「月刊陰陽師」編集部は東京の高田馬場にあった。

 真名にとっては、高田馬場といえば早稲田大学があって学生街のイメージが強い。
 現に、若い男女がものすごく多かった。

 真名が通っている藤美女子大学は同じ都内でも吉祥寺駅の方で、緑豊かな場所から着たため、街行く学生たちが妙に垢抜けて感じた。

「何だかすごいところに来ちゃった気がします……」

 駅を出てスマートフォンで道を確かめながら小さく呟く。今日の真名の服装はリクルートスーツだった。いろいろ悩んだ末、会社さま相手なのだからと、この格好を選んだ。

「何を言っているのじゃ。この中の学生たちは、スクナのような神さまがぴったり守っている者などおらん。自信を持つのじゃ」
 頭の上からスクナが声をかけた。スクナの言う通りだ、と真名は自分を励ます。「じゃが、空気は悪いの……」

「あ、それは思いました」

 真名は、高田馬場の駅前の排気ガス臭い空気に面食らっていた。寮のある吉祥寺も人は多いが、真名の寮の辺りは木がたくさん植えられている。
 女子大生の寮が丸見えでは問題だからだった。おかげで、都内でありながらそれなりに空気はよい。

 本を買うために新宿辺りの大きな書店に行くことはあった。そういうとき、真名は駅から書店までほとんど地下通路を使っていたから、高田馬場の都会らしい空気は衝撃だった。

 陰陽師たるもの、当たり前だが精神統一は修行として必須だ。精神統一に入るにはいろいろな方法があるが、もっともオーソドックスな方法は深呼吸を繰り返して心の波長を調えることだった。
 だから、空気がいい場所での修行に越したことはないのだが……編集部の人たちは大丈夫なのだろうか。

 真名はバッグからハンカチを取り出して額の汗を抑えた。

「ここにずっとこうしていても始まらぬ。急ごうぞ、真名」

「はい」

 駅前を左――早稲田大学と反対方向――に歩き出す。
 込み入った道といろいろな飲食店。こういうところを歩いていると、だいたい憑依霊のひとつやふたつに遭遇するものなのだが、スクナが適度に話しかけてきてくれるのでかえって気が紛れ、そのような悪霊現象に振り回されないですんでいた。

 これは真名にとって画期的な出来事だった。

 スクナを頭に乗せたまま就活の面接を受ければ何とかなるかもしれない、と考えたがすぐにこの案には無理があると気づく。
 面接の間、ずっとスクナと話をしていなければいけないからだ。
 真名の方は心の中でしゃべるに留めておいたとしても、スクナと心の中で会話をしながら面接官の質問に答えるなどという器用な真似をこなす自信はなかった。

 しばらく歩くとふっつりと飲食店が消えた。

 大学と反対だからだろうか。少し緑が増えた。けれども、都会の空気の方が強い。風がぬるかった。

 スマートフォンとにらめっこして細い路地に入る。

 三軒目の、オートロックになっている小さなビルの二階が「月刊陰陽師」編集部だった。

 一階はエントランスになっている。

「お? ついたか?」とスクナが明るい声で尋ねてくる。

「そうですね。つきました」

 真名の声が固い。

「どうしたのじゃ?」

「いえ。あの……」

 真名が言い淀んだ。二階に出ている表札が「『月刊陰陽師』編集部 陰陽出版社」で、そのままなのだ。
 普通、雑誌の編集社と言っても、誌名そのままというのは珍しい。
 ましてやこの誌名だ。別に会社名があるのだろうとは思っていたのだが、まさかの「陰陽出版社」。直球すぎないだろうか……。

「大丈夫じゃ、真名。編集者の条件は情熱とガッツじゃ」

「読書量だけじゃダメなんですか」

「気合いは大事じゃからの」

 真名がインターホンを鳴らす。数回のコールののち、若い男の声がした。

『はい、「月刊陰陽師」編集部です』

 若い男、それも結構軽い感じの声に聞こえた。
 自分と同じような大学生のバイトだろうか。
 誌面の名前から勝手に父親と同年代くらいの人たちの集まりを想像していた真名は、予想外の事態に一気に緊張してしまった。

