いくらも歩かないうちに、その小さな泉はあった。
 立った位置から見下ろしただけでも、水底が見えるくらいに水が澄んでいる。
 中で魚が泳いでいることからも、おそらく飲めるものであるのはまちがいない。

 屈みこんで水面に映る自分の顔を見つめながら、セシルは途方に暮れていた。
(どうしよう……!どうしよう……!)

 スカートのポケットの中に手を入れると、ただそれだけで体が震える。
 小さな瓶が、指先にやけに冷たく感じる。

 『恋愛魔法薬』――その気がない相手にも無理やり恋愛感情を芽生えさせてしまう、恐ろしい秘薬。

 これを杯に汲んだ水に混ぜてしまえば、ユーディアスは自分をふり向いてくれるのだろうか。
 他の人に見せるのと同じような笑顔を、遠い昔のようにまた、セシルにも向けてもらえるのだろうか。
 想像しただけで、ぎゅっと胸が痛くなった。
 しかし――。

(でも……本当にそれでいいのかな……?)
 ドキドキと震える体以上に、セシルの心は震えていた。

 目を閉じると、すぐにユーディアスの顔が浮かんでくる。
 いつも遠くから見ていた――小さな頃の面影を濃く残した綺麗な顔。
 セシルと目があうと、いつだってぷいっと逸らされてばかりだったえんじ色の瞳。
 それが今、妙にありありと心に浮かぶ。

 正義感にあふれた、まっすぐなユーディアス。
 もしここで卑怯な手を使ったなら、たとえこの先彼がセシルを見てくれるようになったとしても、セシルのほうが、彼を堂々と見つめ返せるだろうか。
 ――無理な気がした。

(別に……ユーディが私のことを好きにならなくてもいい……この恋に望みがなくてもいい……! ただ私がユーディを好きなだけだから……ずっと見ていたいだけだから……!)

 帰ったらそうはっきりと、アンジェリカとミュゼットにも言おうと決意しながら、セシルはポケットの中で握りしめていた小瓶から手を放した。
 薬を入れずに、ただ水だけを汲んで三人が待つ場所へ帰ろうと、水面に体を乗り出す。
 その瞬間――。

 ザアアアアアアアッツ

 大きな音をたてて、水面が急激に盛り上がった。
「きゃああああああっ!」
 悲鳴を上げてうしろにのけぞったセシルの横に、アンジェリカとミュゼットが飛び出してくる。

「ア、アン? ミュゼット……?」
 悲鳴を聞きつけて走ってきたにしては、あまりにも早すぎはしないだろうか。
 どうやら二人は、セシルが本当に杯に恋愛魔法薬を入れるかどうか、見届けようとこっそりついてきていたようだ。

 しかし今はそんなことはどうでもいい。
「天空より来たりて、打ち貫け光の刃!」
 いつもの飄々とした雰囲気からは想像もつかない威厳に満ちた声で、ミュゼットが得意の閃光系の魔法を詠唱し始める。

 しかしそこにアンジェリカの鋭い声が飛ぶ。
「バカじゃないの、ミュゼット! あれに閃光系を当ててどうするのよっ!」
 滝のように流れ落ちる水幕の中から姿を現わしたのは、皮膚で発電した電気を空気中にビリビリと放電している大きななまずだった。