───現在時刻午前五時五十五分
城島の自宅のインターホンが鳴る。
「居候屋でーす! 城島さんいらっしゃいますか?」
戸の向こうから昨日と変わらぬ青年の透き通るような爽やかな声が聞こえた。恐る恐るといった様子で武雄は引き戸に手をかけ、ゆっくりと外を覗いた。
「昨日ぶりですね、城島さん! 約束の五分前ですが、大丈夫でしたか?」
「はい、大丈夫ですよ。起床時間はもっと早いですから」
そこには、笑顔を浮かべたポケットティッシュの彼がいた。
だが、昨日とはずいぶんと印象が違うような気がして、なぜだかその雰囲気が自分の息子と重なり、懐かしいなと武雄は思った。それは、彼の格好が黒いコートではなく、Tシャツでラフな格好をしていたせいかもしれない。
「どうぞ、上がってください」
「お邪魔しまーす」
とりあえず、居間で麦茶を飲むことにした。あちらは居候として過ごせばよいだけだが、サービスを受ける側としては、どのように接してゆけばよいのかわからない。であるから、武雄は客人をもてなす時のように煎餅を茶と一緒に出した。おしぼりも、もちろん忘れない。
「随分と変わった食べ方をするね」
煎餅を頬張る青年に思わず武雄は吹き出して笑い、敬語を忘れる。彼の食べ方といえば、誰も取りはしないのに、両手に煎餅を一枚ずつ持ち、交互に食べているのだ。とても美味しそうに。まるでタイムスリップでもしたようだと武雄は思った。
「僕、煎餅大好きなんですよ」
「わたしの息子も煎餅が好きでね、よく君みたいに両手に持って食べていたよ。懐かしい……」
「へぇ~、そうなんですね」
彼は武雄の話よりも、煎餅に夢中で、目を細めながら幸せそうに食べ続けていた。
武雄としては有り難かった。居候屋といえども、接客業と同様だというのが武雄の考えであった。その考えでいえば、息子の話を掘り下げて聞こうとしない彼は、接客業に力を入れていない不真面目な青年だと思うのが普通であるが、今回の場合、聞かれなかったことに武雄は内心ほっと胸を撫で下ろす心情であった。
「あ、そうそう」
彼は何かを思い出したようで、煎餅で汚れた手をおしぼりで拭った後、武雄と視線を合わせた。煎餅皿は空になっている。
「僕の名前なんですが、好きにつけて呼んで下さい」
「はい?」
武雄はその言葉の意味を呑み込めず、口を半開きにした。
「あなたの名前を呼ぶのは、駄目なんですか?」
居候屋という職は、本名を名乗ることが禁止されているのだろうかと武雄は考える。
ストーカーとか犯罪防止のためだろうか?
「あぁ、説明が足りなくてすみません。居候屋を家族の一員として名前をつけて呼ぶ方が結構多いんですよ。例えば、死別した妻や亡くなったペットの名前とか。あとは、片想い中の異性の名前だとか。それで、希望に応じてその設定で過ごすこともあります。もちろん、僕を本名で呼んで知り合いや友人のように過ごす方もいらっしゃいますよ」
武雄は、しばらくちゃぶ台の一点を見つめて考えた後におずおずと一直線に結んだ口を開いた。「では……」と意を決して目の前の彼を見つめる。
「城島和哉………わたしの息子になって和哉として過ごしてくれませんか?」
「和哉さん、ですね? わかりました。では、僕はなんとお呼びすれば宜しいでしょうか?」
「できれば、でいいので"父さん"って呼んでくれませんか? やっぱり、変、ですよね……」
言ってすぐに武雄は後悔し、目を伏せる。
居候屋といえど、年若い青年なこんなことを頼むなんて……申し訳ない。一体、何をやっているんだ、わたしは……。
「父さんって、呼ばせて下さい」
その言葉に一驚し、武雄は顔を上げる。息子の姿が昨日みたばかりのように鮮明に思い出された。
「あぁ、敬語はなしで頼む。あと、和哉は十歳で、自分のことを"俺"って言っていた!」
かつての息子の存在を渇望した武雄は、ちゃぶ台に両手をついてやや前のめりになり、思わず早口で要望を伝えた。
武雄の瞳に希望が差したように輝いていたことは、武雄自身しるところではないが、武雄の真剣な表情を目の当たりにしていた青年には、おそらく気がついていることだろう。
「わかった、父さん!」
「和哉……‼︎」
武雄の目の前にいるのは見た目の年若い二十代くらいの青年で、どうみても十歳には見えない。