「あ、あのっ。初めまして。私、神代真名と申します。昨日メールで、本日の十四時にお約束させていただいていたのですが」

 一拍おいて返事が来る。

『はい、伺ってまーす。ロックを解除しますから、二階に上がってくださーい』

 機械音がしてロックが解除された。

「お、開いたようじゃぞ」

「そうですね」と真名はふと思った。「何かこう、式神とかが門番をしていたりはしないのね」

 それを聞いたスクナが頭の上で楽しげに笑う。

「ははは。本当にそうかの?」

「え?」

「あ、ほれ。〝おーとろっく〟とやらがまた閉まるぞ」

 慌てて真名が建物の中に滑り込んだ。汚くはないが、めちゃくちゃきれいでもない、要するにそこそこ年代を経ているけれども丁寧に使われているビルだった。

 二階に上がるのには階段とエレベーターがある。ちょっと考えて、真名は階段にした。二階へ上がると少し廊下になっている。一階と比べて二階は内装がしっかりしていて、就職活動で何度か足を踏み入れた〝おしゃれなスタートアップ企業〟みたいな雰囲気だった。

 扉が三つある。

 そのうち二つには何も書かれていないが、いちばん奥の扉に「『月刊陰陽師』編集部 陰陽出版社」というプレートが出ていて、外側に開いていた。

 何となく足音を立てないように歩き、覗き込む。

 そこには受付の式神がいた――などということはなく、木目調のパーティションで受付場所ができていて電話機が一台置かれていた。

 極めて〝普通の会社〟っぽい。

 拍子抜けを通り越して、真名はやっと落ち着いてきた。

 電話機に書かれた内線番号を押すと、先ほどの若い男性の声がして、そこで待っているように告げられる。右に木目調のドアがあるからそちらが事務所だろうか。真名は深呼吸して待った。

 そのドアが勢いよく開いた。

「お待たせしましたー。きみが神代さん? どうぞお入りくださーい」

 満面の笑みで出てきたのは、先ほどの若い男の声の持ち主だった。
 デニムに青いジャケットを着ている。髪は金色に近い茶髪で手足が細かった。声の通り、若い。大学生のバイトではなさそうだが、三十歳を超えてはいないと思った。
 顔立ちは整っているのだが妙ににこにこしているので距離感が摑めない。

 こういう男性を一般的には軽薄と称していいのだが、女子大で寮生活の真名にはその辺りの分類がいまいち判然としなかった。

 いよいよじゃの、と頭上でスクナの声がする。

「し、失礼しまーす」

 と声をかけてドアをくぐる。先ほどの若い男がどんどん向こうへ歩いていく。怪しまれないように正面を向きながらも、眼球を思い切り動かして横目で事務所の様子を観察した。結構広めのオフィスで、机がいくつも並んでいる。そこに男性が二人いるのが見えたように思った。

 若い男の人が先へ進んで、もう一つ別の扉を開けた。長机を組み合わせて作った島と、いくつものビジネスチェア。ミーティングルームだろう。真名は就活の面接を思い出してちょっと暗くなった。

「じゃあ、いま編集長呼んできますんで、ここで座って待っててくださーい」
 と若い男がにこにこと笑って去っていく。

「あ、ありがとうございます――」

 男の軽いノリに、真名は就活の嫌な思い出を振り払った。真名はバッグを下ろしたものの、椅子に座らないで待っている。

 少ししてノックがして姿勢を正すと、入ってきたのは先ほどの若い男がお盆にお茶を載せて戻ってきた。若い男は立ったままの真名を見てびっくりしたようだったが、にかっと笑って真名に椅子を勧める。

