それからの数日間で、俺は藍田さやかが本当に懐妊していることに気づいた。当初は半信半疑だったが、彼女の心の呟きを聞いているうちに確信に変わった。
【一人で育てるなんて無理だよね】
【やっぱり下ろしたほうがいいかな。でも、そんなお金ないよ】
【ちゃんと避妊するべきだった】
授業中や休み時間、登下校中にも藍田はそんなことを考えていた。彼女はいつも一緒にいる二人の友達に、何度も悩みを打ち明けようとしていたが、結局言い出せず一人で抱え込んでいた。一見真面目そうに見える女子生徒だが、影ではちゃんとやることはやってるんだなぁ、と感心した。感心するに値しない悩みだけど。
藍田と話したことのない俺は、当然彼女の相談相手になるはずもなく、彼女の決断を日々見守っているだけだった。
妊娠してるんだって? といきなり声をかけるわけにもいかず、正直どうしたらいいのか分からない。ただ見守ることしか、俺にはできないのだ。
藍田の妊娠説はどうやら本当らしい、と雪乃に告げると、彼女は【私に考えがある】と豪語した。
【明日、楽しみにしてて】
雪乃がそう言い残して教室を出ていったのが、昨日のことだ。
そして日付が変わり、姉が作ってくれた弁当を鞄に詰め、鬼胎を抱いたまま家を出た。
考えがあると雪乃は言っていたが、一体何をするつもりなのだろう。いや、彼女に何ができるのだろう。俺以外の人とまともにコミュニケーションを取れない女が、藍田さやかの抱える問題に、何をしてやれるというのか。
そんなことを考えながら自転車を漕いでいると、小泉がチリンチリン、と後ろからベルを鳴らして声を上げた。
「よう碧。気持ちのいい朝だな」
俺は灰色の空を見上げる。太陽は隠れていても、彼にとっては気持ちのいい朝らしい。かと言って気持ちの悪い朝ではないので、「そうだな」と同意しておいた。
【昨日は高梨さんと話せたから、今日も話せるといいなぁ】
意外と純粋な奴だ。彼の背中を追いかけながら、俺は【頑張れよ】と心の中で応援した。
学校に到着し、急いで教室に向かう。つい先ほど、小泉の自転車のチェーンが外れたせいで遅刻ギリギリだった。
手が真っ黒になってしまって、洗い落としたかったがそんなことをしている時間はない。階段を二段飛ばしで駆け上がり、二年の教室を目指す。
教室の前に着いた頃には、太ももが悲鳴を上げていた。それでもなんとか間に合った。小泉はどこかでもたついているのか、振り返るといなかった。
教室の前のドアから入ると、何やら異変を感じた。いつも騒がしい朝の教室は、しんと静まり返っていて、異様な雰囲気が漂っている。
「あぶねー! ギリギリ間に合ったー! ってあれ?」
遅れて登場した小泉も、教室内の異変を察知したらしい。よく見ると、泣いている女子生徒がいた。その周りには、数人の女子生徒が泣いている少女を心配するように囲う。すすり泣いていたのは、藍田さやかだった。
「碧、あれ」
小泉が黒板を指差した。目を向けると、黒板には白いチョークで文字が書かれていた。
『藍田さやかは、妊娠している』
俺は目を疑った。何故こんなことが黒板に書かれているのか。誰がこれを書いたのか。藍田の妊娠を知っている生徒は俺と雪乃だけだ。俺はもちろん書いた覚えなどない。となれば犯人は、雪乃令美ということになる。仮に藍田の妊娠を知っている奴がいるならば、俺が心の中を覗けば分かる。
しかし、それを調べる必要はなかった。
雪乃令美はにっこりと微笑み、俺を見つめていた。同時に、予鈴が鳴り響いた。
黒板に書かれた文字は担任が教室に来る前に消され、特に問題になることはなかった。
けれど休み時間になると、いつもより教室内が騒ついていた。仲の良い者同士固まって、ひそひそと藍田に視線を送りながら話し合っている。それぞれの話題は当然、事件と呼んでも過言ではないほどの今朝の出来事だ。誰が黒板にあんなことを書いたのか、という疑問を抱いている奴は一人もいない。焦点はそれが事実であるかどうか、生徒たちが知りたいのはそのことだけなのだ。
