チューニングが上手くいかないから、私はため息を吐いて諦めた。指が痛い。首も固まっている。
びぃぃぃぃん。ベースギターの重たく低い音を聞いていると、今の私の気分と同じようで余計に気が滅入った。
はぁ。
二つ目のため息。意味のないため息がぽっかりと浮かぶ。天井を見上げると、骨がうずいた。
すると、部室の扉がガラリと開いた。体を曲げて入ってくるのは長身男子、若部雫。私の姿を見るなり、平坦な無表情で片手をあげてくる。
「よぉ、郁音」
「んー……」
短い返事をしながら、彼の耳たぶで光る青いピアスをじっと睨んだ。うらめしく、じいっと。
その視線に気づいたのか、彼は「ん?」ととぼけた顔を向けてくる。
「どうした?」
「どうもしてない」
「え? あれ? 今日、なんか元気なくない?」
なにをどうして、どうやったらそんな解を導き出したんだろう。
私はこの不機嫌を悟られないように、ベースへ目を落とした。
「えーっと……別に、そんなことはない、けど?」
慌てて目をそらしても、青いピアスの残像が残っている。
これはきっと、未練だ。
「あれ? 麟はまだ来てねぇの?」
言いながら雫はカバンを棚の上に放ると、持っていた紙パックのジュースをじゅるじゅる音を立てて飲む。
それを無視して、私は相棒であるベースの赤いボディをなで、もう一度ヴォリュームを変えてチューニングした。
今度は「じぃぃぃん」と空気が震えて音が揺れた。それを何度も繰り返して……
「なぁ――いく――」
突然、静かな雫の声が音の合間に入る。
「お前さ――俺のこと、好きだった?」
じぃぃぃん。反響する音の中にその言葉。
聴かなければよかったのに聴こえてしまった。途端に冷たい風が吹きすさぶような感覚に襲われ、私は床へパタリと突っ伏した。
「え!? おい、大丈夫か、郁音!」
ジュースのパックを放り投げる雫。大げさに慌てふためいてやんの。はは、ざまーみろ……はぁ。
私は雫に「はははー」とかわいた笑いを投げつけてやった。
私は雫が好きだった。うん、好きだったのよ。本当に。
今度の文化祭でライブが成功したら告白しようと思ってた、のに……
昼休み、購買部の裏にあるゴミ箱へ向かった時、偶然見てしまった。高身長男子と笑顔がかわいい後輩女子が仲睦まじく話している現場を。彼の青いピアスを見た瞬間に雫だと分かった。
なんだろう。あの甘ったるい空気。言葉にするのも恥ずかしいくらい異常な仲の良さで親密で……たまらず逃げ出した。
「あー、やっぱりそうだったんだ。なんか知ってる後ろ姿が見えたからさぁ。ほんと申し訳ない」
ベースを抱いて寝転がった私を、雫が苦々しく見下ろす。
え? イケメン気取りですか? なに勘違いしてんの、バカ野郎。と言ってやっても良かったけど、瞬時に罵声を飛ばす能力は私にはなかった。
あの時、彼も気づいたんだろう。でなきゃ、こんな話しない。確信を持って話しかけているわけで、ますます恥ずかしくなってくる。ちくしょう。
「そうですよ。あれはそういうことですよ。なによ、文句あるの?」
「いや、文句はないけど」
雫は申し訳なさそうに苦笑した。黒縁眼鏡の奥の目がやんわり柔らかくなって頼りない。
「ごめんなぁ。まさか、郁音が俺のことをそう思ってくれてるとは思わず」
それを見ると、鼻の奥がつうんと痛んできた。
最悪。こんな恥ずかしいシチュエーション、他にある? ないでしょ。ダッサ。
雫の顔なんかまともに見られない。
私は顔を覆った。
「初恋だったのにぃー」
「うわぁ、ほんとごめん。お詫びにジュースおごるわ」
「いらないし。バーカ、あっち行け。お前の顔なんか見たくない。やだ。待って、今の嘘。顔は見たい」
「なんだよ、それ。情緒不安定か」
そりゃ情緒も不安定になるに決まってる。初恋だったんだから。
ジュースじゃなくて雫がいい、とは言えず。
ベースを抱きしめたまま、私はしばらく嘆きの唸り声を上げていた。その度に雫が気まずく笑う。少しくらい困らせたってバチは当たらないだろう。何せ、初めての失恋なんだから。
「参ったな……これ、麟に知れたら解散ってなりそう」
