次の日も、雪乃は井浦愛美をはじめとする女子のグループからいじめを受けていた。丸めた紙くずや消しゴムのカスを投げつけられたり、机に落書きをされたりと散々なものだった。

【また頭に当たった。もうやだなぁ】

 高梨美晴が投げた紙くずが頭に当たり、雪乃は嘆く。
 一方の高梨美晴は、【ごめん、令美】と心の中で雪乃に謝りながら投げていた。謝るくらいならやめればいいと思うが、そういうわけにもいかないらしい。
 姉に話しかけろと言われたので、俺は放課後になってから動き出した。
 小泉を先に帰らせ、教室に残っていた生徒たちが下校してから俺は席を立った。
 雪乃は机に書かれた落書きを、雑巾でせっせと擦っている。机には、『くちなし女』と書かれていた。
 気配に気づいたのか、雪乃は振り返る。

【あれ、この人、なんとか碧くん。苗字忘れちゃった】
「森田だよ、森田。昨日名乗ったばかりなのに、もう忘れたのかよ」

 俺がそう言うと、雪乃は驚いたように目を見開いた。

【この人、知らないのかな。私、喋れません】

 彼女は口元で両手の人差し指を使ってばつ印を作り、喋れないことをアピールした。俺が雪乃の心の声に返事をしたことに、まだ気づいていない様子だ。

「分かってるよ。喋れないんだろ。心の中で、俺に話しかけてみて」

 雪乃は首を傾げた。この人何を言ってるんだろう、と心の声を聞かなくても表情がそう言っている。俺は仕方なく、事故の後遺症で聞こえるはずのない声が聞こえるようになったことを彼女に話した。
 雪乃はポカンと口を開けたまま最後まで俺の話を聞いた後、【そんなの絶対嘘だ】と信じてくれなかった。

「じゃあ、一から一億までの数字の中から好きな数字を選んでみて」

 そう言うと彼女は少し考えた後、何故か【三億九千万】と答えた。
 どう考えてもルール違反だ。指摘するのも面倒なので、「三億九千万」とため息交じりに言った。

【え……本当に私の声が聞こえるの?】

 雪乃は猜疑心に満ちた目で俺を見つめる。信じられないのは無理もない。俺だってどうして声が聞こえるようになったのか、理解できていないのだ。

「本当だよ。まあ別に信じてくれなくてもいいけど」
【すごい。なんか不思議な感じ】
「俺も不思議だよ。喋ってるのは俺だけなのに、会話が成立してるだなんて」

 雪乃はしばらく無言で、いや無心で俺を見つめる。沈黙が気まずくて、俺は彼女に背を向け教室のドアに向かう。
「じゃあな」と振り返り声をかけると、雪乃は【もう少し話したかったな】と呟いていた。


 家に帰ると、姉が夕食の準備をしていた。匂いから察するに、今日はカレーらしい。コンビニでカレー味のスナック菓子を買ってきたことを後悔しながら、リビングのソファーに腰掛けた。

「碧、帰ってたの? ただいまくらい言いなさいよ」
「母さんみたいなこと言うなよ。それに、さっき心の中で言ったよ」
「あたしには聞こえないんだから、ちゃんと声に出して言いなよ」

 俺は返事をせず、スナック菓子の袋を開ける。ポリポリと咀嚼しながら、雪乃令美のことを考えていた。
 彼女にとって俺は、文字通り心を通わせられる唯一の人間なのだ。彼女がもう少し話したかったと言うのも、理解できる。これって、すごいことだよなぁ、と改めて思う。雪乃だけではなく、俺は世界中の言葉を発することのできない人たちと、会話をすることができるたった一人の人間なのだ。手話や筆談などを使わず、彼らとコミュニケーションが取れる。俺はそういう人たちの通訳として、大金を稼いで生きていけるのではないか、と欲が出てしまった。

「何一人でにやにやしてるのよ。馬鹿みたい」

 夕食作りにひと段落ついたのか、姉は二つあるソファーの向かい側に腰掛けた。

「この力を使って、何か金儲け……人の役に立てないかなと思ってさ」
「いや、欲が出てるよ。そういえば、雪乃ちゃん、だっけ? 話せたの?」

 姉は言いながらスナック菓子に手を伸ばす。雪乃は名前ではなく苗字だぞ、とは面倒で言わなかった。

「少しだけ話したよ。驚いてたけど、たぶん信じてくれたと思う」
「そう。その調子で毎日話し相手になってあげなさい。それと、たまにはお母さんのお見舞いに行きなさいよ」

 そのうち行くよ、と返事をして俺はスナック菓子を持って自分の部屋に向かう。口うるさい母さんがいなくなったかと思えば、今度は姉が鬱陶しく感じる。
 ベッドに寝転び、天井を見つめる。これから一生、声は聞こえ続けるのだろうか。少し不安になりながら、深くため息をついた。