「立ってなくて大丈夫だよー? 椅子に座ってリラックス、リラックス」

「ありがとうございます」

 真名は丁寧に頭を下げた。そろそろ真名にもこの男が軽いタイプだというのが分かってきた。

「あ、僕は戸田(とだ)律樹(りつき)。よろしくね~」

「神代真名と申します。よろしくお願いします」

 すると軽めの若い男――律樹が少し人の悪い笑みになった。

「ダメだよー、真名ちゃん。軽々しく本名を教えちゃ」

「え?」

「僕らは陰陽師の世界にいるんだよ? 名前は最初の呪。それによって存在を規定し、縛り上げる」

 真名は焦った。ただの明るく軽い男だと思っていた律樹が急に陰陽師の顔を見せたからだ。
 真名はすっかり自分が油断していたと悟らされた。
 律樹の言う通り、ここは大学のキャンパスではなく、「月刊陰陽師」編集部という、れっきとした陰陽師の世界なのだ。

 陰陽師にとって、名前を知られるというのはかなり大きかった。

 悪意を持っている相手なら名前を縁として真名に呪をかけたり、反対に真名がかける呪を破られたり邪魔されたりできるのだ。すっかり普通の女子大生になっていて、基礎的な警戒がおろそかだった……。

 真名がひとり反省モードになっていると、律樹が声を上げて笑った。

「あははは。そんな深刻な顔しなくていいよ。僕たちはそんな汚いことしないし。オープン・マインドでいこうよ。あ、さっきの僕の名前も本名だから」

 一方的に煙に巻かれそうになり、真名はとにかく質問を探す。

「あの、戸田さんも陰陽師なのですか?」

「やだなー。〝戸田さん〟なんて堅苦しく呼ばないで、律樹とかリッキーとか気楽にいこうよ?」

「リッキー……?」

 真名が聞き返すと、律樹が片目をつぶる。こんな仕草する人、実在したんだ……。

「りつき、だからリッキー。よろしく」

「あ、はい……」

「陰陽師かっていえば、僕は違うよ。他の二人は陰陽師だけどね」

 急に会話が戻ってきた。それも極めて重要な内容だ。

「戸田さんは、違う……?」

「リッキー」

「いえいえ、初対面でそれは」

 律樹が不服そうにしていた。けれどもそれはごく短い時間だけですぐにからりと笑った。

「じゃあ、おいおいで。よろしく頼むね」

 けらけらと笑う律樹を見ながら、頭の上のスクナが「ふむ。意外に面倒くさい男のようじゃな」と小声で感想を述べている。

「はあ……」

 ため息のような返事は律樹に対してのものか、スクナに対してのものか……。

 とりあえず座っててね、と律樹が軽く言い放ち、出ていった。

 すでに真名は消耗している。座っててと言われたものの、学生の身分で座って待ってていいのかと就活の知識が真名を叱っていた。座っていいものかを悩むくらいなら立っていよう。

 突然、大きな音がしてドアが開いた。

「いやいやいや。ごめんなさいね。遅くなりまして」

「は、はいっ」と真名が跳び上がりそうになって出迎える。頭上でスクナが悲鳴を上げた。

 入ってきたのは元気な、というより騒々しい感じの中年の男性だ。

 髪形は、寝癖というかぼさぼさというか、爆発していた。それだけ見ると、編集関係の仕事というより発明家か何かのようだった。

 満面の笑みとそれによって生じた目尻の笑いじわが人のよさをアピールしている。四十歳前後くらいだろうか。髭はきれいに剃られているのが――髪形の激しさに反して――意外だった。
 緩めたネクタイはそのままで、ベストは着ているものの上着は着ていない。
 レンズに少し茶色の入ったメガネをしていた。ずり落ちそうなメガネをちょいちょい治している。早足で机の向こうに立った。

 入ってきたのはその人物だけではなかった。
 もう一人、別の男性がいた。

 背が高く、若く、モデルのようだった。
 色白できめの細かい肌をしていて、どこか物憂げな表情も白皙の美貌を引き立てている。たぶん、まだ二十代。眉は形よく、濃いまつげの目元は涼しげ。頰はすっきりしてまるで絵に描いたようなきれいな輪郭だった。

