「だからぁ、何度提案されてもうちでは無理なんだよ。天然酵母のパンなんて、時間も手間もかかる。うちみたいに駅前にある忙しいパン屋で作れるわけないだろ。どうしても作りたきゃ、独立すればいい。そんな金もコネもないだろうけどな。ほら、勤務が終わったらさっさと帰れ。残業代は出せないんだからな」
 勤務先のベーカリーの男性店長に厳しい声で言われて、高居(たかい)梨里(りり)は「すみませんでした」と頭を下げた。そうして裏口から出てトボトボと歩く。
 店長は「この辺りは競争が厳しいから、給料をカットするしかない」とか「生き残るためにコストダウンだ!」と口癖のように言う。梨里は店を差別化してリピーターを増やすために、女性に人気の天然酵母パンを何度か提案してみたけれど……今日も怒られただけだった。
「あーあ……毎日同じ時間にベーカリーに行って、同じパンを焼いて、厨房の掃除をして……その繰り返しかぁ」
 パンが大好きで、高校卒業後に製パン専門学校に入学した。一年間技術を学んで、専門学校の紹介で就職したベーカリーだったけど……。学校に通っていたときは夢がいっぱいあったのに、現実は……「廃棄パンを減らせ!」「コスト削減!」と怒鳴られる日々。
 夢も心もすり減っていきそうだ。
 梨里は歩道をトボトボと歩き始めた。隣の駅前にある狭い賃貸アパートが梨里の家だ。両親は梨里が製パン専門学校に入った直後に事故で亡くなった。だから、両親には梨里が趣味として作っていたときのパンしか、食べさせてあげられなかった……。
 両親のことを思うと、鼻の奥がつんと痛くなった。涙が零れそうになったとき、突然強い風が吹きつけてきた。
「えっ……きゃ……」
 風はゴウゴウと大きな音を立てながら、渦を巻き始める。
「こ、これって……竜巻!?」
 梨里が恐怖を覚えたとき、目の前で女性がふわっと浮き上がった。梨里より少し年上の女性だ。
「きゃああぁっ」
「だ、大丈夫ですかっ」
 梨里は女性に向かって手を伸ばした。
「助けてぇーっ」
 女性は必死で両手を伸ばす。どうにか右手を伸ばして女性の左手を掴んだとき、梨里も風に煽られるようにして地面から足が離れた。
「きゃ、あああっ」
 風の中を体がくるくると舞い、上下左右がわからなくなる。
「た、助けて」
 女性の声が聞こえて、梨里は彼女を離すまいと左手を伸ばした。女性も右手を伸ばして、互いの手をギュッと握り合う。
「きゃーっ」
 風は耳が潰れそうなくらい大きな音で吹き荒れる。雨雲の中に突っ込んだように辺りが真っ暗になって……梨里は意識を失った。

 がやがやと人の話し声がして、梨里はふと我に返った。いつの間にか竜巻は収まっていて、梨里は硬い床の上にうつぶせに倒れていた。
(私、助かったの……?)
 ゆっくりと体を起こして辺りを見回し、愕然とする。梨里の――正確に言えば一緒に竜巻に巻き込まれた女性と梨里の――周囲には、ファンタジー漫画に出てくるようなローブを着た人たちが十人ほどいたのだ。
 その中の一人、白いあごひげをたくわえ、フードを目深に被った男性が、何か嬉しそうな声を上げて、手に持っていた杖を振り上げた。杖はまさにファンタジーの世界で魔法使いが使うような形をしていて、上部には赤い宝石の飾りが付いている。
(な、何? ここはどこ? この人たちは誰!?)
