て、梨里は心が軽くなるのを感じた。
「はい!」
 梨里は扉に鍵をかけると外に出た。
「先にリリーを乗せよう」
 ヴィルは梨里の両腰を掴むと、軽々と馬上に持ち上げた。梨里は長いスカートを広げて馬に跨がる。続いてヴィルがひらりと梨里の後ろに跨がった。後ろから彼にピタリと体を寄せられ、彼が手綱を握る。あまりに密着されて、梨里は顔が熱くなるのを感じた。
「出発するよ」
 ヴィルが馬の脇腹を蹴り、馬はゆっくりと歩き出した。ヴィルは手綱を操り、市場とは逆の方向、街外れへと馬を進める。周囲には家はほとんどなく、すぐに野原に出た。野原には小川が流れていて、日の光を浴びて川面で光がキラキラと踊っている。川辺にはピンクや白のコスモスが咲き乱れていて、その美しさに梨里は感嘆の声を上げた。
「わぁ……きれい!」
「もう少し進むと森がある」
 ヴィルの言葉を聞いて梨里は表情を曇らせた。
「森……ですか?」
「この辺りの森は安全だ。第二騎士団が警備をしている地域だからね」
 だが、その影響力が及ばない地域もあるのだ、とヴィルは悲しげにつぶやいた。きっとエミリアのことを思い出しているのだろう。
「さあ、着いた」
 ヴィルは森の入口で馬を止めた。先に降りて両手を伸ばし、梨里の腰を掴んだ。梨里は彼の肩に掴まって地面に降りる。
「ありがとうございます」
「少し歩いてみるか?」
「はい!」
 ヴィルは馬の手綱を木の枝に結びつけた。ヴィルが促すように梨里の腰に手を回し、梨里はドギマギしながら足を前に進める。
「きょ、今日はお仕事お休みなんですか?」
 何か話題をと思って、梨里は口を開いた。
「ああ。騎士舎の管理もあって、基本的に休みは取らないんだが、たまには休むように前々から副団長に言われていてね」
「基本的に休みは取らないって……! 働き過ぎじゃないですか!」
 梨里は目を丸くしてヴィルを見た。ヴィルはかすかに笑みを浮かべる。
「仕事をしていると……悲しいことや嫌なことを忘れられるだろう?」
 ヴィルの瞳が悲しげに揺らぎ、エミリアのことを思い出しているのだとわかった。
「だからって、働き過ぎはよくないですよ! 騎士団ってブラック企業じゃないですか!」
「ブラック企業?」
 ヴィルが首を傾げ、梨里は「あ」と口に手を当てる。
「元いた世界では……社員を劣悪な条件でこき使う会社のことをそう呼んでいたんです」
「騎士団はそんなことはない。陛下はつねに国民のことを考えてくださっている。だから、私も街を守ることで、国民を守るという陛下の思いに応えたいと思っている」
「陛下は……どんな方なんですか?」
 あの第一王子の様子からすると、国王陛下もイマイチな感じに思うのだが……。
 だが、ヴィルは敬意の込もった口調で言う。
「すばらしい外交手腕をお持ちで、この三十年、戦争もなく、平和に国家を治めていらっしゃる」
「でも……隣国はスパイを送ってくるんでしょう?」
 梨里はヴィルから聞いたエミリアの夫の話を思い出しながら言った。
「世の中には平和を嫌う者もいる。戦争になれば武器が売れるし、金貸しも儲かる」
「でも、国民は苦しむことになりますよね」
「ああ。だから、そうならないよう力を尽くされている国王陛下を、私は全力でお支えしたいのだ」
「ヴィルって本当にいい人なんですね。異世界からきた私の面倒も見てくださって」
 そのとき小川のほとりに着き、梨里はしゃがんで水に手を入れた。
「わぁ、冷たい」
 隣にヴィルが片膝をついて座った。
「リリーに初めて会ったときから、目が離せなくなったんだよ」
