姉が作ってくれた弁当を鞄に入れて、いつもの時間に家を出た。
姉は朝から橋下とかいうクラスメイトのことを考えていて、正直鬱陶しかった。もちろんそんなことを言えば姉は憤慨するので、黙って家を出てきた。
晩春の心地良い風と、燦々と降り注ぐ陽の光を全身に感じ、軽快に自転車を走らせる。悩み事なんて吹き飛んでいきそうなほど、気持ちの良い朝だ。こんな爽やかな朝でも、俺のクラスの連中は悩み続けている。本当に厄介なクラスになってしまったなぁ、と改めて思う。
学校に着いて下駄箱で靴を履いていると、ちょうど川原田が登校してきて目が合った。
【じろじろ見てんじゃねえよ、くそが】
朝から心の中で悪態をつかれ、げんなりする。人のことは言えないけれど、相変わらず太々しい奴だ。
教室に入ると早速雪乃と目が合う。
【おはよう。昨日の調査報告、放課後に教えてね】
小さく微笑みながら、雪乃は心の中で言った。この日も返事をせず、真っ直ぐに自分の席へ向かう。
席に着くと、ほぼ同じタイミングで自分の席に着いた川原田に目を向ける。佐藤だったか斎藤だったか忘れたが、そいつは川原田と雑談を交わしている。彼と川原田が一緒にいるところは、たまに見かける。
【うぜえんだよ、話しかけてくんな】
この二人は仲が良いのか悪いのか、よく分からない関係だ。川原田は内心悪態をついているが、表情を見る限りは楽しそうに話している。
そして予鈴が鳴り、佐藤だったか斎藤だったか、彼は自分の席へと戻っていく。川原田はそいつの背中を睨みつけていて、思わずゾッとした。
【こいつ、いつ殺そうかな】
その言葉で確信した。川原田の殺したい人物は、佐藤もしくは斎藤だ。正確な名前は後で調べるとして、ようやく全貌が見えてきた。
川原田の恋人と佐藤(仮)が浮気をし、それに気づいた川原田は怒り心頭で、佐藤(仮)に殺意を抱いた。川原田の怒りがどれほどのものなのか俺には計り知れないが、それは果たして殺すほどのことなのだろうか。浮気をされたら腹が立つのは、恋愛経験の乏しい俺でもなんとなく分かる。けれど人生を棒に振ってまで復讐をしたいと思うだろうか。そこだけは理解できなかった。
とりあえず放課後になったら、雪乃に相談してみよう。そう思いながらノートを開き、川原田のことをまとめているページに、新たに得た情報を書き足した。
『川原田の殺したい人物が判明。それは川原田の恋人と浮気をしたと思われる佐藤(仮)』
ノートを閉じ、机の中に入れる。早く放課後にならないかなぁ、と欠伸をしながら時間が流れるのを待った。
「なあ小泉、川原田いるだろ? あいつと仲の良い佐藤だったか斎藤だったか忘れたけど、あいつについてなんか知ってる?」
昼休み、姉が作ってくれたしょっぱい卵焼きを口に運びながら、俺は小泉に小声で問いかけた。
「ああ、武藤のことか? サッカー部の奴だろ? あいつら幼馴染らしいよ。小学校の時から一緒らしい」
「……そうそう、武藤な。じゃあ相当仲良いんだな、あいつら」
「仲良いと思うよ。それがどうかした?」
「いや、なんでもない」
佐藤でも斎藤でもなかった武藤は、親友であるはずの川原田の恋人に手を出した。信じていた友達に裏切られたのだ。川原田が怒り狂うのも分からなくはない。けれどやっぱり殺すほどのことではないような気もする。
ため息をつきながら、ちらりと雪乃に目を向ける。
【ミニトマト、ミートボール、ご飯、たこ焼き、黒豆、ブロッコリー】
丸っこい食べ物が多いな、と心の中で突っ込みを入れて、ふりかけご飯を一気に掻き込んだ。
その日の放課後、俺は席に座ったまま頬杖をつき、下校していくクラスメイトたちを眺めていた。