だが、"父さん"と呼ぶ声、笑い方が武雄の記憶の奥にしまわれた本物の和哉の面影と重なった。それは、武雄の強い想いがそう錯覚させたのだろう。武雄の胸のあたりにじんわりと温かいものがこみ上げてくる。それは、胸にぽっかりと空いてしまった穴がふさがるときと似ている。
「和、哉……」
武雄は右肘をちゃぶ台に立て、掌で顔を覆い、唇をきつく結ぶ。目がしらが熱くなり、掌で収まりきらなかった涙がちゃぶ台を濡らす。
武雄の唇は声を出して泣きたい衝動をぐっと堪えるように肩を震わせていた。
「父さん」
その声とともに服の袖を引っ張られて武雄は顔を上げて和哉をみる。
「泣きたいときは、泣いていいんだよ」
その柔らかな声とかけられた言葉に武雄は和哉の両肩を掴んでうつむき、堪えていた涙腺がとうとう崩壊して大粒のしずくが頬を流れ「ゔぁあぁぁあーーーー」と声をあげて泣いた。
その泣き声の中には和哉に対する謝罪の言葉が含まれていた。
「父さん……」
和哉は武雄の背に腕をまわした。武雄は両肩に置いた手を今度は前身頃に移して掴み直し、すがりつくようにして和哉の肩に顔を埋めて泣いた。
「大丈夫? 父さん……」
和哉は武雄の背に腕を回したまま幼子をあやすように軽く背をたたいた。
「あぁ、すまない……」
一時間ほど泣き続けていた武雄は、いまは鼻を啜るのみでありようやく落ち着きをとり戻し、前身頃を、掴んでいた手をゆるめて、和哉から離れた。
和哉は特に武雄の泣いた理由を聞くこともなく、あくまでも和哉として武雄の息子を演じ、話を切り替えた。
「父さん父さん! 俺、父さんと遊ぶために色々持ってきたんだ!」
和哉はそう言うと、自前のリュックサックを武雄の前に置いた。そのリュックサックは、登山用のリュックサックくらい大きなサイズであるにもかかわらず、空気が入る余裕もないくらいにぱんぱんになっている。一体、なにが入っているんだ? と武雄は首を傾げた。
和哉はチャックを開け、リュックサックを逆さにして上下に振り、雑に中身を出しはじめた。
がしゃがしゃと音を立てながら中身が居間の畳をたたきつけて落ちる。
囲碁、将棋、お手玉、けん玉といった渋い遊び道具からトランプ、オセロ、人生ゲームといった今の子供でも遊ばれているものまである。他にも細々としたものなどが沢山あった。
「これは……」
武雄は目を見開いた。その瞳がとらえたのは、傷だらけの硬式野球ボールで、それを手に取って見る。
『父さん、俺、将来プロの野球選手になるんだ!』
息子がかつて武雄に夢を語ったことが思い出された。
「父さん、野球やろ!」
期待を込めた和哉の表情に「あぁ!」と武雄は顔をほころばせて頷いた。
野球をするにしてもあれが無い、と気がついて、武雄は和哉を見る。
「なぁ和哉、バットとグローブはどうした?」
和哉は指で頬をかいて天をあおぎ、視線を忙しなく彷徨わせた。
「え、えぇっと、持ってくるの忘れちゃった。父さん、昔つかってたバットとグローブとかない?」
「バットとグローブなぁ……」
あったにはあったが、何せ使っていたのはずいぶんと昔のことであり、それが今どこにあるのか記憶にもやがかかる。
「外で遊ぶやつだし、あそこに入ってそうじゃない?」
和哉が庭の倉庫を指差して聞く。
「見てみるか」
武雄は膝を立てて立ち上がり、二人で倉庫へ向かった。
薄暗い倉庫の中は持ち主がいない忘れ去られたガラクタのように埃がかぶっていた。倉庫は普段使わない物ばかり押し込んでいるので、そうなってしまうのも仕方がない。
しかし、倉庫の一番奥に一つだけポリ袋をかぶったものがあった。
「あれじゃない? 父さん」
そう、バットとグローブである。それらだけがポリ袋に入れられ、大事にしまわれていたのである。倉庫を出て袋から出して、それらを繊細なガラス細工に触れるように表面を撫でた。
ここにあったのか、懐かしい……。
まだ綺麗な状態であった。綺麗というには語弊があるが、当時のままの息子である和哉が野球をしていた頃の綺麗な状態でという意味である。
まるで時が止まってしまったかのように、武雄はバットとグローブをじっと見つめて動かない。
「父さん、早く早く!」
そう言って催促しながら駆けていく和哉の後を追った。