 どういう意味だろうかと梨里は首を傾げた。初めて会ったときは……元の世界に帰れないと知って絶望して泣きながらも……ヴィルに『幼い』と言われて腹を立てていた気がする。
「このまま放っておけないな、と思ったんだ」
「おじい様に頼まれたんですものね?」
 梨里は伺うようにヴィルを見た。
「頼まれても、断ることだってできたよ」
「でも、相手が私じゃなくても断ったりしなかったんでしょう?」
「そうだな。だが、リリーでなければ、エミリアたちの家には住まわせなかった」
 ヴィルは言って、梨里の髪をくしゃくしゃと撫でた。きっと彼は梨里を妹のように思って面倒を見てくれているのだろう。
「さて、そろそろランチにしようか。王城のコックだから、腕は超一流だ」
「わー、楽しみです!」
 梨里はヴィルと一緒にブランケットを広げた。ヴィルがバスケットを開けると、ロールサンドがいくつも入っていた。薄いパンにレタスやローストビーフ、ハムや卵などが巻かれている。
「リリーに作ってもらったものを説明したんだ。パンは肉や野菜と別々に食べるものだったから、コックは驚いていた。だが、これからこういう食べ方が流行るかもしれないな」
「むしろ今まで一緒に食べようとしなかった方が驚きなんですけど」
「ははは」
 ヴィルが楽しそうに声を上げて笑った。彼の笑い声を初めて聞いたような気がして、梨里は胸がほわんと温かくなる。
「それじゃあ、食べようか」
 ヴィルに促されて、梨里は両手を合わせた。
「はい、いただきます!」
「それはリリーの世界での礼儀作法か?」
 ヴィルに訊かれて梨里は頷く。
「はい」
「なるほど。では、いただきます」
 ヴィルは同じように手を合わせてから、梨里に向かって軽くウィンクをした。

 それから森を散策して野ブドウを見つけて食べたり、リスの巣を探したりした。そうして楽しい時間を過ごし、日が暮れ始める前にまた馬に乗せてもらって帰路についた。
 馬に揺られながら、梨里は考えていたことを話し始める。
「私、元の世界ではパン職人として働いていたんです」
「そう言っていたな」
 耳元でヴィルの低く柔らかな声がしてくすぐったい。梨里は軽く首をすくめて話を続ける。
「それで、こっちの世界で夢だった自分のベーカリーを開こうと思って。こっちのパンとは違う、ふんわりした風味豊かなパンを焼きたいんです」
「エミリアのようなことを言う」
 ヴィルがぼそりとつぶやいた。
「え?」
「エミリアも自分がデザインした、人とは違う物を売りたいと言って、あの髪飾りの店を始めたんだ」
「そうだったんですか……。その店を……私が使わせてもらってもいいでしょうか?」
 梨里が肩越しに振り返ると、すぐそばにヴィルの顔があってドキッとする。
「もちろん。きっとエミリアも喜ぶ。パンが焼けたら、私がお客第一号になろう」
 頬に彼の息がかかり、梨里はドギマギして前を向いた。
「あ、ありがとうございます。そ、それで、衛生面を考えてガラスを使ったショーケースにしたいんですけど……」
「それなら家具職人に言って作らせよう。馴染みの職人を紹介する」
「ありがとうございます!」
「ほかには……パンなら塩と小麦粉が必要だな」
 小麦粉、と聞いて、梨里の表情が曇った。昨日の小麦商人の様子を思い出し、小麦を売ってもらえるだろうかと不安になる。
「どうした?」
 ヴィルが肩越しに顔を覗き込み、その距離の近さに梨里は顔を赤くしながら答える。
「う、あ、小麦粉って市場以外でも買えますか……?」