 梨里は一緒に竜巻に巻き込まれた女性を見た。女性は少し先で、床に手をついて上体を起こしていた。呆然とした表情だ。大学生くらいで、白い半袖カットソーにペールブルーのフレアスカートを着ている。柔らかな茶色い髪は緩やかにウェーブがかかっていて、彫りが深く、大きな黒い瞳が印象的な美人だ。
 梨里は手を使って床を這うようにしながら女性に近づいた。
「だ、大丈夫ですか?」
 怯えた表情だった女性は、梨里を見て泣き出しそうになる。
「何なの、あの人たち。ここはどこなの? 私たち、竜巻で外国にでも飛ばされたの?」
 女性の言葉で、梨里は周囲にいる人たちが、金色や明るい茶色の髪をしていることに気づいた。フードのせいで顔はよく見えないが……肌は透き通るように白い。何より話している言葉に、まったく聞き覚えがない。
「そんな……そんなバカなことが……」
 梨里は不安な気持ちで辺りを見回した。みんな杖を振り上げて喜びの声を上げていて……すぐに危害を加えられそうな雰囲気はないが……。
 しかし、そのうち不思議なことが起こった。梨里の周囲を満たしていた雑音にしか聞こえなかった音が……言葉として認識できるようになったのだ。さっきまでわけのわからなかった言葉が、日本語と同じように理解できる。
「どうして……?」
 女性も驚いたように目を見開いた。
「さっきまでぜんぜん意味がわからなかったのに……」
 梨里も愕然とする。すると、最初に杖を振り上げた白いあごひげの男性が近づいてきた。そうして女性の前で片膝をつき、深々とお辞儀をする。
「ようこそお越しくださいました、聖女様」
「えっ!? せ、聖女?」
「いかにも。あなた様はバンベルク王国の第一王子、アルフォンス様の花嫁となられるお方です」
「え、ちょっと待って。バンベルク王国? 第一王子? 何それ!」
 女性はお尻をついたまま後ずさる。
「ベルント、聖女様は召喚できたか?」
 突然、若い男性の声がして、広間の扉が大きく開いた。ブーツの音を響かせ大股で入ってきたのは、暗めの金髪をした二十歳過ぎくらいの男性だ。中世の王族が着るような、胸元にフリルがたっぷりついたシャツと金で刺繍が施された赤い燕尾服のようなものを着ている。
「はい、アルフォンス様。こちらが聖女様でございます」
 あごひげの男性――ベルント――は恭しくお辞儀をした。
「なるほど、確かに美しい。私の妻にぴったりだ」
 アルフォンスの言葉を聞いて、女性はうろたえた。
「そ、そんな」
「そなた、名は何と言う?」
「え、わ、わた、私……」
「急に召喚されて戸惑っておろう。だが、これも我が王国に安寧と繁栄をもたらすための神の思し召しなのだ。そなたが国母にふさわしい聖女の素質を備えているがゆえのこと。さあ、今日はゆっくり休むがよい」
 アルフォンスは女性の手を取って立たせた。ベルントがアルフォンスに問いかける。
「アルフォンス様、こちらの少女はいかがいたしましょう? 側室になさいますか?」
 アルフォンスは梨里に目を向けた。直後、あからさまに顔をしかめる。
「こんな貧相な小娘、好みではない。捨て置け」
 言うやいなや、アルフォンスは女性を促しながら扉に向かった。女性が不安そうに振り返ったが、従者と思しき男性が二人、アルフォンスたちの後に続き、すぐに女性の姿は見えなくなった。
 残された梨里は心細さのあまり泣きそうになるのをぐっとこらえ、ベルントに問いかける。
「あの、いったいどういうことなのか説明してもらえませんか?」
 ベルントは梨里に向き直り、フードを下ろした。七十歳くらいの白髪の老人の顔が現れる。しわが刻まれたその顔は、しかし、百戦錬磨の魔法使いといった印象だ。
 そんなことを思って、梨里は自分に驚く。
(魔法使いって……そんなバカな)
 ベルントは梨里の前で片膝をついて話し始めた。
「千年前、神のお告げにより、一人の男がここに王国を築きました。それが初代国王、ツェーザル・バンベルクです。それ以降、百年に一度、神のお告げがあり、お告げに従うことで、バンベルク王国は栄えてきました。先頃新たに、異世界より聖女を召喚して第一王子の花嫁とするように、とのお告げがありました。バンベルク王国が末永く栄えるためには、これまで通り神のお告げに従わねばなりませぬ」
「お告げ……? 異世界……?」
(そんなの信じられない! きっと夢を見てるんだ)
 梨里は自分の頬を右手で思いっきりつねった。
「いった!」
 あまりの痛さに涙目になる。ベルントは困ったような笑みを浮かべて話を続ける。
「魔導師十人がかりで召喚の儀式を行い……本来なら聖女様お一人を召喚するはずだったのですが、何かの手違いであなたも召喚されてしまったようです」
「手違いって……!」
 異世界とか召喚とか、まだ信じられない。だけど、ここに来る直前に巻き込まれた竜巻が……召喚の儀式だったのでは、という気がしてきた。
「じゃあ、私は……さっきの女性の巻き添えを食って……召喚されたっていうの……?」
 梨里は呆然とつぶやいた。
「そのようです。先程のお方からは聖なる力を感じましたが……残念ながらあなたからは何も特別な力を感じませぬ」
 ベルントがすまなさそうに言った。
「どうせ私は貧相な凡人ですよっ。っていうか、そもそもこんなの誘拐じゃないですか! 地球に、日本に戻してくださいっ! さっきの女性も一緒に!」
 梨里の言葉を聞いて、ベルントの顔がますます申し訳なさそうになる。
「それは無理なのです」
「無理って? どういうこと?」
「召喚の儀式によって作られる世界を結ぶ道は、一方通行でしかないのです。こちらから元の世界には行けません」
「な……っ」
 梨里は全身から血の気が引くのを感じた。
「だったら……私、これから……どうしたらいいの……?」
 元いた世界に戻れないなんて。苦労して製パン専門学校を卒業して、ようやく夢だったパンを作って生活してたのに!