 先に入ってきた中年の男のように髪が爆発していることもなく、清潔感があった。

 服装はジャケットとスラックスで、律樹に似ていたが聡明さと不思議な神秘感を感じさせる。真名は思わずモデルのような男性をまじまじと見つめてしまった。

 髪の爆発した男性がポケットから名刺入れを取り出す。相変わらずにこにこ顔で机の向こうから真名の方へ歩いてきて、やや早口で挨拶してきた。

「神代真名さんね。昨日、メールでご挨拶した美馬昭五です。うち、子だくさんでね。昭和に生まれた五人目の男の子だったから〝昭五〟って。覚えやすいでしょ?」
 と言って、昭五が名刺をくれた。「株式会社陰陽出版社 代表取締役社長」と「月刊陰陽師』編集長」の二つの肩書きが書いてある。

「初めまして。神代真名です。あの、学生なので名刺を持っていませんで……」

 真名が謝ろうとすると昭五が途中で遮った。

「うんうん。いいよいいよ。気にしないで大丈夫」

 昭五の斜め後ろで、モデルのような男性も名刺入れをジャケットから出している。

「初めまして。倉橋(くらはし)泰明(やすあき)です」

 落ち着いている声だった。
 かすかに微笑んだ表情が美しい。
 名刺を出し出す指がピアニストのように白く細く、繊細だった。
 その名前に何か聞き覚えを感じたけど、思い出せない。どこかで会った、というわけではないとは思った。その証拠に、倉橋泰明の表情はあくまでクールで、初対面の警戒感すら感じさせている。

 席に着くと、笑顔を崩さない昭五が口を開いた。

「メールにも書いた通り、お父さんから聞いていますよ。それにしても神代さんも、ひとりで東京暮らしというのは大変だね」

「寮があるので、いわゆるひとり暮らしほど大変ではなくて助かっています」

 昭五がしゃべっている間、泰明の方はどこか不機嫌そうな顔つきで話を聞いている。いや、それよりも冷たい、がふさわしいかもしれなかった。

「うんうん。いいねいいね。大学では何を勉強しているの?」

「英文学部です」

 上機嫌な昭五がぺらぺらと質問を続ける。ただの世間話とも言えるが、深読みすれば採用面接のようになってきた。答えながらだんだん真名は不安な気持ちになってきた。遊びに来るつもりでとメールにあったから来たようなものだ。まあ、万が一に備えて履歴書だけは持ってきたけど、就職活動真っ只中の時期に、生涯初となるバイトをはじめる余裕なんて、ない。

 入れてもらったお茶の氷が、からりと音を立てた。

「あーそうなんだー。うんうん。いろいろあるよねぇ」
 と昭五が朗らかに相づちを打っている。真名は悪いなと思いつつも、視線が泳いだ。そのときだ。

「編集長、その辺にしておきましょう」
 と泰明が声をかけた。にこにこと話し続けていた昭五がきょとんとなる。

「うん?」

「いや、その子、引いてるから」

 泰明が眉をひそめて言うと、昭五が改めて真名に振り向いた。真名は申し訳なさそうな表情で視線を落としている。

「あー、ごめんごめん。私、ついおしゃべりが過ぎちゃって。いつも泰明くんに怒られてるんだよ」

 ははは、と昭五が頭を搔いた。真名も愛想笑いを返す。

「ずいぶん賑やかなところじゃな」と頭上でスクナさまが苦笑していた。

 この部屋に入ってから緊張して真名はすっかり忘れていたが、頭の上にスクナが乗っているのだ。

 そのときだった。

 泰明と真名の視線がぶつかる。知的なイケメンと真正面から目線が交差し、真名は動揺した。泰明の側はまるで動揺していない。睨むように鋭い目つきだが、目の光り方が違う。

 真名は直感した。

 この人、見える人だ。

 独特の光り方をする深く黒い瞳は、見鬼の才がある人間特有のものだった。真名の直感を裏付けるように泰明はかすかに視線を上に――ちょうど真名の頭の上辺りに――向けると、合掌して一礼した。

「改めまして。初めまして。倉橋泰明です」

 真名はぎょっとなったが、この二人は陰陽師のはずだから当然だろう。
 その瞬間、真名は頭上にスクナをのせたままイケメンと編集長のふたりの陰陽師に対していたのだと気づき、耳まで熱くなった。

 頭の上に神さまをのせた女子大生。あり得ない……。

 スクナはふわりと真名の頭から降りるとデスクの上に立った。

「うむ。スクナである。縁あって真名を守っている」

「よろしくお願いします」と泰明がもう一度丁寧に頭を下げる。

 昭五が不思議そうな顔をしていた。

「何かいるの?」

「え?」と真名は思わず驚きの声を上げてしまった。

 ひょっとして……編集長には見えていないのだろうか――?