「市場以外でとなると、農家から直接仕入れなければならないが……それなら大量に買いつける必要が出てくる。小麦を挽く必要もあるから、粉挽き業者を探さなければならない。そのつては残念ながらないんだが……」
 ヴィルにすまなさそうに言われて、梨里は肩を落とした。ということは、あの小麦商人から買うしかないのか。
 やがてエミリアたちの家が見えてきたが、梨里は違和感を覚えた。それはヴィルも同じようで、馬の脇腹を蹴って歩を速める。
「どういうことだ!?」
 家の前に到着し、ヴィルは馬からひらりと降りた。馬上の梨里にも家が荒らされていることがわかった。木の扉が蹴破られたように内側に倒れているのだ。
「嘘っ」
 ヴィルは梨里を馬から下ろすと、馬の陰に追いやった。
「リリーはここで待っていろ」
 ヴィルは腰を低く構えて右手を左腰にやったが、そこに剣がないことに気づいた。
「しまった。休暇だから帯剣していなかった」
 ヴィルはベルントが彼を呼ぶときにしていたように左手を胸に当てて目を閉じた。そうしてすぐに目を開ける。
「副団長に思念を送った。すぐに駆けつけるはずだ。それまでリリーは離れていろ」
 言うなりヴィルは家の中に飛び込んだ。
「ヴィル!」
 ヴィルはざっと一階を見て回り、足音を忍ばせて階段を上る。
(家を荒らした犯人が二階にいたら……ヴィルは丸腰なのに……っ)
 梨里は心配になって胸の前で祈るように両手を組んだ。少ししてヴィルが階段を下りてくるのが見えて、ホッとする。彼は壊れた戸口から外に出て梨里の前に立った。
「家の中には誰もいない。ショックだと思うが、被害を確認してくれないか?」
 ヴィルが左手を伸ばして梨里の右手を握った。梨里は不安からヴィルの手をギュッと握る。彼に続いて家に入り、ダイニングキッチンの床が見えて泣きそうになった。被害があったのは、入口の扉と大切に育てた酵母の瓶だった。ブリーベリーやリンゴ、洋ナシなどで起こしていた酵母の瓶が、床に落とされ割られていたのだ。木の床に果物が散乱し、酵母液が染み込んでいる。
「ひどい……」
 梨里はその場にへなへなとくずおれた。ヴィルが膝をついて梨里の腰に手を回す。
「リリー」
「あれで酵母を起こしてパンを焼こうと思ってたのに! 大切に育てた酵母だったのに! もうすぐ……パンが焼けたのに……」
 自分はこの世界に歓迎されていないどころか、こんなにも疎まれていたのか! そのショックに、目から涙が溢れ出す。
「リリー」
 ヴィルが梨里をギュッと抱きしめた。
「犯人を必ず見つける。この街の治安維持を預かる第二騎士団団長の名誉にかけて」
 ヴィルが今までになく低い声で言った。そのとき、外から男性の声が聞こえてくる。
「団長!」
 ヴィルは梨里を抱えるようにして立たせた。梨里がそちらを見ると、四人の騎士が立っている。一人の衣装には肩章と飾り紐がついていたが、残りの三人にはついていなかった。肩章と飾り紐のついた騎士にヴィルが言う。
「副団長、現場を調べてくれ。この家にあっては不自然な物を残らず見つけ出してほしい」
「承知しました」
「私はリリーを送ってから戻ってくる」
「お気をつけて」
 騎士たちが敬礼し、ヴィルは小さく頷いた。梨里はヴィルに促されるようにして外に出る。
「ここは心配だから、クヴェードリンブルク家のタウンハウスに連れていく」
「タウンハウス?」
「王都に滞在するときに使う家のことだ」
 ヴィルは侯爵だから、領地には別の大邸宅があるのだろう。梨里はぼんやりしたままヴィルに馬に乗せられ、暮れかけた街の通りを進んだ。やがて王城の見える石造りの三階建ての邸宅の前に着いた。
