二月に入れば寒空が続いた。かじかむ指を温めながら、私は美術準備室の隅っこでデッサンの練習をしている。クロッキー帳に埋まる黒の濃淡に意識を向けていれば気が紛れた。
美大への切符を手にして、私は優月のいない日々を淡々と過ごしている。
右隣にはいつも彼がいたけれど、あの日を境に彼とは連絡を取っていない。
でも、声だけは毎日聴いている。
今日は水曜日だから、お昼のラジオ当番が優月だった。おすすめの曲を流して、そのあとには学校内トピックス、生徒会をゲストに迎えてのトーク、最近は三年生を送る回のイベント情報を発信している。そんな本格さながらのラジオ番組もそろそろ聴きおさめだ。
金曜日の放課後、優月の声を聴く最後となる。
翌週、月曜日の登校が最終日。三年生は卒業式まで学校には来ないから、本物のお別れへのカウントダウンが迫っていた。
『ではでは、そろそろ5限が始まります。皆さん、今日も残すところ三時間! 睡魔に襲われないようにお気をつけて。ここまでのお相手は放送部副部長、新里優月でした』
軽快な声が段々とスローになっていく。優月のクセだ。最後のあいさつは優しく語るような口調。幾度となく聴いて覚えてしまった音。
あぁ、もっと聴いていたかったと名残惜しい余韻に呆然としてしまう。
「終わっちゃった……」
呟くと同時に、ぼんやりとチャイムが鳴る。私は慌ててクロッキー帳を閉じた。
結局、彼にきちんと伝えていない。
「優月のことは大切だけど、夢を諦めることはできないから、お願いだから分かって」なんて言える勇気がない。
このまま通り過ぎて、二度と会わないようにしてしまおうか。でも「さよなら」くらい、きちんと顔を見て言いたかった。
それも叶うことはないだろうし、優月を不幸にしておいて願うのはおこがましいと思う。
だから、このままでいよう。
金曜日を最後に、私は優月への思いを過去にする――
***
『――ハロー、ハロー! 放課後ラジオのお時間ですよー。あれ? 今日の担当違くない!? って思った人は何人いるかなぁ? 今日はですねぇ、金曜担当の新里くんが風邪でダウンしちゃいまして。代わりに月曜担当の早瀬がお送りしてまーす!』
リズミカルなバックサウンドに乗って聴こえたのは、元気のいい女の子の声だった。
「あらら。最後の放送、聴けずじまいだったねぇ……」
部室でデッサンをしていると、理子が隣で絵の具を用意しながら呟いた。
「どうすんの、真白」
「どうするって、何が……」
理子には話していない。それなのに、察したような神妙な目つきで私を見ている。
「優月くんのこと。このまま放置してていいの? 会ってないんでしょ?」
まぁ、何があったのか知らないけどさ、と彼女は呆れたように呟いた。
「どうするもこうするも……もう会わないつもりだし」
私の声は言い訳がましい。自分から絶っておいて。
すると、理子が眉をひそめた。
「あれか。大学、県外に行くの反対してんだ。優月くんは」
「う、うん……」
「はぁー、なるほどねぇ。あの子、わがままだもんねぇ。ちょっと重いって言うかさ」
理子の口は止まらない。
「男ならビシッとキメて『行ってこいよ』くらい言えなきゃダメよね」
待って。そんな風に言わないで。
「彼女の夢を応援出来ないなら、もうこのままにしておいても……」
「やめて!」
思わず叫んでいた。理子は目を丸くして口を閉じる。後から来た後輩たちも何事かと首を伸ばしている。
私は鼻の頭が熱くなって、すぐにうつむいた。
「……好きなら、行ってくればいいじゃない」
しばらくして理子がため息混じりに言った。目線を上げると、彼女は肩をすくめて苦笑している。
「泣くほど会いたいなら会ってきなよ。で、ちゃんと挨拶しな」
「泣いてなんか……」
強がってはみたけれど、気が緩んでしまえばポロッと涙が一筋落ちてしまった。あぁ、もう。格好つかないなぁ。鼻をすすって、涙を拭って、クロッキー帳を閉じる。
「……先、帰るね」
「うん。おつかれー」
理子はあったかい手で背中を押してくれた。
***
走ってマンションまで帰ってきたものの、私はどうしても優月の家があるフロアに足を踏み入れるのが怖かった。
もう一ヶ月以上、顔を見てない。話をしていない。
逃げてしまった私を許してはくれないだろう。でも、きちんと会って話したい。さよならの理由を説明してわかってもらいたい。
それなのに、どうして足がすくむんだろう……
「あれ? 真白?」
背後から声がして振り向けば、眼鏡をくもらせた黒のマフラーがいる。優月のお姉さんである初夏ちゃんだった。
「久しぶり。もしかして、優月の見舞い?」
相変わらず口調が冷たい。
近づく初夏ちゃんに、私はまっすぐ顔を見ることが出来ない。こくりとうなずけば、彼女は「うーん、そっか」と訳知り顔で微笑んだ。
「会ってく?」
「いや、あの……やっぱり、会えない……」
あぁ、もう。なんでこんなに臆病なの。自分が嫌になっていく。
「でも、伝えてもらえますか……その、私、ゆづのこと、本当は大切だからって」
あぁ、もう。言う相手が違うのに。口が勝手に初夏ちゃんを頼ってしまう。
「いいよ。伝えとく」
初夏ちゃんは面倒そうにも優しげに苦笑した。私は情けなく「お願いします!」と言って逃げる。
結局、私は何も変われないし何も伝えられない。時間は刻一刻と迫っているのに、いつまでグズグズしているんだろう。
