俺が次に目を覚ましたのは、三日後の夕方のことだった。目撃者の証言では、俺の身体は回転しながら宙を舞い、激しく地面に叩きつけられたのだという。
ああ、死んだな、というのが目撃者の感想だったらしい。しかし派手な事故にもかかわらず、大事には至らなかった。身体は打撲やかすり傷は負ったものの、骨が折れるだとか肉が裂けるだとか、そういった痛々しい外傷はなかった。ただ、三日間も眠っていたのは頭を強打したからである。軽度の脳挫傷という診断結果だった。手術をする必要はなく、二、三週間ほどの入院で済むだろうとのことだ。後遺症が残らなければいいねえ、と年老いた医師は他人事のように言っていたが、入院生活が一週間を過ぎた頃、俺の身体に異変が起きた。
「その話、本当なの?」
学校が終わった後、見舞いに来てくれた姉の茜が疑り深い顔で言った。彼女は俺の一個上で、この春から高校三年生になった。
「ああ、間違いない。頭の中で、声が響くんだ」
「じゃあさ、あたしが今なに考えてるか、当ててみてよ」
姉はそう言うと、姿勢を正した。俺はじっと、彼女の大きな瞳を見つめる。
【隣の客は、よく柿食う客だ】
「隣の客は、よく柿きゅう客だ」
俺が言い終えると、姉は目を見開いた。
【坊主が屏風に上手に坊主の絵を描いた】
「坊主が屏風にぼうずに坊主の絵を描いた」
姉は眉根を寄せる。俺の滑舌の悪さは置いといて、これで信じてもらえただろう。
「碧、あんた本当に……」
「だから言っただろ。なんなんだろうな、これ。後遺症ってやつかな」
そんなわけない、と姉はぶんぶん首を振った。
「目を見る必要はなくて、例えば後頭部とか、背中を見るだけでもその人の声が聞こえるんだ。どこか、身体の一部を見るだけでいいらしい。ここの看護師、けっこう性格悪いよ」
姉は考え込むように腕を組んだ。
その声が聞こえるようになったのは、二日前のことだった。看護師が俺の病室に食事を持ってきてくれた時、奇妙な声が頭の中で響いたのだ。
「お夕食、ここに置いときますね」
年配の看護師が、質素な病院食をベッドテーブルに置いた。
「どうも」
俺がボソッと呟いた直後、看護師の声が脳内に流れ込んだ。
【相変わらず愛想のないクソガキねえ】
「……なんだって?」
思わず俺は声を荒げていた。聞き間違いだとか、そんな曖昧なものではなく、はっきりと聞こえたのだ。ここは個室なので、俺に向けられた言葉であることは疑いようがない。
看護師は足を止め、「はい?」と怪訝そうな表情で振り返る。
何か文句を言ってやろうかと思ったが、看護師を敵に回すのは得策ではないな、と判断し言葉を飲み込んだ。
「いや、なんでもないっす」
俺は蔑むような目で彼女を睨みつけた。最低な女だな、という思いを言外にこめたつもりだったが、看護師は意に介せず歩き去っていった。
【なんなの、このクソガキ】
さらに彼女は去り際に、そう言い残していった。
何か妙だなと思った。看護師があんなにはっきりと毒を吐くだろうか。いくら俺が無愛想でも、ここまでストレートに言われたのは初めてだ。それに耳に届くというよりは、頭の中で反響するようだった。
その後も奇妙な声は頻繁に聞こえるようになった。やがて、その声は人間の心の声なのではないか、と俺は結論づけた。
そして悩んだ末、俺が最も信頼を寄せている人物である、姉の茜に相談したのだった。
姉はしばらく考え込んでいたが、俺には彼女の心の声が聞こえる。
「碧、あんたさ……」
「分かってるよ、姉ちゃんの言いたいことは。誰にも言わないほうがいいんだろ」
姉が言い終わる前に、俺は言葉を被せた。
「絶対言わないほうがいいと思う。そんなこと知られたら、誰もあんたに近寄らなくなると思うよ」
「だよなぁ。まいったなぁ」
言いながら俺は姉から視線を逸らした。対象の人物から目を逸らすと、心の声は聞こえなくなる。俺を哀れむ姉の声を、これ以上聞きたくなかった。
「もしかしたら事故のショックで一時的な現象かもしれないから、もう少し様子みてみな。それと、プライバシーの侵害だから、人の心の中は無闇に覗かないこと! 分かった?」
幼い子どもに言い聞かせるような口調で、姉は人差し指を立てる。姉はいつもそうだった。一つしか歳が離れていないのに、俺をやたら子ども扱いする。それでも、嫌な気はしない。俺を一番に考えてくれていることはひしひしと伝わるからだ。だから俺は、姉に打ち明けたのだ。
「じゃあ、お姉ちゃんもう帰るからね。何か変わったことがあったら、すぐに言うのよ」
姉は鞄を肩にかけて立ち上がる。じゃあね、と片手を挙げて扉に向かう。
「母さんのところ、行くんだろ。意識が戻らないのにさ、行く意味あんの?」
姉は立ち止まり、「言ったそばから人の心を覗かないでよ」と振り返る。
先ほど、【お母さんのところ行かなきゃ】という姉の声が俺の頭に届いていた。
「意識なくても、耳は最後までちゃんと聞こえてるって言うでしょ。だから碧も退院したらお母さんに声かけてあげなよ」
ため息交じりに言いながら去っていく姉の背中を、俺はじっと見つめる。