「お帰りなさいませ、ヴィル様」
 扉が開いて、白いシャツに黒のベストと半ズボン、絹の靴下と革靴を履いた初老の男性が現れた。ヴィルは左手で梨里の腰を支えながら言う。
「リリー、執事のコンラートだ。コンラート、こちらはリリーだ。エミリアたちの家をリリーに貸していたんだが……留守にしている間に何者かに荒らされた。私は調査に戻らなければならないから、その間リリーを頼む」
「かしこまりました。リリー様、さ、こちらへ」
 コンラートが恭しく中を示したが、梨里は不安でヴィルを見た。
「ヴィル……」
 ヴィルは右手で梨里の右手をギュッと握る。
「部屋を荒らした犯人を捕まえる。そうして償いをさせる。コンラートは私が幼い頃から侯爵家に仕えてくれている。ここは安全だから、しばらくここにいるといい」
 ヴィルが梨里の手を離して馬に跨がった。梨里は彼に声をかける。
「あの、どうかお気をつけて!」
「ありがとう」
 ヴィルは馬を蹴った。梨里は彼の姿が通りを曲がって見えなくなるまで見送った。
「リリー様、大変だったでしょう。食事を用意させますから、どうぞおくつろぎください」
 コンラートに声をかけられ、梨里は彼の方を向いた。
「ありがとうございます。お世話をおかけします」
 邸宅の入口は広い玄関になっていて、梨里は美しい絨毯の敷かれた応接室に案内された。ゆったりしたソファがあり、「こちらでお待ちください」と勧められた。あまりに豪華な部屋に戸惑っているうちに、今度はグレーのワンピースに白いエプロンを着けた女性が現れた。梨里より少し年下くらいの女性だ。
「キッチンメイドのカーヤと申します。エミリア様が嫁がれて以来、こちらに侍女はおりませんので、私がリリー様のお世話をいたします」
 カーヤは先に立って、二階の奥にあるバスルームに梨里を案内した。
「エミリア様の衣装をご用意しています。お手伝いいたしましょうか?」
 カーヤの言葉を聞いて、梨里は瞬きをした。つまり、服を脱がせるとか体を洗うとか、そういう手伝いのことを言っているのだろう。
「い、いいえっ、大丈夫ですっ」
「かしこまりました。では、入浴が済まれましたらお呼びください」
 カーヤは一礼して部屋を出て行った。そこは床全体にタイルが敷き詰められ、真ん中に大きなバスタブが置かれただけの部屋だ。部屋の四隅にランプが置かれていて、全体をリラックスできそうな淡いオレンジ色に染めている。
(部屋一つがバスルームなんて、贅沢……!)
 バスタブにはたっぷりと湯が張られていた。台の上の籐製のカゴにはふかふかのタオルとすみれ色のドレスが入っている。肩の部分を持って持ち上げてみたら、貴族の女性が着るような本物のドレスである。
(これ……私が着たら絶対胸が余る……)
 美しいドレスを着てみたい気もするが、この貧相な体には似合わない自信がある。梨里は着てきた服をもう一度着ることにして、ドレスをカゴに戻した。ワンピースを脱いでバスタブに入る。久しぶりの湯船に、梨里は大きく息を吐き出した。けれど、やっぱり心は安まらない。せっかくヴィルがエミリアたちの家に住まわせてくれたのに、あんな目に遭った。ここにだっていつまでもいられるわけじゃない。
(いったいどうすればいいんだろう……)
 梨里はバスタブの縁に頭を預けて天井を見上げた。天井は豪華な彫刻が施された折り上げ天井になっている。
(でも、今はヴィルに頼るしかないんだ……)
