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今年の梅雨は長く、分厚い雲が開いたらいよいよ夏が始まった。
その前に、あいにくの雨模様だった文化祭が終わった。なにごともなく。そして、我が写真部の写真もまずまずの売上で終わった。
まぁ、用意できた品は初夏さんが撮った風景の写真をフレームにはめ込んだだけのものだったし、そもそも展示がメインだったから、写真が売れても売れなくてもどっちでもいいらしい。
なんと無気力な。もうちょっと年相応にはっちゃければいいのに。
「先輩はどうしてそんなに無気力なんですか」
夏休みも間近な今日、ふと訊いてみると初夏さんは気だるげに「うーん」と考えた。
「常日頃やる気を出してたら疲れてしまうからな」
そして「やる気はテストのときだけでいい」と、はにかんだ。途端に、柔らかな頬にえくぼができる。
それを見れば、俺の息は止まった。心臓に甘さが突き刺さり、熱にうかされたようにぼうっとする。
「秋雪……?」
胸を抑えていると、初夏さんが顔を強張らせる。俺は慌てて手を振った。
「あ、すいません、なんでもないです。ちょっと心臓が痛いだけです」
「それは病気では……大丈夫?」
「マジ大丈夫です。病気じゃないんで」
いや、これは病気だ。恋の病だ。
でも、それを言えば初夏さんは顔を思い切りゆがめて、俺を見てくれなくなるだろう。心配そうに見てくれているいまこの瞬間を失言ごときで失いたくない。
「そう……じゃあ、いいけど」
あぁ、もう終わりかよ。
初夏さんは参考書に目を落とすと、数学の問題を解くことに専念した。
しかし、すぐにシャープペンの音は止まる。初夏さんはシャープペンを転がしていた。ノートの端まで転がして、止まればまだ転がす。じゃれる猫みたい。
「――新里先輩」
堪らず声をかけると、彼女はハッと顔を上げた。
「なに?」
「いや、集中した方がいいと思って。模試、もうすぐじゃないですか」
「まぁ……でも、こう暑いとやってられなくて。それに、」
少し、言葉を切る。
彼女は窓の外を見つめた。メガネに入道雲が映っている。
「こんなにキレイな青と白、海や山で見たらもっとキレイなんだろうなぁって」
そう言って彼女は指でファインダーを作る。切り取られた青空は、たとえ都会の電柱や排気ガスが写り込んでも画になる。
それを黙って見ていると、彼女は我にかえってこちらを見た。指がパッと離れていく。そして気まずそうに咳払いした。
「おい、秋雪」
「はい」
「コーヒー、買ってこい」
「ブラックですか?」
訊いてみると、彼女は面食らったのか瞬きを二回。
「……うん」
「買ってきます」
なんで知ってるの?とでも言いたそうな顔だ。
今までに一度もブラックコーヒーが好きだとは話をしていないから、どうして俺が知っているのか困惑しているに違いない。
別に確証はない。でも、先輩が甘ったるいカフェオレを飲む様子が想像できなくて、なんとなくそうだと思ったんだよ。
***
自販機は部室棟から離れた中庭の売店にある。ブラックコーヒーの缶を選択。
俺のぶんも買う。コーヒーは飲めないけど、飲めるように練習中だからちょうどいい。
冷たい缶を両手に握り、足を速めた。
軽い足取りはリズムを刻むようで楽しい。初夏さんがよく聴いてるバンド「BreeZe」の曲、確か「BLACK」っていう曲が頭をよぎる。
真夏のブルーがとろりとろり
甘すぎちゃってめまいがするから
ぼくはブラックでごまかして
「ごまかして……なんだっけ?」
サビだけは知ってるんだけどな。最近テレビで流れるCM曲だし。それにこれは、初夏さんが一番好きな曲。ネットで配信しているから俺もスマホに入れておいた。まだ覚えてないけど、なんだか爽やかな曲だった。
ロックバンドってあんまり聴かないけど、あのサウンドは耳に心地いい。夏らしく、ポップで明るめな音だからか。ポン、ポンと弾けるような音を思い出し、鼻歌交じりに部室へ急ぐ。
ドアを開けると、窓の桟に腕を置いて気だるげに空を眺める初夏さんが目に飛び込んできた。
セーラー服の襟にかかっていた髪の毛は無造作に束ねてあり、くるんとお団子に結い上げている。ちょろりと伸びたうなじの毛が首に張り付いていた。それを見れば思わず、喉をゴクリと鳴らしてしまう。
