時間は少しだけ巻き戻って、拓斗が受付からの内線をとった頃――。

私立東京立志大学の大教室で、奥崎拓斗の二歳下の弟・奥崎海翔は大学一年生相手に『源氏物語』の講義をしていた。

メガネを直しながら、テキストを進めていく。

色白で細身ながら姿勢が良く、顔立ちも端正で、いかにも知的な雰囲気が漂っていた。

白いシャツと紺のカーディガンがとても似合っている。

「このとき、光源氏がどのような行動をとったかというと――」

マイクで声を大きくしているものの、海翔の声は小さかった。拓斗の半分もない。
マイクの恩恵にあずかれる大学の先生になれてよかったと海翔は常々思っていた。

しかし、春先の午後一の授業で海翔のウィスパーボイスは安眠への誘いでしかない。

必修科目のため大教室の半分程度の席を学生が埋めているが、その半数――その多くは男子――は机に突っ伏していた。

海翔が『源氏物語』に出てくる歌をふたつ紹介したときだった。

教室前方、つまり海翔のそばのドアが静かに空いた。

「ん?」

マイクが海翔の疑問する声を拾う。起きて真面目に授業を聞いていた学生たちの視線がドアに集まった。

ゆっくり開いたドアの向こうから現れたのは、リュックサックを背負った小さな男の子だった。

年齢は四歳くらい。

眉がやさしげに下がっていて、泣き顔のように見えるのが特徴的だった。

何だか守ってあげなければいけないような気持ちになる。

目尻も下がっているが、黒目がちでまつげがたっぷり生えていた。

いかにも子供らしい桃色の頬に小さな鼻と口がついていた。

かすかに開いた口があどけない。

不安げに中をのぞき込む男の子のかわいさに、女子学生たちが黄色い声を上げた。
その歓声に男の子がびくりとする。
その反応がかわいくて、ますます学生たちは騒いだ。
寝ていた学生たちも目を覚まし出す。

静かに、と一応注意して、海翔はその子に近づいてしゃがんだ。

大学関係者の子供か、近隣の子供が迷子になったのか。

「きみはどこからきたのかな?」

海翔が目線をあわせて質問すると、男の子の目に涙が浮かんだ。


「パパ」


一拍おいて男の子は海翔にそう呼びかけ、ひしっと海翔に抱きついた。

「きゃーーーー!」

「先生の子供ですか!?」

「かーわいー!」

「名前は何て言うんですか?」

学生たちは大騒ぎである。その学生たちには何も答えず、眉をひそめた海翔はその男の子に質問した。

「えっと。どちらさまで?」