恋愛は、バカで欲深く醜い、ベタベタ甘ったるくて気持ち悪いものだ、と彼女は言う。
それが彼女の「恋愛」を嫌悪(けんお)する真相。
でも、本心は違う。口では悪ぶっているけれど、誰かに好かれたいと思っているはず。でなきゃ、あんな甘い曲を毎日聴くわけがない。
「BLACK」は恋愛ソングだ。歌詞を見れば一目瞭然(いちもくりょうぜん)で、あのひとは無意識に求めているはずだ。
ただ「恋愛ごと」に片足を突っ込みたくないのは身内の不正が原因なんだろう。そんな風に壁をつくられてしまえば、それを破壊(はかい)してまで彼女を振り向かせようなんてできない。告白がもし逆効果だったら、俺はもう初夏さんと一緒にはいられないだろう。
重たい。
彼女がまとう壁が厚い。それを壊すほどの度胸が俺にはない。
無邪気に「好きだ」と言えない環境が、重くてめんどくさい。

情けないけれど、どうしても俺は初夏さんと歳が二つ離れているし、彼女が部室に来なくなってもうひと月は経っているし、校舎ですれ違っても目を合わせてくれない。
彼女のためだと思って何もせずにいるのが優しさか。俺はただ、臆病(おくびょう)なだけじゃないか。
重さや壁を壊せないくせに、もどかしさだけは一人前。
名前を呼んで叫びたくなるし、また一緒に買い食いしようとか、写真撮りに行こうとか、部室で話をしようとか、それから……願いは(あふ)れてもなにもしないでいる。

遠くなった春。初めて部室に行った時、誰もいなくてびっくりして帰ろうとしたら、()し目がちの女子が俺を見上げていた。嫌そうに。
「入部?」とふてぶてしく訊いて、彼女はほぼ無言で入部届を差し出してきた。渋々(しぶしぶ)といった様子なのに、案外素直で優しかった。
俺が撮った写真を見る彼女の、メガネのレンズが俺の見た景色を映し出していたことを覚えている。青と白がキレイな夏色の空。それは彼女のお気に入りになったらしく、文化祭の展示は一番大きなフレームに入れてくれた。
うだる夏は汗ばむうなじに見とれた。苦味一〇〇パーセントの冷えたコーヒーを喉に流しても甘さは増すばかり。
そんな短い夏のあとに香ばしい秋。ようやく写真の加工を教えてもらって近くなる。そして、薄れる景色の中で彼女が新たな一面を見せるから思わず怯んだ。
最初から俺は彼女の視線に撃ち抜かれている。
とても、好きだと思える。好きで好きで堪らない。撃ち抜かれて、いまもまだふさがらない。
まったく甘くないのに、苦味しかないのに。
()がれてしまえば渇いて渇いて、砂漠(さばく)のように渇いていく。冷たい風も(あい)まって(すさ)んでいくようだった。本当に俺は彼女のことが好きなのか、それさえも疑ってしまう。
会えなくても我慢できてしまうなんて、そんなの「好き」だと言えるのか。
冬は冷たい。初夏さんのように冷たい。空は(くも)ってばかりで、初夏さんが好きな青は見せてくれない。指のファインダーから見ても色は変わらない。

季節はずれの歌をスマホから垂れ流して、俺は寒い部室で彼女が来るのを待っている。
こうやってもだもだと悩んでいたら、彼女が登場してくれるような、そんな幻想(フィクション)を期待しているんだろう。俺から動かなければ何も始まらないのに。明日で最後なのに。
曲は終わりを告げて、また新たな曲へと移り変わる。次は甘さたっぷりの歌。初夏さんが嫌いだと言っていた歌。

 角砂糖で撃ち抜いて
 溶かせば甘い甘い口当たり
 苦味でごまかさないでくれ

何度も耳に入れた歌。覚えてしまった歌詞を口ずさむ。
苦味でごまかそうとするのは、俺か。
それとも、彼女か。

 ***

彼女が帰る町を知っている。なんとなく、今ならまだ間に合う気がして寒空の中を走った。白い息と、粉砂糖みたいな雪が目の端を横切る。そろそろ街灯が明るくなる頃だ。
会える確証はないけれど、駅まで飛び込んで彼女をひたすらに探していた。
明日から、三年生は学校に来なくなる。会える瞬間はいつでもあったのに、あのひとが(こば)むから会わずにいた。そんな従順(じゅうじゅん)でいなくても良かったはずだ。(あせ)りはどんどん(つの)っていく。