 いやいや、「月刊陰陽師」なんていう特異な月刊誌の編集長ではないか。真名たちのような霊的な存在が〝見える聞こえる〟当たり前の陰陽師向けの専門誌のはずだ。

 その編集長がスクナを見えない……?

 今度こそ驚愕の表情で昭五を見返すと、昭五が頭を搔きながら大笑いしていた。

「あっはっはっは。バレちゃったね。実は私、霊的なものって全然見えないんだよ」

 あっけらかんと暴露する昭五に、真名はまたしても驚きの声を上げる。

「見えないって、見鬼の才がないってことですか!?」

「うん」と簡単に頷く昭五「たまにいるんだよ、そういう陰陽師も」

「でも、悪霊や生霊を見抜けなかったら祓えないのではありませんか?」

 真名の質問に昭五が真面目くさって言う。

「おっしゃる通り。私の能力はかなり限定されていましてね。ごく限られた分野の占だけです」

 そういうこともあるのかと真名が頭を悩ませていると、泰明が肩をすくめた。

「具体的には天気予報」

「はい?」

「お天気お姉さんならぬ、お天気おじさんなんだよ。うちの編集長」
 と、泰明がにこりともせずに説明した。

 その横で、昭五が笑いながらまた頭を搔いていた。

「そうそう。『月刊陰陽師』に載せる今月の天気予報は外さないのが売りでして。でも、こういう雑誌だから、逆に何も見えたり聞こえたりしない人間が純粋に編集をした方がよい部分もあるのですよ」

 昭五がそのように説明するが、真名には全然ぴんとこない。この編集部で仕事をしているわけでもないし、編集経験があるわけでもないので仕方がないことだった。

 ただ、自分もそれほど霊能力に恵まれていない真名には、昭五の存在は朗報かもしれない。

「そういうものなのですね……」
 と答えるのが精一杯だった。

「ところで、何がいらしたの?」
 と昭五が泰明に尋ねる。

 泰明があっさり答えた。

「神さま」

「神さま?」

「身長十センチくらいの神さま。小柄だけど、霊威がとてもお強い。ということは霊威が弱いから小柄なのではなく、もとからこのようなお姿の神さま――少名毘古那神さまだろうと思う」

 昭五に対してとは違った意味で、真名は泰明に目を見張った。泰明は、何の説明もないのに、あっさりとスクナの正体を言い当てたのだ。

「うむ。いかにもスクナは少名毘古那神の分け御霊じゃ」

「恐れ入ります」と泰明が頭を下げる。

「何の何の。さすが倉橋家の世嗣よな」

 スクナの言葉に、真名はあることを思い出した。さっき、泰明の名前を聞いたときに引っかかっていた内容だ。

「倉橋家……!」
 と真名が呟くと、昭五が面白そうにした。

「お、気づいたかね? さすが陰陽師の一員だ」

「倉橋家、というと、陰陽師の名門の――」

 昭五が両手を大きく開いた。

「うんうん。そうだよ。あの安倍晴明の末裔たる土御門家から分かれた一族にしてれっきとした旧華族の一員さ」

 真名はまじまじと泰明を見てしまう。すごい人なんだ、と真名は素朴に思った。当の泰明は口をへの字にして不満そうな表情を見せる。

「確かに倉橋家には安倍晴明の男系血脈が流れていたけど、それは戦国時代までのこと。いまは四回の女系を経ていて、どこまで家柄や血筋が残っているのやら……」

「まあまあ。そう言ってもきみがずば抜けた才能の陰陽師なのは間違いないのだし」
 と昭五がなだめている。

「だから、家なんてどうでもいい」と泰明が意見を述べた。「安倍晴明は陰陽師として有名だけれども、陰陽寮のトップにまでは上り詰めていない。当時は賀茂家が陰陽師の名門で、さらにその前は大春日家という家が陰陽寮では比較的有名だった。安倍晴明はそのどちらの血筋でもない。――だから家柄や血筋に拘るのは馬鹿だと俺は思う。言ってる意味、分かるよな?」