 申し訳ない気持ちになりながら、梨里は入浴を終えた。着てきたワンピースを着て部屋を出る。カーヤは『入浴が済まれましたらお呼びください』と言ってくれたが、どうやって呼べばいいのかわからず、梨里は一人で一階に下りた。足音に気づいて、どこからともなくコンラートが姿を現す。
「リリー様、カーヤにドレスを着るお手伝いをさせましょう」
 梨里は慌てて首を横に振った。
「い、いえ。お気遣いなく。こっちの方が私は落ち着きますので……」
「さようでございますか。では、ダイニングに案内いたします」
 コンラートに先導され、今度は応接室の向かい側にある部屋に通された。部屋の中央にはアンティーク調の重厚なテーブルが置かれ、両側に椅子が並んでいる。
「どうぞ」
 コンラートに椅子を引かれ、梨里は恐縮しながら座った。すぐにカーヤと同じ服装の四十歳くらいの女性が盆を持って現れた。
「コックのマルガと申します。今日は久々にお客様がお見えということで、腕を振るいましたよ」
 梨里の前に野菜たっぷりのスープが置かれた。
「あとは牛肉と野菜のグリル、それにパンをお持ちしますね」
「ありがとうございます」
 梨里はセッティングされていたスプーンを取り上げ、スープを口に運んだ。煮込まれた多彩な野菜の旨味にホッとする。
(ここの人たちは……私を見ても市場の人たちみたいな反応を見せなかった……)
 そのことに嬉しくなりながらも、それは召使いだからなのだろうか、と考えた。梨里は扉の横に控えているコンラートに声をかける。
「あの……コンラートさんは……髪の色も目の色も違う私がこんなところに座っていても……何とも思わないんですか?」
 コンラートは体勢を崩さずに答える。
「私たちはお仕えするヴィル様が、人を身分や外見で判断なさらないことを誇りに思っております」
 コンラートのその言葉に、梨里は胸がじぃんと熱くなった。
 結局その日は夜になってもヴィルは戻ってこなかった。
 梨里はコンラートに二階の客用寝室に案内された。レースのネグリジェと天蓋付きの豪華なベッドでは落ち着かないかと思いきや、心と体の疲労から、気づけばぐっすり眠って朝を迎えていた。
(私ってば、ヴィルががんばって犯人を捜してくれてるというのに……ぐっすり寝ちゃった)
 梨里はワンピースに着替えて顔を洗い、そっと部屋の扉を開けた。するとまたもやコンラートが姿を現す。
「おはようございます、リリー様。ヴィル様がお戻りになられています」
「えっ、彼は大丈夫なんですか? 怪我とか……」
 梨里の不安そうな言葉を聞いて、コンラートがかすかに笑みを浮かべる。
「リリー様がご存知ないのも無理はないかと思いますが、ヴィル様はこの王国……いえ、大陸で一、二を争う剣聖でございます」
「それはものすごく強いってことですか?」
「はい。ヴィル様は私たちの誇りでございます」
 梨里はコンラートに続いて応接室に向かった。ヴィルはソファに座っていたが、梨里を見てさっと立ち上がる。
「おはよう、リリー」
 昨日と変わらぬヴィルの姿を見て、梨里は全身から力が抜けそうなくらいホッとした。
「お、おはようございます」
「よく眠れたようだ」
 ヴィルは梨里の両手を握った。
「すみません、騎士団の皆さんが働いてくれているのに、私だけぐっすり寝てしまって」
「梨里に心から休んでほしくてここに連れてきたのだ。もし梨里がゆっくり休めていなければ、私はコンラートたちを解雇しなければならない」
「えっ」
 梨里が目を見張ると、ヴィルは「冗談だ」といたずらっぽい笑みを浮かべた。そうして梨里の右手の甲に軽く唇で触れた。その柔らかな感触に、梨里の胸がドキンと音を立てる。