「新里先輩!」

人が増える時間帯。うねる人波をかいくぐって、彼女を探す。
黒のマフラーはあまりにも目立たない。それでも、幾度(いくど)となくあの背中を見てきたから分かる。
この時間ならまだ駅にいるはずだ。距離が近づいた秋、何度も彼女と別れた定刻まであと数分残っている。階段を駆け上がって見回す。
ホームの端っこ。そこにいるはず……いた。
黒のマフラー。そして、空と同じ色のメガネ。

「新里先輩!」

呼んでも彼女は気づいてくれない。
だから、もっと息を吸い込む。

「初夏さん!」

白い息がもくもくと口から飛び出していく。いつか見た入道雲のような白。
それを彼女は見つけてくれた。(けわ)しい眉間(みけん)は相変わらずで、そろそろと怪訝(けげん)にイヤホンを外す。

「どうした、秋雪?」

目立つのが嫌いな人だから、不機嫌になるのは仕方ない。でも、いまは彼女の気持ちより俺のほうを優先したい。
いま告白()わなきゃ後悔する。絶対に。

「すいません。でも、これを逃したらもう会えない気がして」
「はぁ……まぁ、そう、かもだけど」

俺は先輩の顔をのぞき込もうと少しかがんだ。目を見てくれない。近づく俺に、彼女は怯むように一歩下がってしまう。
ブラックコーヒーみたいな黒い瞳は俺を受け付けない。でも、その瞳を甘くさせたい。苦味を好きにならなきゃいけなかったなんて諦めないで欲しい。

「ねぇ、先輩。こっち向いて」
「嫌だ」
「なんで嫌なんですか」
「お前こそ、なんで急に……」

チラリと下向きまつ毛が上を見た。
すかさず初夏さんの冷たい手を握れば、驚きに肩を(ふる)わせる。

「あき、ゆき……」

「俺、本当はずっと初夏さんのことが――」

しかし、その続きは言わせてもらえなかった。空いていたほうの手で彼女は俺の口をふさいでしまう。

「待っ! ちょっと、待って!」

焦りの中に涙目があった。それを見つければ、上がっていた感情や息は止まる。

「言わないで……せっかく、いままで言わせないようにしてきたのに……」

初夏さんはメガネの奥にある濃い色の瞳を潤ませた。
言わせないようにしてきた、なんて。このひとは本当に意地悪だ。

「じゃあ、気づいてたんですね」

小さく訊いてみると、彼女はこくりと(うなず)いた。

「どうしてもダメなんですか」
「ダメだよ……だって、どうしたらいいか分からなくなる」

伝えるのは難しいけれど、受け止めるほうも難しい。
でも、

「……苦味でごまかさないで」

そんなフレーズを出せば、初夏さんは首をかしげた。

「角砂糖で撃ち抜いて。BLACKはごまかしちゃうけど。知ってますよね」
「知ってる、けど」
「ごまかしたいから、甘いほうは嫌いなんでしょ」

彼女は黙り込んで(うつむ)く。俺は呆れの笑いを投げた。
気持ちは急に混ざらない。
だったら、ゆっくり溶かせばいい。まだ溶けきれてないのなら。

「また明日、部室に来てください。明日も明後日も、その次も。卒業しても。俺が卒業するまで」
「……嫌だよ、めんどくさい」

すかさず返ってくる答え。それにはまだ怯えはあるものの、イタズラを含んでいる。
やがて、電車がもうすぐホームへと流れ込んでくる。俺は一歩下がった。

「待ってますからね」

念押しすると、彼女はしかめっ面になる。しつこい、とでも言うように。
でも、電車の中へ足を踏み入れる間際、彼女は小さく消えそうな声で「また、明日」と呟いた。


〈track3:シュガーレス/四ツ谷秋雪 完〉