風が責め立てるように吹きすさぶ。その冷たさからも逃げようと、家の中へ駆け込んだ。
美大への切符を手にして、私は優月のいない日々を淡々と過ごしている。
右隣にはいつも彼がいたけれど、あの日を境に彼とは連絡を取っていない。
でも、声だけは毎日聴いている。
今日は水曜日だから、お昼のラジオ当番が優月だった。おすすめの曲を流して、そのあとには学校内トピックス、生徒会をゲストに迎えてのトーク、最近は三年生を送る回のイベント情報を発信している。そんな本格さながらのラジオ番組もそろそろ聴きおさめだ。
金曜日の放課後、優月の声を聴く最後となる。
翌週、月曜日の登校が最終日。三年生は卒業式まで学校には来ないから、本物のお別れへのカウントダウンが迫っていた。
『ではでは、そろそろ5限が始まります。皆さん、今日も残すところ三時間! 睡魔に襲われないようにお気をつけて。ここまでのお相手は放送部副部長、新里優月でした』
軽快な声が段々とスローになっていく。優月のクセだ。最後のあいさつは優しく語るような口調。幾度となく聴いて覚えてしまった音。
あぁ、もっと聴いていたかったと名残惜しい余韻に呆然としてしまう。
「終わっちゃった……」
呟くと同時に、ぼんやりとチャイムが鳴る。私は慌ててクロッキー帳を閉じた。
結局、彼にきちんと伝えていない。
「優月のことは大切だけど、夢を諦めることはできないから、お願いだから分かって」なんて言える勇気がない。
このまま通り過ぎて、二度と会わないようにしてしまおうか。でも「さよなら」くらい、きちんと顔を見て言いたかった。
それも叶うことはないだろうし、優月を不幸にしておいて願うのはおこがましいと思う。
だから、このままでいよう。
金曜日を最後に、私は優月への思いを過去にする――
***
『――ハロー、ハロー! 放課後ラジオのお時間ですよー。あれ? 今日の担当違くない!? って思った人は何人いるかなぁ? 今日はですねぇ、金曜担当の新里くんが風邪でダウンしちゃいまして。代わりに月曜担当の早瀬がお送りしてまーす!』
リズミカルなバックサウンドに乗って聴こえたのは、元気のいい女の子の声だった。
「あらら。最後の放送、聴けずじまいだったねぇ……」
部室でデッサンをしていると、理子が隣で絵の具を用意しながら呟いた。
「どうすんの、真白」
「どうするって、何が……」
理子には話していない。それなのに、察したような神妙な目つきで私を見ている。
「優月くんのこと。このまま放置してていいの? 会ってないんでしょ?」
まぁ、何があったのか知らないけどさ、と彼女は呆れたように呟いた。
「どうするもこうするも……もう会わないつもりだし」
私の声は言い訳がましい。自分から絶っておいて。
すると、理子が眉をひそめた。
「あれか。大学、県外に行くの反対してんだ。優月くんは」
「う、うん……」
「はぁー、なるほどねぇ。あの子、わがままだもんねぇ。ちょっと重いって言うかさ」
理子の口は止まらない。
「男ならビシッとキメて『行ってこいよ』くらい言えなきゃダメよね」
待って。そんな風に言わないで。
「彼女の夢を応援出来ないなら、もうこのままにしておいても……」
「やめて!」
思わず叫んでいた。理子は目を丸くして口を閉じる。後から来た後輩たちも何事かと首を伸ばしている。
私は鼻の頭が熱くなって、すぐにうつむいた。
「……好きなら、行ってくればいいじゃない」
しばらくして理子がため息混じりに言った。目線を上げると、彼女は肩をすくめて苦笑している。
「泣くほど会いたいなら会ってきなよ。で、ちゃんと挨拶しな」
「泣いてなんか……」
強がってはみたけれど、気が緩んでしまえばポロッと涙が一筋落ちてしまった。あぁ、もう。格好つかないなぁ。鼻をすすって、涙を拭って、クロッキー帳を閉じる。
「……先、帰るね」
「うん。おつかれー」
理子はあったかい手で背中を押してくれた。
***
走ってマンションまで帰ってきたものの、私はどうしても優月の家があるフロアに足を踏み入れるのが怖かった。
もう一ヶ月以上、顔を見てない。話をしていない。
逃げてしまった私を許してはくれないだろう。でも、きちんと会って話したい。さよならの理由を説明してわかってもらいたい。
それなのに、どうして足がすくむんだろう……
「あれ? 真白?」
背後から声がして振り向けば、眼鏡をくもらせた黒のマフラーがいる。優月のお姉さんである初夏ちゃんだった。
「久しぶり。もしかして、優月の見舞い?」
相変わらず口調が冷たい。
近づく初夏ちゃんに、私はまっすぐ顔を見ることが出来ない。こくりとうなずけば、彼女は「うーん、そっか」と訳知り顔で微笑んだ。
「会ってく?」
「いや、あの……やっぱり、会えない……」
あぁ、もう。なんでこんなに臆病なの。自分が嫌になっていく。
「でも、伝えてもらえますか……その、私、ゆづのこと、本当は大切だからって」
あぁ、もう。言う相手が違うのに。口が勝手に初夏ちゃんを頼ってしまう。
「いいよ。伝えとく」
初夏ちゃんは面倒そうにも優しげに苦笑した。私は情けなく「お願いします!」と言って逃げる。
結局、私は何も変われないし何も伝えられない。時間は刻一刻と迫っているのに、いつまでグズグズしているんだろう。
風が責め立てるように吹きすさぶ。その冷たさからも逃げようと、家の中へ駆け込んだ。