 姉が作ってくれた弁当を鞄に仕舞い、いつもの時間に家を出た。反抗期だった俺は母さんの弁当はほとんど食べず、購買でパンを買い昼食を済ませていた。しかしさすがの俺も姉には逆えず、仕方なく弁当を食べている。姉は料理上手なので、味に関しては問題ない。

「よう碧! いやー今日夢に高梨美晴が出てきてさあ……」

 登校途中で小泉と合流し、一緒に学校へ向かう。彼の心を覗くと、昨日の晩、深夜番組を観ていて夜更かしをしていたらしい。信号待ちのたびに彼は大きな欠伸をしていた。
 学校に着くと、雪乃はすでに窓際の自分の席に座り、一人寂しく授業の開始を待っていた。
 ふと目が合うと、【おはよう】と彼女は心の中で呟いた。当然返事などできるはずもなく、俺は無視して自分の席に向かう。
 この日も雪乃は、紙くず投げの的になっていた。高梨美晴は浮かない表情で、不承不承に紙くずを投げていた。


 放課後、生徒たちが帰っていく中、俺と雪乃だけが自分の席に座ったままだった。
 そして教室内は、あっという間に俺と雪乃二人だけになった。彼女は机の上に鞄を置き、中から青いリボンを頭につけたクマのぬいぐるみを取り出した。よく見ると、キーホルダーのようだ。普通であればそれはチャックの部分に取り付けるべきだが、井浦愛美たちに隠されるのを恐れて外しているのかもしれない。ただ無心で、雪乃はクマのキーホルダーを見つめていた。

「あのさ、今のままでいいの?」

 沈黙を破り、俺は雪乃に声をかけた。彼女はゆっくりと俺を振り返る。

【今のまま……って?】
「紙を投げられたり、机に落書きされたり、物を隠されたり。俺なら我慢できないな」
【別に、私は平気】
「……そっか」

 雪乃は俯いて、再びクマのキーホルダーに視線を戻す。本人が平気と言うなら、これ以上は何も言えない。
 数分の沈黙が流れ、帰ろうと思い立ち上がると、【知ってる?】と雪乃が俺に問いかけた。

「何が?」
【私よりも、このクラスにはもっと大きな悩みを抱えている人がいっぱいいると思うよ】
「大きな悩み?」
【うん。なんとなくだけど、そんな感じがする。見てたら分かるよ。なんとか碧くんなら、心の中を覗けるから知ってると思ってた】

 森田だよ森田、と俺は何度目かも忘れた自己紹介をした。
 そうだったね、と雪乃はクマのキーホルダーを鞄に仕舞い、立ち上がる。
 そのまま雪乃は教室のドアを開け、廊下に出ようとしたところで足を止めた。

【私には、碧くんも何か悩んでるように見えるけどね】

 そう言い残して、雪乃は去っていった。確かに俺は、この聞こえてしまう声に悩んではいるけども。
 それに言われてみれば、俺はこのクラスのことをよく知らない。三週間遅れの新学期とはいえ、名前が分からない奴も三分の二くらいいる。
 普段は仲のいい小泉としかつるまないし、雪乃以外の生徒の心の中はなるべく覗かないようにしている。心を覗くと人間の嫌な部分ばかりが見えて、最近はこの聞こえる力に辟易していた。
 誰もいなくなった教室は、壁掛け時計の秒針の音がやけにうるさかった。

 帰り道、自転車で駅の前を通ると下校途中の姉を見かけた。男と一緒だった。
 姉は俺が通う頭の悪い高校とは違い、市内でも有数の進学校に通っている。さらに悲しいことに、俺と姉は顔もあまり似ていない。姉は美人の母さんに似て、俺は冴えない父さんに似ているのだ。普通は息子は母に似て、娘は父に似るんじゃないのかよ、と昔から俺は何度も何度も嘆いてきた。
 姉の隣にいるのは恋人だろうか。長身で爽やかで、賢そうな男だ。悔しいけれどお似合いな二人だ。
 軽く舌打ちをして通り過ぎようとすると、「碧!」と姉に呼び止められ、仕方なくブレーキを握った。

「この子、うちの弟なんだ」

 姉は男に俺を紹介する。どうも、と俺は無愛想に返事をした。

「こんにちは、橋下です。あんまり似てないんだね」

 橋下と名乗った男は澄ました顔で俺と姉を見比べ、小さく鼻で笑った。

【茜の弟の割には冴えない奴だな。頭悪そうだし、確か事故に遭ったって言ってたな。鈍臭そうだ】
「姉ちゃんって、あんまり見る目ないんだな」

 そう言って俺は右足に力を込め、ペダルを漕いでその場を離れる。

「ちょっと碧! 変なこと言わないでよ!」

 背後から姉の声が聞こえたが、俺は振り向かずに帰路についた。