 泰明の最後の言葉は真名に向けられたものだった。

「は、はい――」

 いきなり話を振られて、真名はそう答えるのが精一杯だ。それどころか本心を言ってしまえば、名門・倉橋家なんてすごい、と思っていたりする。

 でも、泰明が「倉橋家」の枠をかけられるのが嫌なら、それは心に留めておこう。
 嫌どころか親の仇みたいな顔しているし。
 ただでさえクールなSキャラっぽい人だから、以後は触れずにおこう。
 そもそも、いくら陰陽師だからと言って家柄を振りかざす人より、よほど好感が持てるというものだった。

 そんな真名の想いが伝わったのか伝わらないのか、泰明は鼻を鳴らした。

「ふん。ま、よろしくな」

 よろしくと言われているのになぜか背筋が伸びる。ものすごく厳しい人のような気がする。自分にも、他人にも。Sキャラではない。ドS陰陽師だ。

「い、いいえ。どういたしまして」

 つっけんどんに言い返してしまった。何やってんだろ、私……。

 泰明は真名を無視して、先ほどまでの理知的な表情で昭五に提案する。

「編集長、もともとメールでは遊びに来るつもりでと言っていたんでしょ? だったら、オフィスの方を見てもらった方が面白いんじゃないのかな?」

 泰明の言葉に昭五が手を打った。

「いいね、いいね。それ。じゃあ、そういうことで神代さん、オフィスを案内しましょう」

 早速立ち上がった昭五に、スクナが驚いている。

「これでは編集長と泰明のどちらの立場が上か分からんのぅ」

 その声が聞こえた泰明が苦笑し、昭五は何があったのかを尋ねる。泰明が昭五にスクナの言葉を伝えると、昭五がまた苦笑した。

「スクナさまにも神代さんにも言っておきますが、我が美馬家は倉橋家にお仕えする家系なのです。泰明くんが倉橋家のレッテルを嫌がったとしても、私の家の方ではそうはいかない。まあ、でも一応私が編集長なので、雑誌編集のときには私が上だよ」

 そう言うと昭五は残っていた麦茶をあおった。氷も口に入れて噛み砕いている。

 ミーティングルームから出た真名は、そのままオフィスへ案内された。大きくふたつに机はまとめられていて、ノートパソコンだけの五人分の机のある区画と、そこから少し離れて何台ものデスクトップパソコンが並ぶ区画があった。デスクトップだらけの方を、通称「パソコン島」と呼ぶのだと昭五が教えてくれる。パソコンの周辺には本や紙束が山と積まれていた。

「ここがうちの編集部。メンバーは私と泰明くんと律樹くんの三人」

 デスクトップパソコンの一つに、先ほどミーティングルームへ案内してくれた律樹が座っている。デスクの引き出しを開いて、そこに雑誌の誌面をコピーしたような紙を載せ、右手はマウス、左手はキーボードを細かく操作していた。律樹が真名に振り向き手を振る。

「やっほー、真名ちゃん。仕事場を見に来たの?」

「あ、はい。見学させていただきます」

 真名がおじぎした。

「律樹、あんまりなれなれしくするな」
 と泰明が眼光鋭く釘を刺す。

「はいはい」

 律樹は軽く受け流した。顔を画面に顔を戻す。手元にある紙と同じような雑誌のカラーページページが画面に映っていた。真名が少し画面に顔を近づける。

「これは何をしているのですか」

「ああ、これ? 取材で撮影してきた写真をどこにどう配置するか、いじってた」

 神社らしき写真や周りの美しい風景の写真が画面に映っていた。

「へー」初めて見る光景に、真名の好奇心が渦巻く。「取材って律樹さんが行ったのですか?」

「僕が行くときもあるけど、これは違うよ。このときは……泰明」

「そうなんですか」

 真名は泰明に顔を向けた。

「うちは人数が少ないから、俺だけでなく編集長も取材に出るし、場合によっては律樹だって取材に出る」

「なるほど~」

 ミーティングルームでの詰問より、よほど〝編集部〟に来た感じがする。それだけではなかった。泰明と律樹は互いに呼びつけにするのか。〝男の子の友情〟って感じで好ましい――。