これから部活に行く者、バイトに行く者、友達とカラオケに行く者、学習塾に行く者など、放課後の予定は様々だった。
まだ教室に残っていた川原田に視線を送る。彼はゆっくりと立ち上がり、鞄を乱暴に肩にかけ、教室を出ていく。
【明日だ。明日ぶっ殺してやる。ナイフが必要だな。帰りに買ってくか】
川原田の背中を見送っていると、そんな言葉が俺の頭に届いた。
鬼の形相の川原田が武藤にナイフを突き立てる。武藤は深く突き刺さったナイフの柄を握り、「どうして……」と震える声で呟き、その場に崩れ落ちる。赤い鮮血が、床を染め上げる。川原田は倒れる武藤を見下ろし、狂ったように笑う。そんな映像が、ふいに頭の中で再生された。
一方の武藤は、白のエナメルバッグを肩にかけ、楽しそうに女子たちと雑談を交わしている。彼は短髪で爽やかで、いわゆるイケてる男子生徒だ。明日幼馴染に刺されることも知らずに、呑気に笑ってやがる。伝えるべきか悩んでいると、武藤は教室を出ていった。どうやらこれからサッカー部の練習があるらしい。明日死ぬかもしれないのに、ボールなんか蹴っている場合か、と言ってやりたいが説明しても信じてくれるはずがない。
さらに十五分ほどその場に留まり、俺と雪乃を除く生徒たちは下校し、教室内は静寂に包まれる。雪乃はこの日も、開け放した窓から身を乗り出して外の景色を眺めている。毎日毎日同じ時間に同じ空を眺めて、何が楽しいのだろうか。こいつは他にすることがないのだろうか。
【鳥が飛んでる】
「そりゃあ飛ぶだろうよ。なんせ鳥なんだからな」
雪乃の心の呟きに、俺はすかさず突っ込みを入れる。
【どうだった? 川原田くん、どんな感じ?】
雪乃は振り返らずに、空を見上げたまま言った。
「けっこう逼迫してるよ。川原田の殺したい人物も分かった」
【私、たぶん分かるよ。当ててみていい?】
雪乃は振り返り、にっこりと笑う。まるで好きな人が誰かを当てる時のような言い方と笑顔だ。今雪乃が当てようとしているのは、川原田が殺害を企てている人物なのだ。もう少し相応しい言い方と表情があるだろうと思ったが、俺は頷いて雪乃の次の言葉を待った。
【名前なんだったかな。佐藤くん? 違う。斎藤くん?】
「武藤だろ。藤しか合ってないだろ。クラスメイトの名前はしっかり覚えろよ」
自分のことは棚に上げ、俺はため息交じりに言った。雪乃は合点がいったようで、それそれ、と頷いた。
【あの二人、いつも一緒にいるからそうなんじゃないかなって思った】
「ああ。武藤が川原田の恋人の浮気相手らしい。しかも川原田の奴、明日武藤を殺すってさっき言ってた。ナイフを持ってくるとも言ってたな」
雪乃はしばらく考え込んで、【私がなんとかしてみる】と難しい顔をして言った。
「なんとかって、どうするんだよ。また黒板に書くのか? 川原田は武藤を殺そうとしてるって」
【うーん、それだとストレート過ぎない?】
藍田の時はストレートに書いたくせに、雪乃はそんなことを言う。
「じゃあなんて書くんだよ」
【うーん、もう少し考えてみるね。明日、楽しみにしてて】
雪乃は立ち上がり、窓をピシャリと閉める。窓を閉めた時の音が思いのほか大きくて、彼女は自分で驚いていた。俺の視線に気づいて、彼女は照れ臭そうに教室を出ていった。
雪乃が閉めた窓を開け、ぼんやりと色が変わりつつある空を眺める。
このクラスはどうなってしまうんだろうか。川原田だけではなく、まだまだ悩んでいる生徒は他にもいた。
──私には、碧くんも何かに悩んでるように見える。
そう言った雪乃の言葉が、ふいに蘇った。その妙に突き刺さる言葉を振り払うように、俺は勢いよく窓を閉めた。
思いのほか閉めた音が大きくて、身体がビクッと跳ねる。