いや、誰が黒板に書いたのか、疑念を抱いている人物は一人だけいた。言うまでもなく、この一件の中心人物である藍田さやかだ。心を覗いた限りでは、彼女は誰にも話していない。おそらく妊娠検査薬を使い、陽性が出て自身の身体に新たな生命が宿っていることに気づいたのだろう。
【一体誰が、そもそもなんで知ってるの?】
【どうしよう。皆にバレてしまった。どうしたらいいの】
【どうしよう。どうしよう。どうしよう】
藍田の胸中は、混乱、絶望、疑念の感情が入り乱れていた。聞いていられなくて、俺は思わず目を逸らした。
「私、先生に言ってくるね」
二時間目が終わった後の休み時間に、藍田と仲の良い女子がそう言った。藍田は優しい友人の腕を掴み、かぶりを振った。
「ただの悪戯だから、言わなくていいよ。これ以上変な噂が広まったら嫌だから」
藍田はそう言って拒んだ。ただの悪戯、ということで片付けるつもりらしい。
やっぱり悪戯だよな、と誰かの心の声が届いた。結局は誰かが悪さをした、ということで生徒たちは落ち着き始めていた。
しかし、さらに事件が起きた。それは三時間目の授業が終わった直後に起こった。このクラスのボスである井浦愛美が、ついに動き出したのだ。彼女はそれまで我関せずの態度をとっていたが、落ち着かない教室に嫌気がさしたのか、ようやく重い腰を上げた。
茶色に染められた長い髪の毛を揺らしながら、さらには鼻腔を刺激する香水の匂いを撒き散らしながら、井浦は藍田の机の前で立ち止まる。クラスメイトたちは動きを止め、好奇の目を二人に向ける。雪乃も、二人に視線を送っていた。
「藍田さぁ、妊娠してるって、本当なの?」
背の高い井浦は、文字通り上から物を言う。席に座ったままの藍田は、目に怯えの色を浮かべ、井浦を見上げる。俺はこの時、初めて蛇に睨まれた蛙を見た気がした。
【どうしよう。どうしよう。どうしよう】
藍田はお決まりの言葉を呪文のように繰り返す。彼女に助け舟を出す者は、一人もいなかった。
「ちょっと、なんとか言いなよ。もし本当に妊娠してるなら、あんた真面目なフリしてとんでもないアバズレ女ね」
井浦は言い終わると、艶然と微笑んだ。藍田は俯き、ぽろぽろ涙を零した。これではイエスと言っているようなものだ。実際イエスなんだけれども、この一件に少なからず関わっている俺は少し胸が痛んだ。
井浦が舌打ちをした直後、予鈴が鳴って四時間目の授業が始まる。凍りついていた生徒たちは一斉に動き出し、それぞれの席に戻っていく。ただ一人、井浦愛美を残して。
彼女は予鈴が鳴ってもなお、その場に佇んでいた。腕を組み、藍田から視線を逸らさない。この女は、目力で人を殺せる。そんな覇気を纏っていた。
「井浦、なにしてんだ席に着け!」
数学の教科担任が教室に入ってきて、声を荒げた。
数秒の沈黙の後、ようやく井浦はその場を離れ自分の席へと戻っていく。同時に教室内の空気は、やや弛緩した。
このクラスでは、井浦愛美より目立ってはいけない。それは女子たちの間で、暗黙のルールとなっていた。『妊娠』というパワーワードは、井浦の逆鱗に触れてしまったのだ。
声を殺し泣いている藍田の背中を見て、気の毒に思った。そして俺は気づいた。何故雪乃がこんな公開処刑じみたことをしたのか。
雪乃はきっと、いじめのターゲットを自分から藍田に移そうとしたのだ。現状、そうなりつつあった。
【あのアバズレ女、まじムカつく。さて、どうしてやろうか】
井浦はそんなことを考えている。相変わらず恐ろしい女だ。同時に雪乃令美にも、俺は嫌悪感を覚えた。一人で苦しみもがいていた少女を、雪乃はさらにどん底に突き落としたのだ。『言いたいことも言えずに苦しんでいる人の力になりたい』、と雪乃は言っていたが、実際はそうではなかったのだ。やはり女という人種は、悍ましい生き物だ。ちらりと雪乃を見やる。
【はあ、数学は嫌だなぁ】