「そーそー。ここ、人使いが荒くってさ。こう見えても僕はデザイナーとして働いてるんだよ? それなのに文章は書かせる、校正はさせる。そのくせデザインの仕事は普通にあるんだよ」

 両手を忙しく動かし、目を画面から離さず律樹が明るく文句を言っている。

「変な先入観を吹き込むな。あと、おまえはもともと人間じゃないから〝人使い〟を云々するな」

「へーい」

 真名は画面から目を離し、泰明に目を向けた。真名の視線を受けて、泰明が見返す。互いに不思議そうな顔をしていた。

「あの、〝人間じゃない〟というのは……」

「あ? スクナさまが見えてて、こいつが分からないのか?」

 間の抜けたような沈黙。昭五がずり落ちそうになったメガネを戻しつつ、自分の見解を披露する。

「ふむ。神代さんはまだまだ自分の力を解放しきれていないのかもしれないね。あるいは私のように力に歪なところがあるのか……。まあ、泰明くんの式神創造能力がそれだけ優れている証なのかもしれないけど」

 泰明が頭を搔き、律樹が作業の手を休めてにやりと笑った。

「どういうことなのでしょう」と真名が尋ねる。

 答えたのは律樹だった。

「さっき言ったじゃん。〝ふたりは陰陽師〟って。そのとき言ったじゃん。僕は〝式神〟だよって」

 真名がたっぷり五を数えられるほど言葉を失い、目をまん丸にしている。

「そ、そんなこと、聞いてないですよ!!」

 真名の頭の上でスクナが苦笑した。

「本当に賑やかなところじゃ」

 いまのスクナの言い方が先ほどと同じだと気づく。

「ひょっとしてスクナさまも分かってたんですか!?」

「それはそうじゃ」
 と、スクナがあっさりと言った。

「どうして教えてくれなかったんですか」

「見えていると思ったからの」

「ぐっ」それを言われると真名は弱い。律樹がお腹を抱えて笑っていた。

 昭五の言う通り、真名は自分の法力が歪だという自覚はある。陰陽師としてもっとも大事なお祓いや調伏の力が弱いのが最たるものだし、それ以外にも学生生活をなるべく穏便に過ごすために霊的なものを〝感じない〟能力も磨いていた。

「律樹、少し黙れ」

 泰明がそう言って、指を鳴らす。その瞬間だった。まるで動画を一時停止したように、律樹が笑いの表情のままフリーズしている。

「これは……」

 真名が声を発しても律樹は完全に動かなくなっていた。

「律樹は俺が創った式神だ。だから、行きすぎたときには俺がストップをかけられるし、逆にいま以上の力を覚醒させられる。こういう性格の神霊に協力してもらったから、律樹はこんな口の利き方になっているが……」

「すごーい……」と賞賛した真名が、素朴な疑問を口にする。「式神ってもう少しシンプルというか、鳥とか蝶とかそういうのではないのですか?」

 すると昭五が口を挟んできた。

「あー、なるほど。神代さんはそういう式神しか見たことがないのだね」

「ええ」

「現代日本においてはそれだけでも相当な陰陽師だよ。けれども、泰明くんはその上を行っている、ということさ」昭五が動かない律樹の頭を軽く撫で、そのまま五つの机のうち、奥の〝お誕生席〟にあたる場所のデスクに腰を下ろした。「ここ、編集長の私の席ね」

 編集長席の背後には立派な神棚が祀られていた。温かな気配が伝わってくる。きちんと神仏の光が降りている神棚のようだ。

 その光を感じつつも、真名はさらりと泰明とのとんでもない実力差を見せられた気がして、「はあ」としか言えなくなってしまった。

「すごいんですね、倉橋さん」

 泰明が目をすぼめ、やや危険な表情になる。昭五が編集長席の紙束から何かを探そうとしていた。

「それ」

「はい……?」

「〝倉橋さん〟って呼ばれるの、慣れてないんだ。俺のことは、編集長や律樹と一緒で〝泰明〟でいい」

 不意に真名の頰が火照る。女子大、寮生、合コンほぼなしなのだ。久しく男子を下の名前で呼ぶようなことはなく――要するに恥ずかしかった。
 しかし、倉橋家という家の概念で囚われたくないという泰明の気持ちも分かるわけで……。