「あ、あの、何かわかりましたか?」
「犯人につながりそうな手がかりが得られた」
 ヴィルは梨里の手をそっと下ろした。
「手がかり?」
「ああ。ダイニングキッチンに小麦の粒が落ちていたんだ。殻のついた小麦を扱うのは小麦商人か粉挽きに限られている。これからこの辺りの小麦商人と粉挽きの昨日の行動を確認するつもりだ。行動が曖昧だったり、あの家の近くで目撃されていたりしたら、犯人の可能性が高まる」
 小麦商人と言われて、梨里は一昨日、市場で会った中年男を思い出した。
「小麦商人は何人もいるんですか?」
「ああ。王都に四つある市場に一人ずつ。市場内に競争相手がいないのが問題ではあるのだが」
(じゃあ、あの南市場にはあの商人しかいないんだ……)
 やはり彼から小麦粉を買うしかないのか、と思ったとき、ヴィルが梨里の目を覗き込んだ。
「どうかしたのか?」
 その距離の近さに戸惑いつつ、梨里は一昨日の出来事を話した。
「南市場で小麦粉を一袋買ったときに、ヴィルにいただいた金貨が偽物じゃないか疑われたんです……」
「無礼な輩だな」
 ヴィルは腹立たしげに言ってから、「ん?」と眉を寄せた。
「小麦一袋を金貨で支払ったのか?」
「はい。結構物価が高いんだなって驚きました」
「釣りは?」
「釣り?」
 梨里のきょとんとした顔を見て、ヴィルは憤然とした表情になる。
「金貨一枚あれば、小麦粉を二十袋買っても釣りがあるはずだ」
 ヴィルの言葉を聞いて、梨里は真っ青になった。
「ご、ごめんなさい。せっかくヴィルがくれたのに……価値を知らなくて無駄遣いしてしまいました……」
 ヴィルは両手で梨里の肩を掴んだ。
「違う。リリーは悪くない。悪いのは法外な価格をふっかけたその小麦商人だ。後で残りの十九袋を届けさせよう」
 いくらヴィルでもそんなことができるのだろうかと思ったとき、ヴィルが思い出したようにテーブルの上の箱を取り上げた。
「そうだ、これを届けに来たんだった」
 ヴィルに箱を差し出され、梨里は怪訝に思いながらふたを開けた。中から瓶に入った元種が出てきて、梨里は驚く。
「こ、これ、無事だったんですか!?」
「ああ。棚の陰に置かれていたから、犯人は気づかなかったようだ。まだパン作りに使えるだろうか?」
 ヴィルが心配そうに梨里を見た。元種全体にプツプツと小さく泡が立っている。梨里は瓶を開けた。ほんのりと甘い酵母と小麦の香りがして、梨里の目にじわっと涙が滲んだ。
「大丈夫です! これ以上放置してたら、過発酵になってダメになるところでした」
「リリーの喜ぶ顔が見られてよかった。さぞ心が疲れているだろうと思ってな……」
「嬉しいです。ありがとうございます」
 梨里は感謝の気持ちを込めてヴィルを見上げた。ヴィルは優しく微笑んで、梨里の頬に軽くキスをした。
「ヴィ、ヴィル?」
 梨里が驚いて目を見開き、ヴィルは照れたように笑う。
「ああ、リリーの笑顔がかわいかったから」
 その言葉を聞いて、梨里の顔が真っ赤になった。ヴィルは熱を持った梨里の頬を軽く撫でて言う。
「では、もう行くよ。聞き込みに戻らなければならない」
「もう行っちゃうんですね」
「早く犯人を見つけて、リリーを安心させてやりたいからな」
「お気をつけて」
 ヴィルは一度頷き、梨里に背を向けた。その広い背中を見送りながら、梨里は考え込む。
(何か……ヴィルたちのために私にできることは……)
 そう考えて、はたと思いついた。
(そうだ! パンを焼いて差し入れしよう!)