雫は弱ったように、ため息まじりに呟く。
麟――我が軽音部バンド「BreeZe」のリーダーはいまだ部室の狭いスタジオに現れない。
そいつが掲げた部活内ルールの一つが、
「部内恋愛禁止、だもんね」
「まぁ、付き合ってないけどな、俺ら」
「告る前に玉砕だもんねー。ダッセー。私、超ダッセー」
「……そう言うなって」
雫はますます困惑し、黙り込んでしまった。
あーもう。
彼を責める資格は私にはない。それに、ショックというか、気まずさが強い。そしてのし掛かる後悔に押しつぶされそう。あのとき、言ってたら。もうちょっと早く言ってれば。でも、いまさらそんな「たられば」を繰り返して悔やんだって時間は元に戻らないのだ。
それに、うちの部はもともと「部内恋愛禁止」。
おそらく、麟は解散しないためにこのルールを作ったんだろう。彼女ができないから、モテないからとか、そういう理由じゃない……と信じたい。
「……じゃあ、俺たちだけの秘密にしよっか」
雫は引きつった笑みをつくり、人差し指を立てる。私もつられて笑う。
「そーだねー」
ははは。大して嬉しくない秘密だなぁ。あーあ、墓まで持っていくしかない。
そんな協定を結んでいると部室のドアがバターンと大きく開かれた。
「おい、お前ら! ちょっと相談がある!」
勢いよく声を上げる部長、麟のお出ましだ。
雫はうるさそうに耳に指を突っ込む。私は寝転んだまま。しかし、麟は私たちの気まずさを一切読み取らない。
「相談?」
雫がけだるげに言う。すると、麟はルーズリーフに書きなぐった文字をずいっと見せてきた。
「詞が浮かばん!」
「ほらな、言ったろ。もう既存の曲かければ良くない? 今から新曲作っても間に合わんだろ。音合わせるのだって時間かかるし、どうせやるなら最高の音でやりたいし」
雫が腕を組んで冷ややかに言う。たちまち麟は萎縮して「ハイ」と返す。
「で、でもさ! 高校最後なんだし、やっぱ爪痕残しときたいだろ?」
麟の必死な言い分。分からなくはない。
「まぁねぇ……毎年、大成功だしねぇ」
私が言えば、麟の顔に笑顔が花開く。
「だろ!? 『Shooting Star』を超える詞を作りたいじゃん!」
「だとしても間に合わない」
雫がピシャリと言った。こっちの言い分も分からなくはない。
でも、雫だって新曲がいいに決まってる。
やがて彼はため息をついて詞を読んだ。私ものっそり起き上がって読む。
タイトルは「ミズイロ炭酸水」。シュワッと弾けそうな爽やかでポップなメロディを想像する、けど……
「え、待って、麟。これって、まさか」
一通り読んだ雫が目を開く。
「お前、恋愛系の曲作るのか」
雫が言ったと同時に私も「えー!」と思わず声を上げた。
一方、麟は「そうだよ」とあっさり。丸いストレートの髪の毛をぐしゃぐしゃと掻き上げて顔を歪ませる。
「でも、なんかこう、これだ! っていう感覚がなくてさぁ……これでいいのか」
「よくねぇよ。『君が飲んだラムネを飲みたくなった』ってなんだよ。いやぁ、ダメだわ。クソみたいなポエム並べやがって」
「うっ」
麟はまるでお腹を殴られたように呻いた。途端に弱々しくなっていく。
「恋愛したことないくせに背伸びすんなよ」
「でも! なんか書きたいなって思ったんだよ……今まで書いたことないし。挑戦、というか」
「経験してからにしろ」
それはごもっともだ。雫の言う通り、麟は恋愛経験ゼロ。青春を書くのは得意だけど、それ以外は一度も書いたことがない。
どうするつもりだろう……訝っていると麟はポンと手を打った。そして、人差し指で雫の眼鏡を刺す。
「よし! それじゃあ恋愛してやる。三日だけ!」
「三日……」
呆れた。たかが三日で恋をするとは、二年片思いして今日フラれた私を舐めている。
もう構っていられない。チューニングを再開しよう。今日はどうにも調子が悪いのだ。私も、ベースも。
じぃぃぃん……音が鳴る。その隙間に麟の元気な声が入り込んできた。
「郁音! お前、オレの彼女をやれ」
聴かなければよかったのに、聴こえてしまった。
「は?」