「え、鋭意努力します」

 羞恥心と緊張とが激しく入り交じった結果、敬礼しながら真名はそう言っていた。

「きみは――」と、泰明が真名の頭からつま先までを眺めて言う。「ずいぶん変わっているんだな」

「いや、そのようなことは……」

「別にいいんじゃないか。変わり者でも。律樹の言葉遣いに失礼なところがあったり、女性への距離感分かってなかったら、いまみたいにフリーズさせるから、俺に言ってくれ」

 泰明がもう一度指を鳴らすと、律樹の一時停止が解除になった。

「のあっ――。いきなり止めるなよ、泰明。止められてても話し声は聞こえるんだからな?」

「聞こえているなら、ちゃんと反省しろ」

 兄弟のように泰明と律樹が言い合っている向こうで、突如、昭五が快哉を挙げた。

「あったあった。ちょっとこっち来てくれるかな、神代さん。あとみんなも」
 と言って昭五が薄い紙束を手にして自分の席を立ち、窓際の大きめのテーブルの椅子に座った。ここだけパソコンなどがない。ちょっとしたミーティングスペースのようだった。

 全員が椅子に座ると、昭五が手にしていた紙束を真名の前に置く。

「編集長、それって」と泰明が言いかけたのを昭五が止めた。

 昭五に促されて、真名がその紙束を覗く。「八王子怪奇スポットのエクソシスト体験談」と題されていた。エクソシスト。降魔師とか祓魔師とか訳されるが、日本で言えば法力を持った陰陽師、密教僧、修験者などがこれに当たるだろう。

「編集長、これは?」
 と真名が尋ねると、曰くありげに昭五がメガネを治した。

「うちは見ての通り少人数でやっている。けれども誌面は一四四ページある。それを三人で毎月書き上げるのはなかなかしんどいんだよ」

「大変そうですね」

 ざっと計算してひとり五〇ページを毎月書くことになる。大学のレポートでも四苦八苦している真名にはちょっと想像つかないレベルだった。

「そのため、外部のライターに協力してもらうときがあるんだ。たいていは、本職の陰陽師や法力を持った他宗のお坊さん、修験者に個人的な伝手で頼んでるんだけどね。だけど、ときどき〝霊能者〟の売り込みがあるんだよ」

「はあ……」

 真名の頭の上でスクナが両手を組み苦い顔をしている。

「霊能力を飯の種にするとは危険な奴じゃ。本職の宗教家が心を磨く修行の末に悟りや信仰心に付随して霊能力を授かるならともかく、霊能力目的の修行は地獄への転落と紙一重じゃぞ」

 スクナの言葉に編集長を除く三人が頷いた。泰明から話を聞いた昭五も珍しく真剣な表情で何度も頷く。

「霊能力は確かに面白いからね。人に見えないものが見えるし、聞こえないものが聞こえる。場合によっては相手に取り憑いている憑依霊とその原因が分かったり、この場にいない人物の動向が分かったりする。――けれども、それはただの入り口に過ぎない、とほとんどの人は知らない」

 昭五の言葉に、泰明が付け加える。

「霊能を面白がっていると、まっとうな天使や菩薩たちの霊指導から、霊力自慢の天狗や霊遊びが好きな仙人の霊指導に変わり、さらに名誉欲や自己顕示欲が膨らんで地獄の亡者が霊能者を乗っ取りに来る。完全にパターンで、そこから逃れるにはひとえに本人の謙虚さと精進につきる。あとは、適切な導師と心を正す教え。――だから、ただの〝霊能者〟というのは意外に危険な立場にあるのは、知っているな?」

「はい」と真名が神妙な表情になった。

 長くなりそうだ、と呟いた律樹が給湯室へ消えた。