 梨里は元種の入った瓶を持ってキッチンに走った。朝食の準備をしているマルガの背中を見つけて声をかける。
「マルガさん!」
 マルガは驚いた顔で振り向いた。
「リリー様」
「パンを焼きたいからキッチンを使わせてください」
「え、パンなら私が焼いたものが……」
 マルガはカゴに重ねられた薄いパンを梨里に見せた。
「ううん、そうじゃなくて……私の世界で作られていたパンなんです。ふんわり柔らかいパンを焼いて、がんばってくれているヴィルたちに届けたいんです」
 梨里が「お願いします」と頭を下げると、マルガは困ったように胸の前で両手を挙げた。
「キッチンは旦那様のお客様がいらっしゃるような場所ではないのですが……そこまでおっしゃるのなら」
 マルガは小麦粉と塩、ガラス製と鉄製のボウルを出してくれた。梨里はマルガに頼んで、ほかに砂糖と牛乳とバターを分けてもらった。それらを元種とともにボウルに入れてざっとまとめると、台の上に置いて一両懸命手で捏ね始めた。梨里が体重をかけて捏ねるのを見て、マルガは驚いた顔をする。
「そんなに力を入れて捏ねるんですか……」
「はい。小麦粉をこうやって捏ねると、グルテンが形成されてパンがよく膨らむんです」
「膨らむ……っていうのがよくわからないんですが」
 生地が滑らかになって捏ね上がると、梨里はボウルに入れて鍋ぶたを被せた。
「しばらく発酵させないといけないんです」
「手間がかかるんですねぇ。では、その間に朝食になさいますか?」
 マルガがベーコンと卵を取り出すのを見て、梨里はいいことを思いついた。
「そのベーコンと卵も少し分けてもらえませんか?」

 それから二回の発酵を終えてオーブンでパンを焼き終えたときには、昼近かった。梨里は焼き上がったパンをバスケットに入れて、クヴェードリンブルク家の馬車でエミリアたちの家まで送ってもらった。開いたままの扉の前には騎士が二人立っていて、梨里は一人の騎士に話しかけた。
「あの、団長さんはいますか?」
「はい。ですが、今は中で実地検証中です」
「実地検証?」
 梨里は首を傾げて騎士を見た。
「実行犯に犯行を再現させています」
 騎士の答えを聞いて、梨里は息を呑んだ。
「ということは、犯人を捕まえたんですか……?」
「はい」
 騎士は小さく頷いた。梨里は騎士の顔を見た。梨里は被害者ではあるが、勝手に入ってはいけないだろう。案の定、騎士に「こちらでお待ちください」と家の横に案内された。そこには木製の折りたたみ椅子が置かれている。梨里は座って大人しく待つことにした。
 それから数十分ほどして、家から人が出てくる気配がした。騎士たちが両側に避けると、中からヴィルが、彼に続いて騎士に両側から腕を取られた中年男が出てきた。梨里に金貨一枚で小麦粉一袋しか売らなかったあの小麦商人だ。
(あの人が……!)
 梨里は椅子から立ち上がった。気づいてヴィルが驚いた顔で足を止める。
「リリー、どうしてここに」
「がんばってくださっている皆さんにパンの差し入れをしようと思って……」
 梨里は呆然としたまま男に歩み寄った。
「リリー」
 ヴィルが梨里の前に立ちふさがると、中年男は身を乗り出すようにして梨里に顎を突き出した。
「異世界から召喚された黒魔女め! 黒魔法薬を作ろうとしてたんだろう? 俺が全部割ってやった! 俺は黒魔女から世界を守った救世主なんだっ」
「黙れ!」
 両側の騎士が男の腕を掴んだまま言った。ヴィルが静かな声で言う。
「ショックを受けるだろうと思って、会わせたくなかったんだが……」
 梨里はヴィルから小麦商人へと視線を移した。
「黒魔法薬ってどういうことですか?」
「あの瓶に入ってた変な液体だ。ブクブク泡を立ててた。何かの呪文をかけたんだろう? 麻痺の薬か? 毒薬か? 召喚されたのに王城から追い出されたのは、お前が黒魔女だって証拠だ!」
 梨里はバスケットの中からロールパンを一つ取りだした。
「あれはこれを作るためのものだったんです」
「何だ、それは?」
 男は怪訝そうにしながらも横柄な口調は崩さなかった。
「パンです。私がいた世界のパン。柔らかくてとってもおいしいんです。こうやってふわふわにするために、あの瓶の中で育てていた酵母の力を借りました」