誰もいなくてよかった、と安堵し、静まり返った教室を後にした。
姉は朝から橋下とかいうクラスメイトのことを考えていて、正直鬱陶しかった。もちろんそんなことを言えば姉は憤慨するので、黙って家を出てきた。
晩春の心地良い風と、燦々と降り注ぐ陽の光を全身に感じ、軽快に自転車を走らせる。悩み事なんて吹き飛んでいきそうなほど、気持ちの良い朝だ。こんな爽やかな朝でも、俺のクラスの連中は悩み続けている。本当に厄介なクラスになってしまったなぁ、と改めて思う。
学校に着いて下駄箱で靴を履いていると、ちょうど川原田が登校してきて目が合った。
【じろじろ見てんじゃねえよ、くそが】
朝から心の中で悪態をつかれ、げんなりする。人のことは言えないけれど、相変わらず太々しい奴だ。
教室に入ると早速雪乃と目が合う。
【おはよう。昨日の調査報告、放課後に教えてね】
小さく微笑みながら、雪乃は心の中で言った。この日も返事をせず、真っ直ぐに自分の席へ向かう。
席に着くと、ほぼ同じタイミングで自分の席に着いた川原田に目を向ける。佐藤だったか斎藤だったか忘れたが、そいつは川原田と雑談を交わしている。彼と川原田が一緒にいるところは、たまに見かける。
【うぜえんだよ、話しかけてくんな】
この二人は仲が良いのか悪いのか、よく分からない関係だ。川原田は内心悪態をついているが、表情を見る限りは楽しそうに話している。
そして予鈴が鳴り、佐藤だったか斎藤だったか、彼は自分の席へと戻っていく。川原田はそいつの背中を睨みつけていて、思わずゾッとした。
【こいつ、いつ殺そうかな】
その言葉で確信した。川原田の殺したい人物は、佐藤もしくは斎藤だ。正確な名前は後で調べるとして、ようやく全貌が見えてきた。
川原田の恋人と佐藤(仮)が浮気をし、それに気づいた川原田は怒り心頭で、佐藤(仮)に殺意を抱いた。川原田の怒りがどれほどのものなのか俺には計り知れないが、それは果たして殺すほどのことなのだろうか。浮気をされたら腹が立つのは、恋愛経験の乏しい俺でもなんとなく分かる。けれど人生を棒に振ってまで復讐をしたいと思うだろうか。そこだけは理解できなかった。
とりあえず放課後になったら、雪乃に相談してみよう。そう思いながらノートを開き、川原田のことをまとめているページに、新たに得た情報を書き足した。
『川原田の殺したい人物が判明。それは川原田の恋人と浮気をしたと思われる佐藤(仮)』
ノートを閉じ、机の中に入れる。早く放課後にならないかなぁ、と欠伸をしながら時間が流れるのを待った。
「なあ小泉、川原田いるだろ? あいつと仲の良い佐藤だったか斎藤だったか忘れたけど、あいつについてなんか知ってる?」
昼休み、姉が作ってくれたしょっぱい卵焼きを口に運びながら、俺は小泉に小声で問いかけた。
「ああ、武藤のことか? サッカー部の奴だろ? あいつら幼馴染らしいよ。小学校の時から一緒らしい」
「……そうそう、武藤な。じゃあ相当仲良いんだな、あいつら」
「仲良いと思うよ。それがどうかした?」
「いや、なんでもない」
佐藤でも斎藤でもなかった武藤は、親友であるはずの川原田の恋人に手を出した。信じていた友達に裏切られたのだ。川原田が怒り狂うのも分からなくはない。けれどやっぱり殺すほどのことではないような気もする。
ため息をつきながら、ちらりと雪乃に目を向ける。
【ミニトマト、ミートボール、ご飯、たこ焼き、黒豆、ブロッコリー】
丸っこい食べ物が多いな、と心の中で突っ込みを入れて、ふりかけご飯を一気に掻き込んだ。
その日の放課後、俺は席に座ったまま頬杖をつき、下校していくクラスメイトたちを眺めていた。
これから部活に行く者、バイトに行く者、友達とカラオケに行く者、学習塾に行く者など、放課後の予定は様々だった。
