悟は目蓋を閉じていた───。

墨汁を含んだ習字の筆がバケツの水に浸かるとき出現する黒い蛇のような連なりが、ゆらゆらと悟の周囲を漂う。海にしては蒼さはない。

黒い水中、いや──黝色 (ゆうしょく)消炭色 (けしずみいろ)黒橡 (くろつるばみ)といった多種多様な黒が漂う流動体といったほうがよいだろう。

その中で悟は落ちてゆくわけでもなく、かといって浮き上がるわけでもなく、まるで深淵の中に閉じ込められているようであった。

そこに苦しさはない。そういった檻に閉じ込められているようである。


重たい……。


悟は目を開くのもやっとのことで、首を動かすことも手を動かすのもままならない。重たいというのは重力的な負荷ではなく、身体に纏わりつく倦怠感からくるものと類似していた。

「────────$€#<%@&⁉︎……」


……? なんて? 誰?


悟に届いた音は流動体に溶け込むように消え入る。音は何かを訴えかけているようで、それが音ではなく人間の声だとなんとなく認識できた。

「───て、───る⁉︎─── €#<%@&⁉︎ ……」


聞こえないよ。大きな声じゃないと──。


「さ───⁉︎ お───‼︎ ───を──て!」


あと、もう少し。


悟に語りかける声は、はじめよりは聞き取れるようになってきた。だが、まだ足りない。それは声の主との距離がなのか、声量がなのかはわからない。

距離を詰めれば聞こえるのではないかと悟は考え、重い身体を無理矢理持ち上げてどうにか右腕を声の方へ伸ばした。腕を伸ばしただけで距離が縮まるはずがないことはわかっている。

悟は、伸ばした右手で流動体を掻いて距離を詰めるつもりであったが、伸ばすのが精一杯で粗大な動作をするのは困難だと気がつく。


あぁ、駄目だ。重たい、眠たい……。


伸ばした右腕は限界を迎えて弛緩し、だらりと体幹の側に戻る。やっとのことで開眼した目も閉眼する。


瞬間─────、


「「起きて! 悟!」」


その声に、その声の大きさに驚愕し反射的に目蓋を持ち上げた。

視界が胡粉色(真っ白)に染まる。刹那、ホワイトアウト現象が起きた。


「「悟‼︎」」


その先に見えたのは悟の両親の顔だった。