プロローグ


昼食を食べて一時間もしないうちに、営業の奥崎拓斗はプレゼンの準備が睡魔との戦いになっていた。

拓斗の席は西側。傾いてきた日の光にほどよく温められるのだから仕方がないと心の中で言い訳する。

拓斗は先ほどからフォルダを開けたり閉じたりを繰り返して、マウスはさっきから意味のない動きをしていた。

あくびを噛み殺し、明日の大手コンビニ惣菜部の商品企画会議用の資料を作らなければいけないのだが、脳は真っ白だ。

眠気でぼんやりしているのをごまかそうと、いつもより逆に目力を込めている。

顔立ちそのものは悪くない。すらりとした眉にまつげの長い目。外回りのせいで肌は健康的な色をしていて、開豁そうな印象を与えるのだが、真面目な表情をするとどこか違和感がある、そんな男だった。

いまは上着を脱いで、ストライプの入ったワイシャツの腕をまくり、赤いネクタイも緩めている。
腕時計は海外ブランドの機械式で、ストレートチップの磨き込まれた革靴を履いていた。
これで、ネクタイをきちんと締め直して、脱いでいるクラシカルなシルエットの背広を羽織り、黙っていればエリート社員という感じなのだが……。


「やっべ、マジ眠ぃ」


冷たくなったコーヒーを啜っても、茶色の髪を乱暴にかいても眠いものは眠い。

拓斗の勤める『日の出食品産業』は国内屈指の大手食品卸会社。
主に冷凍食品を扱っている。
人数が多いからひとりくらい寝ててもバレはしない……。


隣の席と共有の電話が鳴った。受付からの内線だ。

いつもなら隣の戸塚が取ってくれるのだが、あいにく外回りに出ている。使えない奴だよなと思う。
戸塚は拓斗の一歳年下。口のうまい軽い男で、後輩のくせに「奥崎さんには負けますよ」とか言うので電話番にしているのだが。

拓斗は仕方なく受話器に手を伸ばした。

「はーい。営業二課、奥崎が取りました」

『こちら受付の坂井です』と、きれいなソプラノが耳に響いた。

拓斗は少しだけ目が覚めた。いまの時間の受付は坂井だったか。高卒で就職して二年目。ショートヘアのかわいい女の子だ。
まだまだ世間ズレしていないところがいい。戸塚とふたりで近いうちに食事に誘いたいと言い合っている。

「はい、お疲れさまです」と拓斗は声のトーンを外行きにした。

『お疲れさまでございます。いま受付に、その……奥崎さん宛ての、お客さまがいらしてて……』

坂井にしては珍しくつっかえつっかえの電話だった。

いつもよどみなく流れるようにしゃべるきれいな声が特徴なのに。ひょっとして俺あての電話で意識しちゃったのかなと一瞬思ったが、来年三十歳なのにその発想はおめでたすぎるのでやめた。

となれば、考えられるのは妙なクレーマーか、学生時代の同期を名乗っての保険の売り込みか。

いずれにしても面倒な相手なのだろう。相手が目の前にいるせいか、坂井の声が小さかったし。

面倒な相手は拓斗にも面倒なのだが、坂井に追い返してもらうのも悪い。

眠気覚ましに合法的に受付まで歩けるのだから、まあいいか。

「そうですか。分かりました」

と言って内線を切った。

立ち上がってあくびをしながらホワイトボードに『来客』と書いてフロアを出る。

まさかこれが、自分の運命を大きく変えてしまう出来事であるとは気づきもせずに……。