「――あ、おかえり」
彼女は耳につけていたイヤホンを外した。ジャカジャカとギターの音が漏れている。彼女は慌ててスマホを停止した。
俺なんか無視して音楽を聴いていればいいのに。いつものように。無防備な顔が見たいから、ついそんなことを考えてしまう。
初夏さんは、ぶっきらぼうに手のひらを俺に向けた。
「おつかいご苦労」
「いえ」
よく冷えた缶を手渡し、俺も自分のを開ける。香ばしく苦いものが鼻を突けば、なんだかくしゃみが出てきそうだった。それをぐっと堪える。
「あれ、秋雪もブラック飲むんだ」
「まあね、コーヒーはブラックに限りますよ」
「……そんな不味そうな顔してよく言えたな」
彼女はからかうように、口の端をニヤリと持ち上げる。そして、涼しげにコーヒーを飲んだ。
「これの何が不味いんだか」
「苦いからだと思うんですけどねぇ」
舌に残る苦味に顔をしかめて返すと、彼女はフンと鼻を鳴らした。
それきり部室が静まり、寂しくなる。
だから俺は先ほど、頭をよぎった歌を鼻で鳴らしてみた。歌詞は分からないから音だけで。
――真夏のブルーがとろりとろり、甘すぎちゃってめまいがするから
「え、なんでその歌、知ってるの」
初夏さんが俺を凝視して訊く。俺はふざけて肩をすくめた。
「そりゃ、だってCM曲だし。コーヒーのCM」
「あ……あぁ、そうだったっけ」
動揺を隠しきれない初夏さんは目を泳がせて俺から顔を背けた。そんなに恥ずかしいのか。
「歌詞の続き、教えてくださいよ」
意地悪に言ってみると、彼女は「はぁ?」と声を上げる。
おお、そんな風に驚くんだ。
慌てふためく彼女は「知らない」と耳にイヤホンを差し込んでしまう。
隣で一緒に聴いちゃダメかなぁ……ダメだろうなぁ。
歌詞の続きも知りたいし、なんでブラックが好きなのかも聞きたいし、今どうしてそんなに動揺しているのか、その理由も知りたい。知りたくて堪らない。でも、まだ許してはくれないんだろう。いまだに俺たちは、この部室以外じゃ他人だから。
残っていた苦味はいつの間にか溶けていた。
今年の梅雨は長く、分厚い雲が開いたらいよいよ夏が始まった。
その前に、あいにくの雨模様だった文化祭が終わった。なにごともなく。そして、我が写真部の写真もまずまずの売上で終わった。
まぁ、用意できた品は初夏さんが撮った風景の写真をフレームにはめ込んだだけのものだったし、そもそも展示がメインだったから、写真が売れても売れなくてもどっちでもいいらしい。
なんと無気力な。もうちょっと年相応にはっちゃければいいのに。
「先輩はどうしてそんなに無気力なんですか」
夏休みも間近な今日、ふと訊いてみると初夏さんは気だるげに「うーん」と考えた。
「常日頃やる気を出してたら疲れてしまうからな」
そして「やる気はテストのときだけでいい」と、はにかんだ。途端に、柔らかな頬にえくぼができる。
それを見れば、俺の息は止まった。心臓に甘さが突き刺さり、熱にうかされたようにぼうっとする。
「秋雪……?」
胸を抑えていると、初夏さんが顔を強張らせる。俺は慌てて手を振った。
「あ、すいません、なんでもないです。ちょっと心臓が痛いだけです」
「それは病気では……大丈夫?」
「マジ大丈夫です。病気じゃないんで」
いや、これは病気だ。恋の病だ。
でも、それを言えば初夏さんは顔を思い切りゆがめて、俺を見てくれなくなるだろう。心配そうに見てくれているいまこの瞬間を失言ごときで失いたくない。
「そう……じゃあ、いいけど」
あぁ、もう終わりかよ。
初夏さんは参考書に目を落とすと、数学の問題を解くことに専念した。
しかし、すぐにシャープペンの音は止まる。初夏さんはシャープペンを転がしていた。ノートの端まで転がして、止まればまだ転がす。じゃれる猫みたい。
「――新里先輩」
堪らず声をかけると、彼女はハッと顔を上げた。
「なに?」
「いや、集中した方がいいと思って。模試、もうすぐじゃないですか」
「まぁ……でも、こう暑いとやってられなくて。それに、」
少し、言葉を切る。
彼女は窓の外を見つめた。メガネに入道雲が映っている。