返した声は冷たかっただろう。しかし、麟は私の感情など眼中になく、大層意気込んでいる。
びぃぃぃぃん。ベースギターの重たく低い音を聞いていると、今の私の気分と同じようで余計に気が滅入った。
はぁ。
二つ目のため息。意味のないため息がぽっかりと浮かぶ。天井を見上げると、骨がうずいた。
すると、部室の扉がガラリと開いた。体を曲げて入ってくるのは長身男子、若部雫。私の姿を見るなり、平坦な無表情で片手をあげてくる。
「よぉ、郁音」
「んー……」
短い返事をしながら、彼の耳たぶで光る青いピアスをじっと睨んだ。うらめしく、じいっと。
その視線に気づいたのか、彼は「ん?」ととぼけた顔を向けてくる。
「どうした?」
「どうもしてない」
「え? あれ? 今日、なんか元気なくない?」
なにをどうして、どうやったらそんな解を導き出したんだろう。
私はこの不機嫌を悟られないように、ベースへ目を落とした。
「えーっと……別に、そんなことはない、けど?」
慌てて目をそらしても、青いピアスの残像が残っている。
これはきっと、未練だ。
「あれ? 麟はまだ来てねぇの?」
言いながら雫はカバンを棚の上に放ると、持っていた紙パックのジュースをじゅるじゅる音を立てて飲む。
それを無視して、私は相棒であるベースの赤いボディをなで、もう一度ヴォリュームを変えてチューニングした。
今度は「じぃぃぃん」と空気が震えて音が揺れた。それを何度も繰り返して……
「なぁ――いく――」
突然、静かな雫の声が音の合間に入る。
「お前さ――俺のこと、好きだった?」
じぃぃぃん。反響する音の中にその言葉。
聴かなければよかったのに聴こえてしまった。途端に冷たい風が吹きすさぶような感覚に襲われ、私は床へパタリと突っ伏した。
「え!? おい、大丈夫か、郁音!」
ジュースのパックを放り投げる雫。大げさに慌てふためいてやんの。はは、ざまーみろ……はぁ。
私は雫に「はははー」とかわいた笑いを投げつけてやった。
私は雫が好きだった。うん、好きだったのよ。本当に。
今度の文化祭でライブが成功したら告白しようと思ってた、のに……
昼休み、購買部の裏にあるゴミ箱へ向かった時、偶然見てしまった。高身長男子と笑顔がかわいい後輩女子が仲睦まじく話している現場を。彼の青いピアスを見た瞬間に雫だと分かった。
なんだろう。あの甘ったるい空気。言葉にするのも恥ずかしいくらい異常な仲の良さで親密で……たまらず逃げ出した。
「あー、やっぱりそうだったんだ。なんか知ってる後ろ姿が見えたからさぁ。ほんと申し訳ない」
ベースを抱いて寝転がった私を、雫が苦々しく見下ろす。
え? イケメン気取りですか? なに勘違いしてんの、バカ野郎。と言ってやっても良かったけど、瞬時に罵声を飛ばす能力は私にはなかった。
あの時、彼も気づいたんだろう。でなきゃ、こんな話しない。確信を持って話しかけているわけで、ますます恥ずかしくなってくる。ちくしょう。
「そうですよ。あれはそういうことですよ。なによ、文句あるの?」
「いや、文句はないけど」
雫は申し訳なさそうに苦笑した。黒縁眼鏡の奥の目がやんわり柔らかくなって頼りない。
「ごめんなぁ。まさか、郁音が俺のことをそう思ってくれてるとは思わず」
それを見ると、鼻の奥がつうんと痛んできた。
最悪。こんな恥ずかしいシチュエーション、他にある? ないでしょ。ダッサ。
雫の顔なんかまともに見られない。
私は顔を覆った。
「初恋だったのにぃー」
「うわぁ、ほんとごめん。お詫びにジュースおごるわ」
「いらないし。バーカ、あっち行け。お前の顔なんか見たくない。やだ。待って、今の嘘。顔は見たい」
「なんだよ、それ。情緒不安定か」
そりゃ情緒も不安定になるに決まってる。初恋だったんだから。
ジュースじゃなくて雫がいい、とは言えず。
ベースを抱きしめたまま、私はしばらく嘆きの唸り声を上げていた。その度に雫が気まずく笑う。少しくらい困らせたってバチは当たらないだろう。何せ、初めての失恋なんだから。
「参ったな……これ、麟に知れたら解散ってなりそう」
雫は弱ったように、ため息まじりに呟く。