「コウボ? 何だ、それ。怪しい生き物か?」
「微生物です」
「微生物?」
 どうやら男に話は通じないらしい。梨里はパンを差し出した。
「食べてみてください。そうしたら黒魔法薬じゃないってわかります」
 男が騎士に掴まれたままの腕を動かそうとしたとき、ヴィルが梨里の手からロールパンを取った。
「ヴィル?」
「お客第一号は私だと約束したはずだ」
「でも……」
 梨里は反論しかけたが、ヴィルはロールパンをちぎってパクリと口に入れた。そうして目を見開く。
「柔らかい……。ほんのりブドウの甘い香りがして、うまい」
 ヴィルの言葉を聞いて、小麦商人はゴクリと唾を飲み込んだ。ヴィルはロールパンを食べ終わると、商人に向き直った。
「そもそもお前は金貨を盗みに押し入ったのだろう? そのときに瓶に気づいてそれを怪しみ、壊したんだ。罪は二つ……いや、法外な値段で小麦粉を売った罪も加わるから三つだな」
 商人はがっくりとうなだれた。
「裁判まで大人しく牢に入っているがいい。連行しろ」
 ヴィルが顔を傾けて合図をすると、騎士たちはヴィルを馬車に押し込んだ。そうして二人の騎士が乗り込み、御者が馬にムチを当てる。
「刑事みたい……」
 梨里のつぶやきを聞いて、ヴィルが首を傾げた。
「それもリリーが元いた世界のものか?」
「そうです。あの世界にも、ヴィルたちのように悪人を捕まえる正義のヒーローがいたんです。ヴィルはこの世界のヒーローですね」
 ヴィルは照れたように人差し指で頬を掻いてボソッとつぶやく。
「私はリリーのヒーローになりたいと思っている」
 梨里は頬が熱くなるのを感じた。ふと気づけば周囲に人だかりができていて、自分たちが注目されていたことに気づく。
「異世界の少女は黒魔女じゃなかったのか?」
「侯爵様がああしてお話しされているのだから……黒魔女という噂は嘘なのか?」
「侯爵様と異世界の少女はどういう関係なんだろう」
 そんな囁き声が聞こえてきて、梨里は戸惑い、バスケットを押しつけるようにしてヴィルに渡した。
「あ、あの、皆さんに食べてもらおうと思ってパンを焼いてきたんです。た、卵やベーコンをサンドしたものもあるんで……」
 そうして真っ赤な顔で逃げ出そうとしたとき、ヴィルが梨里の腕を掴んで引き寄せた。彼は周囲の野次馬を見回し、声を張り上げる。
「この家の改装が済めば、ここにリリーのベーカリーがオープンする。今までバンベルク王国に――いや、この大陸になかったようなおいしいパンが売られることになる。私もとても楽しみにしているのだ」
 そう言ってヴィルが梨里の髪にキスをしたので、周囲で歓声が上がった。その歓声に、梨里は自分の夢が近づいてくる足音を聞いた。

 ヴィルが手配してくれた職人たちが、エミリアたちの家をベーカリーに改装している間、梨里はヴィルのタウンハウスで暮らした。ヴィルは王城内の騎士舎で泊まることが多いが、週に一、二度はタウンハウスに来て、梨里と一緒に食事をした。肉や野菜を料理するのはマルガの役目だが、パンだけは梨里が焼いている。
 エミリアの家を荒らした小麦商人は、裁判の結果、小麦の販売免許を剥奪され、王都を追放された。
 そうして半月が立ち、梨里はヴィルと一緒に馬車に乗り、改装が終わった家に向かった。前方に家が見えてきて、梨里は顔をほころばせる。
「あ、出窓にコスモスが咲いてる! すてき!」
「ピクニックに行ったとき、梨里が気に入った様子だったから」
「ありがとうございます、ヴィル」
「礼を言うのはまだ早いよ。中もすばらしくなっている」
 馬車が止まって外からドアが開けられ、ヴィルが先に降りた。彼が差し出した手に掴まって、梨里も馬車から降りる。そして家を見上げて、大きく目を見開いた。
 扉の上に大きな看板が掛かっていて、〝Lily’s Bakery〟と書かれているのだ。
「ヴィル!」
 梨里は喜びのあまりヴィルに抱きついた。ヴィルは照れた表情で梨里を抱きしめる。
「店に買いに来るお客第一号も私だからな」
 ヴィルは念を押すように言って梨里の髪にキスを落とした。
 ――本日ここに、梨里の異世界天然酵母ベーカリーが開店する。

【END】

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