「こんなにキレイな青と白、海や山で見たらもっとキレイなんだろうなぁって」
そう言って彼女は指でファインダーを作る。切り取られた青空は、たとえ都会の電柱や排気ガスが写り込んでも画になる。
それを黙って見ていると、彼女は我にかえってこちらを見た。指がパッと離れていく。そして気まずそうに咳払いした。
「おい、秋雪」
「はい」
「コーヒー、買ってこい」
「ブラックですか?」
訊いてみると、彼女は面食らったのか瞬きを二回。
「……うん」
「買ってきます」
なんで知ってるの?とでも言いたそうな顔だ。
今までに一度もブラックコーヒーが好きだとは話をしていないから、どうして俺が知っているのか困惑しているに違いない。
別に確証はない。でも、先輩が甘ったるいカフェオレを飲む様子が想像できなくて、なんとなくそうだと思ったんだよ。
***
自販機は部室棟から離れた中庭の売店にある。ブラックコーヒーの缶を選択。
俺のぶんも買う。コーヒーは飲めないけど、飲めるように練習中だからちょうどいい。
冷たい缶を両手に握り、足を速めた。
軽い足取りはリズムを刻むようで楽しい。初夏さんがよく聴いてるバンド「BreeZe」の曲、確か「BLACK」っていう曲が頭をよぎる。
真夏のブルーがとろりとろり
甘すぎちゃってめまいがするから
ぼくはブラックでごまかして
「ごまかして……なんだっけ?」
サビだけは知ってるんだけどな。最近テレビで流れるCM曲だし。それにこれは、初夏さんが一番好きな曲。ネットで配信しているから俺もスマホに入れておいた。まだ覚えてないけど、なんだか爽やかな曲だった。
ロックバンドってあんまり聴かないけど、あのサウンドは耳に心地いい。夏らしく、ポップで明るめな音だからか。ポン、ポンと弾けるような音を思い出し、鼻歌交じりに部室へ急ぐ。
ドアを開けると、窓の桟に腕を置いて気だるげに空を眺める初夏さんが目に飛び込んできた。
セーラー服の襟にかかっていた髪の毛は無造作に束ねてあり、くるんとお団子に結い上げている。ちょろりと伸びたうなじの毛が首に張り付いていた。それを見れば思わず、喉をゴクリと鳴らしてしまう。
「――あ、おかえり」
彼女は耳につけていたイヤホンを外した。ジャカジャカとギターの音が漏れている。彼女は慌ててスマホを停止した。
俺なんか無視して音楽を聴いていればいいのに。いつものように。無防備な顔が見たいから、ついそんなことを考えてしまう。
初夏さんは、ぶっきらぼうに手のひらを俺に向けた。
「おつかいご苦労」
「いえ」
よく冷えた缶を手渡し、俺も自分のを開ける。香ばしく苦いものが鼻を突けば、なんだかくしゃみが出てきそうだった。それをぐっと堪える。
「あれ、秋雪もブラック飲むんだ」
「まあね、コーヒーはブラックに限りますよ」
「……そんな不味そうな顔してよく言えたな」
彼女はからかうように、口の端をニヤリと持ち上げる。そして、涼しげにコーヒーを飲んだ。
「これの何が不味いんだか」
「苦いからだと思うんですけどねぇ」
舌に残る苦味に顔をしかめて返すと、彼女はフンと鼻を鳴らした。
それきり部室が静まり、寂しくなる。
だから俺は先ほど、頭をよぎった歌を鼻で鳴らしてみた。歌詞は分からないから音だけで。
――真夏のブルーがとろりとろり、甘すぎちゃってめまいがするから
「え、なんでその歌、知ってるの」
初夏さんが俺を凝視して訊く。俺はふざけて肩をすくめた。
「そりゃ、だってCM曲だし。コーヒーのCM」
「あ……あぁ、そうだったっけ」
動揺を隠しきれない初夏さんは目を泳がせて俺から顔を背けた。そんなに恥ずかしいのか。
「歌詞の続き、教えてくださいよ」
意地悪に言ってみると、彼女は「はぁ?」と声を上げる。
おお、そんな風に驚くんだ。
慌てふためく彼女は「知らない」と耳にイヤホンを差し込んでしまう。
隣で一緒に聴いちゃダメかなぁ……ダメだろうなぁ。
歌詞の続きも知りたいし、なんでブラックが好きなのかも聞きたいし、今どうしてそんなに動揺しているのか、その理由も知りたい。知りたくて堪らない。でも、まだ許してはくれないんだろう。いまだに俺たちは、この部室以外じゃ他人だから。
残っていた苦味はいつの間にか溶けていた。