【碧、大丈夫かなぁ。きっと、なんとかなるよね】
姉は心の中で呟いて、病室を出ていった。
ああ、死んだな、というのが目撃者の感想だったらしい。しかし派手な事故にもかかわらず、大事には至らなかった。身体は打撲やかすり傷は負ったものの、骨が折れるだとか肉が裂けるだとか、そういった痛々しい外傷はなかった。ただ、三日間も眠っていたのは頭を強打したからである。軽度の脳挫傷という診断結果だった。手術をする必要はなく、二、三週間ほどの入院で済むだろうとのことだ。後遺症が残らなければいいねえ、と年老いた医師は他人事のように言っていたが、入院生活が一週間を過ぎた頃、俺の身体に異変が起きた。
「その話、本当なの?」
学校が終わった後、見舞いに来てくれた姉の茜が疑り深い顔で言った。彼女は俺の一個上で、この春から高校三年生になった。
「ああ、間違いない。頭の中で、声が響くんだ」
「じゃあさ、あたしが今なに考えてるか、当ててみてよ」
姉はそう言うと、姿勢を正した。俺はじっと、彼女の大きな瞳を見つめる。
【隣の客は、よく柿食う客だ】
「隣の客は、よく柿きゅう客だ」
俺が言い終えると、姉は目を見開いた。
【坊主が屏風に上手に坊主の絵を描いた】
「坊主が屏風にぼうずに坊主の絵を描いた」
姉は眉根を寄せる。俺の滑舌の悪さは置いといて、これで信じてもらえただろう。
「碧、あんた本当に……」
「だから言っただろ。なんなんだろうな、これ。後遺症ってやつかな」
そんなわけない、と姉はぶんぶん首を振った。
「目を見る必要はなくて、例えば後頭部とか、背中を見るだけでもその人の声が聞こえるんだ。どこか、身体の一部を見るだけでいいらしい。ここの看護師、けっこう性格悪いよ」
姉は考え込むように腕を組んだ。
その声が聞こえるようになったのは、二日前のことだった。看護師が俺の病室に食事を持ってきてくれた時、奇妙な声が頭の中で響いたのだ。
「お夕食、ここに置いときますね」
年配の看護師が、質素な病院食をベッドテーブルに置いた。
「どうも」
俺がボソッと呟いた直後、看護師の声が脳内に流れ込んだ。
【相変わらず愛想のないクソガキねえ】
「……なんだって?」
思わず俺は声を荒げていた。聞き間違いだとか、そんな曖昧なものではなく、はっきりと聞こえたのだ。ここは個室なので、俺に向けられた言葉であることは疑いようがない。
看護師は足を止め、「はい?」と怪訝そうな表情で振り返る。
何か文句を言ってやろうかと思ったが、看護師を敵に回すのは得策ではないな、と判断し言葉を飲み込んだ。
「いや、なんでもないっす」
俺は蔑むような目で彼女を睨みつけた。最低な女だな、という思いを言外にこめたつもりだったが、看護師は意に介せず歩き去っていった。
【なんなの、このクソガキ】
さらに彼女は去り際に、そう言い残していった。
何か妙だなと思った。看護師があんなにはっきりと毒を吐くだろうか。いくら俺が無愛想でも、ここまでストレートに言われたのは初めてだ。それに耳に届くというよりは、頭の中で反響するようだった。
その後も奇妙な声は頻繁に聞こえるようになった。やがて、その声は人間の心の声なのではないか、と俺は結論づけた。
そして悩んだ末、俺が最も信頼を寄せている人物である、姉の茜に相談したのだった。
姉はしばらく考え込んでいたが、俺には彼女の心の声が聞こえる。
「碧、あんたさ……」
「分かってるよ、姉ちゃんの言いたいことは。誰にも言わないほうがいいんだろ」
姉が言い終わる前に、俺は言葉を被せた。
「絶対言わないほうがいいと思う。そんなこと知られたら、誰もあんたに近寄らなくなると思うよ」
「だよなぁ。まいったなぁ」
言いながら俺は姉から視線を逸らした。対象の人物から目を逸らすと、心の声は聞こえなくなる。俺を哀れむ姉の声を、これ以上聞きたくなかった。
「もしかしたら事故のショックで一時的な現象かもしれないから、もう少し様子みてみな。それと、プライバシーの侵害だから、人の心の中は無闇に覗かないこと! 分かった?」
幼い子どもに言い聞かせるような口調で、姉は人差し指を立てる。姉はいつもそうだった。一つしか歳が離れていないのに、俺をやたら子ども扱いする。それでも、嫌な気はしない。俺を一番に考えてくれていることはひしひしと伝わるからだ。だから俺は、姉に打ち明けたのだ。
「じゃあ、お姉ちゃんもう帰るからね。何か変わったことがあったら、すぐに言うのよ」
姉は鞄を肩にかけて立ち上がる。じゃあね、と片手を挙げて扉に向かう。
「母さんのところ、行くんだろ。意識が戻らないのにさ、行く意味あんの?」
姉は立ち止まり、「言ったそばから人の心を覗かないでよ」と振り返る。
先ほど、【お母さんのところ行かなきゃ】という姉の声が俺の頭に届いていた。
「意識なくても、耳は最後までちゃんと聞こえてるって言うでしょ。だから碧も退院したらお母さんに声かけてあげなよ」
ため息交じりに言いながら去っていく姉の背中を、俺はじっと見つめる。
【碧、大丈夫かなぁ。きっと、なんとかなるよね】
姉は心の中で呟いて、病室を出ていった。