 頼れる人が誰もいない異世界で『捨て置け』と一人取り残され、これからどうやって生きていけばいいのか。それを思うと絶望しかなく、目からポロポロと涙が零れた。
「お気の毒です」
「お気の毒じゃないですっ。何とかしてください。せめて……住むところと食料を……」
 梨里はベルントにすがるように言った。彼は左手を顎に当てる。
「そうですな。それくらいはせねばなりませぬな。では、私の孫に手配させましょう」
 ベルントはすっと立ち上がると、スマートフォンで電話でもするのかと思いきや、左手を胸に当てて目を閉じた。しばらくそうして口をもごもご動かし、やがて目を開ける。
「今、孫のヴィルフリートに思念を送りました」
「思念?」
 梨里はぱちくりと瞬きをした。驚いて涙が止まる。
「王宮の庭で剣術の稽古を監督しているはずですので、間もなく参ります」
 ベルントが言った通り、ほどなくして広間の扉が開き、背の高い男性が一人入ってきた。騎士が着るような――両肩に金の肩章があり、右肩から胸の前に金の飾り紐が垂らされた――夜空のように深い藍色の衣装を身につけ、白いブーツを履いている。腰には金の鞘に入った長い剣が下げられていた
「仕事中だというのに呼びつけるとは、我が祖父は相変わらず人使いが荒い」
 男性は不満そうに息を吐いた。ベルントは座り込んだままの梨里に顔を向ける。
「ご紹介します。我が孫、第二騎士団団長のヴィルフリート・クヴェードリンブルクです」
「初めまして。ヴィルフリート・クヴェードリンブルクです。祖父から思念で事情を伺いました。聖女様の巻き添えで召喚されたとか」
 ヴィルフリートは胸に手を当てて恭しくお辞儀をした。顔を上げたヴィルフリートがあまりに端正な顔をしていて、梨里は息をのむ。ヴィルフリートは二十五歳くらい。輝くような金髪に意志の強そうな青い目をした美しい顔立ちの男性だ。
「気の毒に。こんなに幼いのに異世界に召喚されるとは」
 哀れみのこもった声で言われ、梨里は眉を寄せる。
「幼い!? 黒髪で顔立ちが地味なのでよく実年齢より年下に見られますけど、私、こう見えて今十九歳ですっ。ベーカリーで働いてる社会人ですっ」
「社会人?」
 ヴィルフリートが首を傾げた。この世界には〝社会人〟という言葉はないのかと思いながら、梨里は答える。
「世の中に出て働いて、お金をもらってる人って意味です」
「それは失礼した。で、そなた名前は?」
「高居梨里ですっ」
 梨里はぷいっと横を向いた。
「タカイ……それがファーストネームか?」
 語順が日本とは違うらしいと認識して、梨里は言い直す。
「ファーストネームはリリです。タカイはファミリーネーム」
「ファミリー……。そなたの家族も心配しているだろうな」
 ヴィルフリートに言われ、梨里は表情を曇らせる。
「両親は一年前に事故で亡くなりました。ほかに親戚もいないので、心配してくれる人はいません」
「そうか……。だからといって、意に反して異世界に連れてこられたのは、本当に気の毒に思う。だが、神のお告げとあらば、私たちは従うしかないのだ」
 梨里は肩を落とした。
「とにかく、そなたは聖女ではなく、王子の花嫁にもならないようだから、ここで何とか暮らしていけるよう私が力を貸そう」
 ヴィルフリートは右手をすっと差し出した。握手でもするのかと梨里がその手を握ると、彼は梨里の手を引いて立ち上がらせた。
 ベルントが梨里に言う。
「ヴィルフリートが団長を務める第二騎士団は、街の治安維持が主な任務です。街のことなら、ヴィルフリートに訊くと間違いありませぬ」
 梨里はヴィルフリートの手を離し、諦めた気分で息を吐く。
(元いた日本に帰れないのなら……この団長さんの言うように、どうにかここで一人で生きていかなくちゃいけない……)
「お願いします」
 梨里はヴィルフリートを見上げた。身長一五二センチの梨里にとって、彼は見上げるように背が高い。さっきの女性と比べて凹凸もない自分は、彼にとって――王子も含め、この世界の人々にとって――〝幼い〟〝貧相な小娘〟でしかないのだろう。