麟――我が軽音部バンド「BreeZe」のリーダーはいまだ部室の狭いスタジオに現れない。
そいつが掲げた部活内ルールの一つが、
「部内恋愛禁止、だもんね」
「まぁ、付き合ってないけどな、俺ら」
「告る前に玉砕だもんねー。ダッセー。私、超ダッセー」
「……そう言うなって」
雫はますます困惑し、黙り込んでしまった。
あーもう。
彼を責める資格は私にはない。それに、ショックというか、気まずさが強い。そしてのし掛かる後悔に押しつぶされそう。あのとき、言ってたら。もうちょっと早く言ってれば。でも、いまさらそんな「たられば」を繰り返して悔やんだって時間は元に戻らないのだ。
それに、うちの部はもともと「部内恋愛禁止」。
おそらく、麟は解散しないためにこのルールを作ったんだろう。彼女ができないから、モテないからとか、そういう理由じゃない……と信じたい。
「……じゃあ、俺たちだけの秘密にしよっか」
雫は引きつった笑みをつくり、人差し指を立てる。私もつられて笑う。
「そーだねー」
ははは。大して嬉しくない秘密だなぁ。あーあ、墓まで持っていくしかない。
そんな協定を結んでいると部室のドアがバターンと大きく開かれた。
「おい、お前ら! ちょっと相談がある!」
勢いよく声を上げる部長、麟のお出ましだ。
雫はうるさそうに耳に指を突っ込む。私は寝転んだまま。しかし、麟は私たちの気まずさを一切読み取らない。
「相談?」
雫がけだるげに言う。すると、麟はルーズリーフに書きなぐった文字をずいっと見せてきた。
「詞が浮かばん!」
「ほらな、言ったろ。もう既存の曲かければ良くない? 今から新曲作っても間に合わんだろ。音合わせるのだって時間かかるし、どうせやるなら最高の音でやりたいし」
雫が腕を組んで冷ややかに言う。たちまち麟は萎縮して「ハイ」と返す。
「で、でもさ! 高校最後なんだし、やっぱ爪痕残しときたいだろ?」
麟の必死な言い分。分からなくはない。
「まぁねぇ……毎年、大成功だしねぇ」
私が言えば、麟の顔に笑顔が花開く。
「だろ!? 『Shooting Star』を超える詞を作りたいじゃん!」
「だとしても間に合わない」
雫がピシャリと言った。こっちの言い分も分からなくはない。
でも、雫だって新曲がいいに決まってる。
やがて彼はため息をついて詞を読んだ。私ものっそり起き上がって読む。
タイトルは「ミズイロ炭酸水」。シュワッと弾けそうな爽やかでポップなメロディを想像する、けど……
「え、待って、麟。これって、まさか」
一通り読んだ雫が目を開く。
「お前、恋愛系の曲作るのか」
雫が言ったと同時に私も「えー!」と思わず声を上げた。
一方、麟は「そうだよ」とあっさり。丸いストレートの髪の毛をぐしゃぐしゃと掻き上げて顔を歪ませる。
「でも、なんかこう、これだ! っていう感覚がなくてさぁ……これでいいのか」
「よくねぇよ。『君が飲んだラムネを飲みたくなった』ってなんだよ。いやぁ、ダメだわ。クソみたいなポエム並べやがって」
「うっ」
麟はまるでお腹を殴られたように呻いた。途端に弱々しくなっていく。
「恋愛したことないくせに背伸びすんなよ」
「でも! なんか書きたいなって思ったんだよ……今まで書いたことないし。挑戦、というか」
「経験してからにしろ」
それはごもっともだ。雫の言う通り、麟は恋愛経験ゼロ。青春を書くのは得意だけど、それ以外は一度も書いたことがない。
どうするつもりだろう……訝っていると麟はポンと手を打った。そして、人差し指で雫の眼鏡を刺す。
「よし! それじゃあ恋愛してやる。三日だけ!」
「三日……」
呆れた。たかが三日で恋をするとは、二年片思いして今日フラれた私を舐めている。
もう構っていられない。チューニングを再開しよう。今日はどうにも調子が悪いのだ。私も、ベースも。
じぃぃぃん……音が鳴る。その隙間に麟の元気な声が入り込んできた。
「郁音! お前、オレの彼女をやれ」
聴かなければよかったのに、聴こえてしまった。
「は?」
返した声は冷たかっただろう。しかし、麟は私の感情など眼中になく、大層意気込んでいる。