まだ教室に残っていた川原田に視線を送る。彼はゆっくりと立ち上がり、鞄を乱暴に肩にかけ、教室を出ていく。
【明日だ。明日ぶっ殺してやる。ナイフが必要だな。帰りに買ってくか】
川原田の背中を見送っていると、そんな言葉が俺の頭に届いた。
鬼の形相の川原田が武藤にナイフを突き立てる。武藤は深く突き刺さったナイフの柄を握り、「どうして……」と震える声で呟き、その場に崩れ落ちる。赤い鮮血が、床を染め上げる。川原田は倒れる武藤を見下ろし、狂ったように笑う。そんな映像が、ふいに頭の中で再生された。
一方の武藤は、白のエナメルバッグを肩にかけ、楽しそうに女子たちと雑談を交わしている。彼は短髪で爽やかで、いわゆるイケてる男子生徒だ。明日幼馴染に刺されることも知らずに、呑気に笑ってやがる。伝えるべきか悩んでいると、武藤は教室を出ていった。どうやらこれからサッカー部の練習があるらしい。明日死ぬかもしれないのに、ボールなんか蹴っている場合か、と言ってやりたいが説明しても信じてくれるはずがない。
さらに十五分ほどその場に留まり、俺と雪乃を除く生徒たちは下校し、教室内は静寂に包まれる。雪乃はこの日も、開け放した窓から身を乗り出して外の景色を眺めている。毎日毎日同じ時間に同じ空を眺めて、何が楽しいのだろうか。こいつは他にすることがないのだろうか。
【鳥が飛んでる】
「そりゃあ飛ぶだろうよ。なんせ鳥なんだからな」
雪乃の心の呟きに、俺はすかさず突っ込みを入れる。
【どうだった? 川原田くん、どんな感じ?】
雪乃は振り返らずに、空を見上げたまま言った。
「けっこう逼迫してるよ。川原田の殺したい人物も分かった」
【私、たぶん分かるよ。当ててみていい?】
雪乃は振り返り、にっこりと笑う。まるで好きな人が誰かを当てる時のような言い方と笑顔だ。今雪乃が当てようとしているのは、川原田が殺害を企てている人物なのだ。もう少し相応しい言い方と表情があるだろうと思ったが、俺は頷いて雪乃の次の言葉を待った。
【名前なんだったかな。佐藤くん? 違う。斎藤くん?】
「武藤だろ。藤しか合ってないだろ。クラスメイトの名前はしっかり覚えろよ」
自分のことは棚に上げ、俺はため息交じりに言った。雪乃は合点がいったようで、それそれ、と頷いた。
【あの二人、いつも一緒にいるからそうなんじゃないかなって思った】
「ああ。武藤が川原田の恋人の浮気相手らしい。しかも川原田の奴、明日武藤を殺すってさっき言ってた。ナイフを持ってくるとも言ってたな」
雪乃はしばらく考え込んで、【私がなんとかしてみる】と難しい顔をして言った。
「なんとかって、どうするんだよ。また黒板に書くのか? 川原田は武藤を殺そうとしてるって」
【うーん、それだとストレート過ぎない?】
藍田の時はストレートに書いたくせに、雪乃はそんなことを言う。
「じゃあなんて書くんだよ」
【うーん、もう少し考えてみるね。明日、楽しみにしてて】
雪乃は立ち上がり、窓をピシャリと閉める。窓を閉めた時の音が思いのほか大きくて、彼女は自分で驚いていた。俺の視線に気づいて、彼女は照れ臭そうに教室を出ていった。
雪乃が閉めた窓を開け、ぼんやりと色が変わりつつある空を眺める。
このクラスはどうなってしまうんだろうか。川原田だけではなく、まだまだ悩んでいる生徒は他にもいた。
──私には、碧くんも何かに悩んでるように見える。
そう言った雪乃の言葉が、ふいに蘇った。その妙に突き刺さる言葉を振り払うように、俺は勢いよく窓を閉めた。
思いのほか閉めた音が大きくて、身体がビクッと跳ねる。
誰もいなくてよかった、と安堵し、静まり返った教室を後にした。