雪乃は呑気にそんなことを考えていた。藍田には悪いことしたなぁ、と猛省しながら教科書を開いた。
【一人で育てるなんて無理だよね】
【やっぱり下ろしたほうがいいかな。でも、そんなお金ないよ】
【ちゃんと避妊するべきだった】
授業中や休み時間、登下校中にも藍田はそんなことを考えていた。彼女はいつも一緒にいる二人の友達に、何度も悩みを打ち明けようとしていたが、結局言い出せず一人で抱え込んでいた。一見真面目そうに見える女子生徒だが、影ではちゃんとやることはやってるんだなぁ、と感心した。感心するに値しない悩みだけど。
藍田と話したことのない俺は、当然彼女の相談相手になるはずもなく、彼女の決断を日々見守っているだけだった。
妊娠してるんだって? といきなり声をかけるわけにもいかず、正直どうしたらいいのか分からない。ただ見守ることしか、俺にはできないのだ。
藍田の妊娠説はどうやら本当らしい、と雪乃に告げると、彼女は【私に考えがある】と豪語した。
【明日、楽しみにしてて】
雪乃がそう言い残して教室を出ていったのが、昨日のことだ。
そして日付が変わり、姉が作ってくれた弁当を鞄に詰め、鬼胎を抱いたまま家を出た。
考えがあると雪乃は言っていたが、一体何をするつもりなのだろう。いや、彼女に何ができるのだろう。俺以外の人とまともにコミュニケーションを取れない女が、藍田さやかの抱える問題に、何をしてやれるというのか。
そんなことを考えながら自転車を漕いでいると、小泉がチリンチリン、と後ろからベルを鳴らして声を上げた。
「よう碧。気持ちのいい朝だな」
俺は灰色の空を見上げる。太陽は隠れていても、彼にとっては気持ちのいい朝らしい。かと言って気持ちの悪い朝ではないので、「そうだな」と同意しておいた。
【昨日は高梨さんと話せたから、今日も話せるといいなぁ】
意外と純粋な奴だ。彼の背中を追いかけながら、俺は【頑張れよ】と心の中で応援した。
学校に到着し、急いで教室に向かう。つい先ほど、小泉の自転車のチェーンが外れたせいで遅刻ギリギリだった。
手が真っ黒になってしまって、洗い落としたかったがそんなことをしている時間はない。階段を二段飛ばしで駆け上がり、二年の教室を目指す。
教室の前に着いた頃には、太ももが悲鳴を上げていた。それでもなんとか間に合った。小泉はどこかでもたついているのか、振り返るといなかった。
教室の前のドアから入ると、何やら異変を感じた。いつも騒がしい朝の教室は、しんと静まり返っていて、異様な雰囲気が漂っている。
「あぶねー! ギリギリ間に合ったー! ってあれ?」
遅れて登場した小泉も、教室内の異変を察知したらしい。よく見ると、泣いている女子生徒がいた。その周りには、数人の女子生徒が泣いている少女を心配するように囲う。すすり泣いていたのは、藍田さやかだった。
「碧、あれ」
小泉が黒板を指差した。目を向けると、黒板には白いチョークで文字が書かれていた。
『藍田さやかは、妊娠している』
俺は目を疑った。何故こんなことが黒板に書かれているのか。誰がこれを書いたのか。藍田の妊娠を知っている生徒は俺と雪乃だけだ。俺はもちろん書いた覚えなどない。となれば犯人は、雪乃令美ということになる。仮に藍田の妊娠を知っている奴がいるならば、俺が心の中を覗けば分かる。
しかし、それを調べる必要はなかった。
雪乃令美はにっこりと微笑み、俺を見つめていた。同時に、予鈴が鳴り響いた。
黒板に書かれた文字は担任が教室に来る前に消され、特に問題になることはなかった。
けれど休み時間になると、いつもより教室内が騒ついていた。仲の良い者同士固まって、ひそひそと藍田に視線を送りながら話し合っている。それぞれの話題は当然、事件と呼んでも過言ではないほどの今朝の出来事だ。誰が黒板にあんなことを書いたのか、という疑問を抱いている奴は一人もいない。焦点はそれが事実であるかどうか、生徒たちが知りたいのはそのことだけなのだ。
