翌朝、姉が作ってくれた弁当を鞄に詰め、俺は重い足取りで家を出た。
 雪乃と顔を合わせるのが気まずくて、一日学校をサボろうかと思った。しかし今朝、姉に叩き起こされ、雪乃ちゃんに謝りなよ、と再度念を押され不承不承家を出てきた。これが母さんであったなら反発し、部屋に引きこもっていただろうが俺は姉には敵わない。母さんよ、俺の心の平穏のためにも戻ってきてくれ、と願いながらペダルを漕ぐ。本当にもう、戻ってきてくれないのだろうか、とも思った。
 小泉と会話をしながら自転車を走らせていたが、何を話したのかは覚えていない。気づけば学校に着いていた。

 教室に入るとすぐに雪乃と目が合った。【おはよう】と彼女はいつものように俺に挨拶して、俺もいつものように無視して自分の席へ向かう。
 なるべく雪乃のほうを見ずに、俺は小泉たちと授業の始まりまで雑談をする。昨日やっていたお笑い番組の話などをして、それなりに盛り上がった。いつもと変わらない朝だが、少し居づらい気持ちもあった。

 予鈴が鳴って担任の藤木先生が教室に入って来たが、一名欠席者がいた。ある程度予想はしていたが、やはり来ていないのは藍田さやかだった。あれだけのことがあったのだ。彼女が欠席するのも無理はない。でも、これでよかったのだろう。後は藍田本人と、藍田と仲のいい二人の友達が相談相手になり、なんらかの答えを導き出すのだろう。

【一時間目は数学かぁ。嫌だなぁ】

 雪乃を一瞥すると、彼女はいつも通り呑気なことを考えていた。

 この日は雪乃に対するいじめが、いつにも増して酷かった。藍田が欠席したことで怒りのはけ口を失った井浦は、元々のターゲットである雪乃に酷く当たった。紙くず投げはもちろんのこと、雪乃がトイレに行っている間に教科書をゴミ箱に入れられ、さらに体育が終わるとスカートを隠されたらしく、午後の授業からはジャージ姿だった。当然だが雪乃を助けたり庇う者は一人もいない。新学期が始まってから一ヶ月と少し。もはやこれがこのクラスの日常なのだ。

 雪乃のスカートは藍田の机の中に隠されているが、そんなことは俺以外知るはずもなく、結局放課後になるまで雪乃はジャージ姿のままだった。
 俺は机に突っ伏して、寝たフリを決め込んで生徒たちが下校するのを待った。
 教室内がようやく静かになったところで、俺はゆっくりと顔を上げる。がらんとした教室の窓際の席に、ぽつんと一人生徒が残っていた。ジャージ姿の雪乃令美だ。

「スカート、藍田の机の中に入ってるよ」

 雪乃の小さな身体がびくっと跳ねた。そしてすぐに席を立ち、小走りで藍田の席へ向かう。
 椅子を引き、雪乃はしゃがみ込んで机の中から丸められたスカートを取り出した。

【よかったぁ。残りの高校生活ジャージ姿で過ごすのかと思ったぁ】

 最悪買い直せばそんなことにはならないのだが、雪乃のホッとした表情を見て、俺は突っ込むのをやめた。

【教えてくれてありがとう】

 雪乃は小さく頭を下げ、再び自分の席へ戻る。昨日のことがあって少し気まずく、俺は「おう」とだけ答えて視線を逸らした。
 しばらくの沈黙が流れる。雪乃は開け放した窓から、茜色に染まりだした夕空を見上げていた。

 ──雪乃ちゃんに謝りなさいよ。

 ふいに姉の言葉がよぎる。分かってるよ、と姉の言葉を追い払う。俺は自分の席に座ったまま、しばし逡巡したのち口を開いた。

「そういえばさ、なんで雪乃って、いつも放課後教室に残ってんの?」

 昨日のことを謝るつもりでいたが、そんな言葉が口を衝いて出た。雪乃は空を仰いだまま、心の中で語り出した。

【誰もいない静かな教室がね、私は好きなんだぁ。窓から下校していく生徒を眺めたり、ただぼんやりと空を眺めたり、時計の秒針の音を聴いたり、そうやってボーッとできる時間はね、放課後のこの時間だけなんだぁ】

 相変わらず変わってる奴だな、と俺は苦笑した。

「ボーッとするだけなら家でもできるじゃん。授業が終わったらさっさと家に帰ってボーッとすればいいじゃん」
【家でボーッとするのと、学校でボーッとするのは別物なんだよ。碧くんも家で勉強するより学校で勉強するほうが捗るでしょ? それと同じで私も学校でボーッとするほうが捗るの】
「ああ、そ、そうだな」

 なんとなく分からないでもないが、彼女なりにこだわりがあるらしい。世の中にはいろんな趣味を持った奴がいるんだな、とこれ以上突っ込むのは面倒なので自己完結しておいた。

【藍田さん、大丈夫かなぁ】

 その言葉に、一瞬どきりとした。先に藍田の話題を出され、言葉に詰まる。

【藍田さん、大丈夫かなぁ】

 雪乃は同じ言葉を繰り返した。俺が雪乃から視線を逸らし、聞き逃したと思ったのだろうか。それがなんだか可笑しくて、思わず吹き出してしまった。

【どうしたの?】

 雪乃は振り返り、目を丸くする。

「いや、なんでもない。藍田は、たぶん大丈夫じゃないかな。なんとなくだけど、これでよかったんだと思う」

 そう言うと雪乃はにっこりと微笑んだ。

【藍田さん、後悔しない選択をしてほしいなぁ】
「そうだな。どっちを選んでも苦労するだろうけど、後悔だけはしてほしくないな。じゃないと、俺と雪乃が浮かばれない」

 そうだね、と雪乃は破顔する。それから【ジャージ姿で帰るの嫌だから、着替えたいんだけど】と顔を赤らめて言った。
「お、おう」俺は慌てて廊下側に顔を向ける。
 ごそごそと、雪乃は背後で服を着替え始める。別に雪乃を女として見たことは一度もないが、やけにドキドキした。

 数分後、そろそろいいだろうかと思い、ゆっくりと振り返る。振り返った瞬間、俺の顔面に何かがぶつかって床に落ちた。
 転がっていたのは丸められた紙くずだった。
【あはは】と制服に着替え終えた雪乃は笑う。俺は紙くずを拾い上げ、振りかぶって投げ返す。
 雪乃はひょいとかわし、鞄を肩にかけ逃げるように教室を出ていく。
 彼女はドアの前で立ち止まると、ゆっくりと振り返った。

【まだまだ悩んでる人はいると思うから、もっと探ってみて!】

 真剣な顔で、雪乃は訴えかける。どうしてそこまでクラスメイトたちの力になりたいのか、俺には理解できない。自分がいじめられていて、それを見て見ぬ振りをしている奴らなのに。

【また明日ね】

 スキップをしながら、雪乃は教室を出ていった。結局昨日のこと、謝れなかったなぁと思いながら、ぼんやりと暮れていく窓の外を眺める。
 数分後、スキップをしながら学校の玄関から出ていく雪乃の姿が現れた。俺は苦笑しながら、軽快に去っていく雪乃の背中を見送った。