野球をしながら武雄は、願いにも似たことを思う。
この時間が永遠に続けばいいのに───と。
結局、他の遊びをすることもなく、日が沈むまでずっと武雄と和哉は野球をしていたのだった。
二人は晩御飯を食べ終えると、縁側に出ていた。
武雄のあぐらをかいた足の横にはつまみが、そして片手には缶ビールを持っていた。一方で和哉は足を下ろしてぶらぶらと遊ばせていた。
少し酔いがまわってきたのか、ほんの少し武雄の顔が赤く色づいていた。
「何も言わなくてもいいから、父さんの話、聞いてくれるか?」
「うん」
武雄は和哉に視線を移すことなく星空を見上げ、語りはじめた。
「三十一年前の夏休みに家族ぐるみでおまえの友達と川にキャンプへ行ったとき、母さんたちはバーベキューの下準備をしていて、父さんたちはテントを張ったり子どもたちと遊んでいた。父さんはトイレに行きたくて、川から離れたんだ。ほんの少しの間だし、他の親たちも一緒だったから大丈夫だと思ってたんだ。でも、それが駄目だったんだ。和哉、ごめん。ごめんじゃ済まされていいことじゃない。俺がもっとしっかりしていれば……。
警察にも電話して、皆んなで探したのに見つからなくて、どれだけ探しても見つからなくて。おまえはきっともう死んでるんだろうなって月日が流れていくうちにそう思うようになった。でも、せめて死体でもなんでもいいから、父さんのところに戻ってきてほしかった……。じゃなきゃ、墓に手を合わせにいけないじゃないか‼︎」
武雄は涙ながらに、ぐいっと缶ビールを一気飲みする。それは、さらに酔いがまわってしまえば胸に広がる苦しみが紛れることを知っていたからである。
「あれから、母さんとは喧嘩が増えて、母さんは家を出て実家に帰って、別居することになったよ。父さんも母さんも和哉のことが大好きだから喧嘩になってしまうんだ。別居は仕方がないとはわかってるんだが、やっぱり、この家にひとりってのは寂しいな」
武雄は涙でぐしゃぐしゃになった顔を袖で乱暴に拭うと、大きく鼻を啜った。
「俺も、父さんと母さんが大好きだよ」
その一言で、救われたような気持ちになったが、和哉本人ではない彼にどう伝えればよいのか分からず、武雄は無言で笑みを向けるのみに終わった。
酒の力を借りてではあったが、感情を吐き出せたことで武雄の胸にのしかかった鉛のようなものが少しだけ取り除かれた気がした。武雄は空になった缶ビールを置いて立ち上がる。
「さて……もう寝るか」
武雄は泣き腫らした顔で笑顔をつくり、和哉に言った。
就寝前のことである。
「本当に、寝るのかい?」
武雄は思わず他人行儀になって聞いてしまった。それもそのはず、武雄と和哉が一緒の布団で寝ることになったのだから。おそらく和哉が冗談を言っているのだろうとふたつ返事で武雄は最初は聞き入れたのだが、まさか本当に一緒に寝るとは思っていなかったのである。
「俺、父さんと一緒に寝たい気分なんだ」
「そう……か」
武雄は驚き少し躊躇ったが、不思議と嫌ではなかったので向かい合って眠ることになった。大の大人が一つの布団で眠るのだから、かなり窮屈であったが……。
その夜、武雄は寝不足になるかもしれないと思っていたが、決してそんなことはなく、まるで、和哉の匂いに包まれて寝ているような安心感に包まれ、深い深い眠りについたのだった。
翌日の朝、午前五時五十五分頃、武雄と青年は居間にいた。
「延長の件、どうしますか?」
「いや、やめとくよ」
その青年の言葉に武雄はすっきりとした表情をして即答し、首を横に振った。
「和哉の代わりとしてすがり続けるのは良くないしね。それに、わたしの息子は和哉だけだから」
その武雄の言葉に青年は満面の笑みを向ける。
「わかりました!」
ちゃぶ台の上でお代の二千九百五十一円を武雄は払った。
「ご利用、ありがとうございました!」
「ありがとね」
外に出て武雄が礼を言えば、突然、青年が武雄を抱きしめ、近くなった武雄の耳に告げる。
「父さん、また、会えるから」
「あぁ、また会おう」
青年の背に腕を回して背中を数度たたき、どちらからともなく離れた。
"また会おう"それは、今よりもっと年老いてあの世に行ったときのことだ、と武雄は思って言ったのである。