いや、誰が黒板に書いたのか、疑念を抱いている人物は一人だけいた。言うまでもなく、この一件の中心人物である藍田さやかだ。心を覗いた限りでは、彼女は誰にも話していない。おそらく妊娠検査薬を使い、陽性が出て自身の身体に新たな生命が宿っていることに気づいたのだろう。
【一体誰が、そもそもなんで知ってるの?】
【どうしよう。皆にバレてしまった。どうしたらいいの】
【どうしよう。どうしよう。どうしよう】
藍田の胸中は、混乱、絶望、疑念の感情が入り乱れていた。聞いていられなくて、俺は思わず目を逸らした。
「私、先生に言ってくるね」
二時間目が終わった後の休み時間に、藍田と仲の良い女子がそう言った。藍田は優しい友人の腕を掴み、かぶりを振った。
「ただの悪戯だから、言わなくていいよ。これ以上変な噂が広まったら嫌だから」
藍田はそう言って拒んだ。ただの悪戯、ということで片付けるつもりらしい。
やっぱり悪戯だよな、と誰かの心の声が届いた。結局は誰かが悪さをした、ということで生徒たちは落ち着き始めていた。
しかし、さらに事件が起きた。それは三時間目の授業が終わった直後に起こった。このクラスのボスである井浦愛美が、ついに動き出したのだ。彼女はそれまで我関せずの態度をとっていたが、落ち着かない教室に嫌気がさしたのか、ようやく重い腰を上げた。
茶色に染められた長い髪の毛を揺らしながら、さらには鼻腔を刺激する香水の匂いを撒き散らしながら、井浦は藍田の机の前で立ち止まる。クラスメイトたちは動きを止め、好奇の目を二人に向ける。雪乃も、二人に視線を送っていた。
「藍田さぁ、妊娠してるって、本当なの?」
背の高い井浦は、文字通り上から物を言う。席に座ったままの藍田は、目に怯えの色を浮かべ、井浦を見上げる。俺はこの時、初めて蛇に睨まれた蛙を見た気がした。
【どうしよう。どうしよう。どうしよう】
藍田はお決まりの言葉を呪文のように繰り返す。彼女に助け舟を出す者は、一人もいなかった。
「ちょっと、なんとか言いなよ。もし本当に妊娠してるなら、あんた真面目なフリしてとんでもないアバズレ女ね」
井浦は言い終わると、艶然と微笑んだ。藍田は俯き、ぽろぽろ涙を零した。これではイエスと言っているようなものだ。実際イエスなんだけれども、この一件に少なからず関わっている俺は少し胸が痛んだ。
井浦が舌打ちをした直後、予鈴が鳴って四時間目の授業が始まる。凍りついていた生徒たちは一斉に動き出し、それぞれの席に戻っていく。ただ一人、井浦愛美を残して。
彼女は予鈴が鳴ってもなお、その場に佇んでいた。腕を組み、藍田から視線を逸らさない。この女は、目力で人を殺せる。そんな覇気を纏っていた。
「井浦、なにしてんだ席に着け!」
数学の教科担任が教室に入ってきて、声を荒げた。
数秒の沈黙の後、ようやく井浦はその場を離れ自分の席へと戻っていく。同時に教室内の空気は、やや弛緩した。
このクラスでは、井浦愛美より目立ってはいけない。それは女子たちの間で、暗黙のルールとなっていた。『妊娠』というパワーワードは、井浦の逆鱗に触れてしまったのだ。
声を殺し泣いている藍田の背中を見て、気の毒に思った。そして俺は気づいた。何故雪乃がこんな公開処刑じみたことをしたのか。
雪乃はきっと、いじめのターゲットを自分から藍田に移そうとしたのだ。現状、そうなりつつあった。
【あのアバズレ女、まじムカつく。さて、どうしてやろうか】
井浦はそんなことを考えている。相変わらず恐ろしい女だ。同時に雪乃令美にも、俺は嫌悪感を覚えた。一人で苦しみもがいていた少女を、雪乃はさらにどん底に突き落としたのだ。『言いたいことも言えずに苦しんでいる人の力になりたい』、と雪乃は言っていたが、実際はそうではなかったのだ。やはり女という人種は、悍ましい生き物だ。ちらりと雪乃を見やる。
【はあ、数学は嫌だなぁ】
雪乃は呑気にそんなことを考えていた。藍田には悪いことしたなぁ、と猛省しながら教科書を開いた。